第53話  樹  異界

文字数 2,043文字

樹は川の土手道を歩いていた。
とぼとぼと歩く。
靴は履いていなかった。
どこかで無くしたのかも知れない。
土手道の左手に川、そして右手には山々が迫っていた。

土手道は昔、祖母と手を繋いで歩いた、あの川沿いの道にも思えた。
川幅はその3倍程度。泳げば何とかなりそうだった。
だが・・

川の向こうに岸は無かった。
川向こうは断崖絶壁になっていたのである。
来る者を完全拒否する断崖絶壁。
樹は立ち止まって歩いて来た道を振り返った。道は延々と続いていた。
それに沿った屏風の様な絶壁も。左手の山も。
行く先も同じような風景がずっと続いていた。

樹はたった独りだった。
どこを探しても由瑞の姿は無かった。
由瑞はどこへ行ってしまったのだろうと思った。

どうどうと流れ落ちる滝の音を覚えていた。
由瑞が「ずっと一緒だ」と言った事も。
「絶対に離れないで」と言った事も。
最後の最後にウタを呼んだ。必死でウタを呼んで、川の水が余りに冷たくて、それで意識が朦朧として・・・。
自分も「決して離れない」って言ったのに、結局離れてしまった。

自分が現世に居ない事は分かっている。
こんな延々と続く川と崖なんて無いでしょう?現世に。
それに青いし。何もかもが青一色だし。
もうずっと歩いているのに、風景が変わらない。

「私、滝に落ちちゃったのかな・・?」
「由瑞さん。助かったのかな・・・?ウタが助けてくれたのかしら?それならいいんだけれど・・・」

由瑞が死んだなんて考えたくなかった。
ちょっとでもそんな考えが浮かぶと涙が浮かんで、どうしていいか分からなくなってしまう。辛くて堪らない。悲しみでこの身がバラバラに千切れそうだ。
それだったら自分が死んだ方がマシだ。
だからそれは絶対に無いからと自分に言い聞かせた。

「大丈夫。大丈夫。彼はウタが助けてくれた。すごく強い人だから絶対に大丈夫。それで現世に戻って、その新しい彼女と、もう新しい道を歩み始めている。・・・・大丈夫。彼はもうその人と・・・・」
そう思うと、どうしようもなく胸が痛んだ。
けれど、それでいいんだと自分に言う。
彼が現世で幸せになればいい。
それで十分です。
お釣りが来る位ですから。

樹は半分眠りながら聞いた由瑞の声を思い出した。
まるで子守歌の様な優しい声だった。
だが、その内容は覚えていなかった。
「うん」と返した事すら覚えていなかった。

しかし、川で最後に聞いた言葉、あれは覚えていた。
『愛している』って言った。多分だけれど。
あれは現実だったのか、それとも幻聴だったのか・・・もう一度彼に確認したいと思った。
しかし、『愛している』と言ったとしても、由瑞はあの寺で言っていたから。
「愛していると言っても夢の中の事だと思えばいい。ここだけの事だと」
その言葉を何度も思い返す。

樹は立ち止まって空を見上げて、ぽつりと呟く。
「だって、あんなにはっきりと言っていたもの・・。ここでの事は夢だと思えばいいって。今度こそ、新しい彼女と新しい道を歩いて行くって・・・・。だって、朱華さんに似ているのだもの。そりゃあ、最強だよ・・・」

だが。

樹は歩き出す。
現世に戻ったとしても、もう融と夫婦でいる事は出来ない。由瑞とあんなキスをしてしまったら、もう無理でしょう。
・・・無理だよ。今度こそ無理に決まっている。
自分で言って自分で答える。
幾ら由瑞が他の人と結婚をしても、もう、融と一緒にいる事は出来ない。
由瑞が言った様に、これを胸に秘めて融と一緒に暮らす事は無理だ。
彼が大切だからこそ出来ないし、辛過ぎると思った。
また、彼を傷付けてしまう。あんなに優しい人を。
自分が病んでいる時も変わらず愛してくれた。

融の優しい笑顔を思い出す。切なくて涙が溢れて来た。

これを浮気と言うのだろうか?
そんな軽いモノでは無い。そんな軽い想いでは無い。
由瑞の事はもう自分の一部に思えた。
魂の半分。体の半分。
じゃあ、融は?
融君も魂の半分で・・。
んじゃ、お前のはどこにあるんだよ。樹の魂は。・・・どこにも無いじゃん!零かよ!
樹は自分に突っ込む。

ふと手紙の事を思い出した。
怒涛の災難続きで記憶の隅に追いやられていたのだが、今頃思い出したらしい。
何が切っ掛けと言ったら、それはあの手紙とあの女である。
あの女。笑顔がめっちゃ怖かった。あの冷たい目。何?あれ?もしかしたら嫉妬の目?

「ねえ。融君。あの女の人と何かあったの?・・・まさか浮気?」
・・・いや、無い無い。
彼に限ってそんな事は有り得ない。絶対に有り得ない。
だったら、何か深い事情が・・???
「どんな事情だよ!・・・くそっ!こんな事なら手紙を読んでくれば良かった!」

樹はそうやって時には涙を流し、時にはしんみりとした思いに浸り、時には怒りながら歩いた。
心はあちこちに飛び回って全く安定しなかった。
「畜生!どこまで続いているんだよ。この道は!!」
そうやって地団太を踏んで叫んだ。

「バカヤロー!」
樹は渾身の力を込めて、絶壁に向かって叫んだ。
「バカヤロー。バカヤロー。バカヤロー・・・・」
声は腹立たしい位に何度も木霊した。






ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み