7-13:絶対小説(1)
文字数 1,688文字
どうやら今いる時間軸は最初に夢から覚めた直後、つまり一周目の絶対小説が幕を閉じ、その後に妹とあって別れたところのようだった。
しかしそうなると、実家に帰ってから埼玉の工場に取材へ行くまでの一年間はどこに消えてしまったのだろう?
さてはあの記憶でさえも、ぼくが作りあげた内的世界の一部だったのだろうか。
なんて考えていると、なにが現実でなにが夢なのかいよいよ判別がつかなくなってくるのだけど……今はそんな些細なことはどうでもよくて、ぼくは夜空に浮かぶ月に呟いた。
「なあ、どこにいるんだい。まことさん」
そう、やらなきゃいけないことがまだ残っているのだ。
今の自分は若かりし兎谷三為ではなく、十年の年月を経て創作の情熱を失いかけていた本当のぼくだ。
でもこの胸に伝えたい言葉は宿っていて、だから君にそれを届けたいと願っている。
未練がましいか?
現実と向きあうと決めたのだから、このまま彼女と再会することなく前に進むべきか?
まことさんがもし、気恥ずかしいロマンティシズムが生みだした偶像にすぎないのなら――絶対小説の語り部ではない今のぼくは、ただのぼくでしかないぼくは、お別れの挨拶もなしに結末を迎えて、新しい物語を書きはじめるべきなのかもしれない。
でも、この胸の中にある言葉は本物だ。君に伝えたい思いは本物なのだ。
だからそれを、信じようと思う。
「なのに名前を呼んでも応えてくれないからさ、正直言って困っているよ。……もしかしてあの世界に置き去りにしてしまったぼくを、恨んでいるのかい。二周目の絶対小説じゃ顔すら見せてくれなかったし、これでもけっこう堪えているんだけど」
それとも呼び方が悪いのだろうか。
思えば出会ったときから、君は本当の名前を教えちゃくれなかった。
そして次に顔を見せたときには、マクガフィン、美代子と、別の人間に変わっていた。
嘘まみれの世界で生きてきた少女は結局最後まで、ありのままの自分を見せてはくれなかった。
ぼくの心はこんなふうに、丸裸にしてしまったのに。
「ひどいじゃないか。ぼくのことを散々もてあそんで、からかって、会うたびに名前を変えて、そのうえ毎度毎度、あんなわけのわからない奇妙な冒険に誘ったくせに。せめて顔を見せてくれ。話をしてくれ。伝えたいことがたくさんあるんだ。ぼくは、君に――」
だけどやっぱり、返事はこない。
夜空の月はぼくの頭上にぽつんと浮かんだまま、つれない態度でそっぽをむいている。
ああ、そうかい。
じゃあここで言わせてもらうよ。
君はそうやって知らんぷりしているけど、本当はもう気づいているんだからな。
二周目の絶対小説は出来の悪い二次創作で、ぼくが本当の自分と向きあうために作られた物語でしかなかった。
でもそれは最初に体験した絶対小説で見逃していたものを、つまりは嘘の中に埋もれていた真実を、見いだすために必要な過程でもあったのだ。
ぼくはふうと息を吐く。
数えきれないほどの言葉を高く高く積みあげて、夜空に浮かぶ月の裏側までたどりつけば、嘘まみれの世界に囚われたままの君に、この思いは届くのだろうか?
いや、たとえ返事がなくても、感想を言うのは自由だ。
なにせこちとら、敬虔なる読者さまなのだから。
「設定はリアリティに欠けるし、話の展開はとっちらかっているし、おかげで本を壁に叩きつけたくなるような思いを何度もしたけど、なんだかんだで最初から最後まで楽しめた。面白かった。夢中になったよ。だから直接、この気持ちを伝えさせてくれないかな」
小説を読むというのは、恋に似ている。
作者にもてあそばれて、手のひらに踊らされて、なのにそれを楽しんでしまう。
そういう意味だと君は、まさしく小説そのものだろう。
だからこれは、呪いじゃない。
そう、ぼくは――。
「君の書いた小説が好きだよ。欧山概念」
つまりはそれが、彼女の名前なのだった。