第29話  異界  樹と由瑞 5

文字数 1,532文字

由瑞は目を瞑って考えを巡らせていた。

まるで子供だ。子供みたいな屁理屈だ。拗ねて意地悪を言ってみて・・。
取り付く島も無い言い方だ。「目障り」なんて・・・・酷い言葉を言ってしまった。

だが、自分もショックだったのだ。樹の言葉が。命懸けで助けた女に怯えた目で見られた事が辛かったのだ。
俺がこの(てい)たらく・・。情けなくて恥ずかしい。
由瑞は自嘲する。プライドも何もあったものじゃない。
彼女も驚いたのだから仕方がない。そう自分に言っても、やはり傷付いたのだ。
赤津もきっとこんな反応が怖かったに違いない。


何を言われても、何があっても、彼女を守って行けると思っていた自分が酷く遠くに感じた。


由瑞は自分の中にため込んだものの深刻さを今更ながら思い知った。
傷は癒えて甘くて切ない思い出だけが残ったと思ったのに。
自分は自分が考えていたよりも、もっと傷付いていたのだと知った。

彼女をまだ愛している。あの頃と同じように愛している。ちっとも諦め切れていない。
そう思った。
実際に会って言葉を交わせば平常心ではいられなくなる。
傷付いた心が疼いた。切なさと嫉妬心と。
彼女に会いたかった。会って抱き締めたかった。声を聞きたかった。笑顔を見たかった。
だが、自分で決めた取り決めを崩す事は出来なかった。

あの『さようなら』の手紙をもらった時の悲しさ。
まるで昨日の事の様にそれが蘇る。
この二年の月日がまるで無かったものの様に感じられた。
心の傷に瘡蓋が出来たはずなのに、それが剥がれて、また新しい血が流れ出す。


樹が愛しくて、そして憎かった。
手の届くところにいて、手が届かない。
樹は赤津を選んだのだ。それはある意味、仕方が無かった。自分でそう仕向けたのだから。それは自業自得だ。そう言い聞かせても納得しない自分がいる。
だったら、何で彼女はこんな場所に俺といるのだ?
俺は何で彼女とここにいるのだ?
「目障り」なんて言う位だったら、捨てて置けば良かったのに。
あの池で。
手なんか差し出さなければ良かったのに。
放って置けば良かったのに。

そんな事が出来る筈は無い。彼女を助けるのに何の躊躇も無かった。
本当の事を言うなら怪我なんか何でも無い。
それなのにここへ来て、こんなにも彼女を傷付けている・・・


由瑞は自分の言葉に傷付き、そして混乱していた。この混乱は由瑞を酷く困惑させた。
経験のない混乱だった。
自分の心ながら、手に負えないと思った。
由瑞は自分を持て余す。


傷付いた腕を動かしてみる。激痛が走る。だが、出血は落ち付いたらしい。
由瑞はぶるりと震えた。
さっき池で濡れたせいか酷く寒い。
ふと、樹も寒いんじゃないのかなと思った。
だが、今更何て彼女に言えばいいのか・・。


目を開けて仏像を見上げた時、突然啓示が下りて来た。
由瑞は呆けた様に薬師如来を見詰めた。
そしてむくりと起き上がって胡坐をかいた。
如来像と対峙する。
穏やかな半眼が由瑞を見下ろす。

自分の心と戦っても勝てない。
だから諦めなさい。
それはそう言っている様に思えた。


振り返って樹を見る。
樹は背中を丸めて何かをやっている。
どこかの動物園で見た感じがする。屈みこんで毛繕いをする猿。
それを彷彿とさせる後ろ姿。背中に哀愁が漂っている。
その後姿に深い愛しさと憐憫の情が湧く。酷い態度を取ってしまった・・・。可哀想な事をしてしまった。こんな状況に陥るなんて、樹だってまるで予想もしなかった事なのに・・・。
由瑞は心から済まないと思った。

傍にそっと近寄って後ろから覗いた。

樹は泣いていた。
涙をぼろぼろとこぼしながら、「可哀想に。可哀想に・・」と言っていた。
最後に何故か「南無阿弥陀仏」と付け加えて・・そうしたら足をがっちりと掴んでいた手が消えた。手は床に落ちて黒い染みを作った。
由瑞は目を見張った。


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