2-3:溺れる。死ぬ。
文字数 3,877文字
「いや、すごくよかったです。朗読の経験とかおありなんですか?」
「ないですないです。だから冷静になると恥ずかしくなってきました」
話しているうちに機嫌を直したのか、まことさんははにかむように笑う。
彼女の口から紡がれた真実の川のあらすじは、原作の小難しい部分をほどよく解きほぐしており、現代的にアレンジされた児童書のような趣さえあった。
「このお話には複数の解釈がありまして、実は川太郎がたどりついたのは村ではなく、死後の世界だったという説もあるんですよ。わたしはそうではないと考えているのであえて語りませんでしたが、小説にはそう匂わせるような描写もいくつかみられます」
「なるほど。読んだあとに考察するようなところも、文芸小説ならではの楽しみかただと思います」
「かもしれませんね。あとは晩年の芥川龍之介が河童と題した小説を書きましたが、欧山概念のこの短編からインスピレーションを得たという説とか……。内容があまり似ていないので偶然だとわたしは思うのですけど」
まことさんは喋りすぎて喉が乾いたのか、キャンバス地のトートバッグからペットボトルを取りだす。
そのとき中に文庫が入っているのをぼくはめざとく見つけ、
「もしかしてうちのレーベルの新刊ですか、それ」
「あ、はい」
なにげなくたずねたのだが、まことさんはちょっと恥ずかしそうに笑う。
見たところ今年の受賞作――つまりぼくの後輩にあたる作家が書いた、異世界転生ものの作品だ。
「けっこう売れているやつですね。マクガフィンとかいうカタカナのペンネームが珍しいので覚えがあります。ぼくもこういったファンタジーを書いたほうがいいんでしょうかねえ、最近はかなり流行っているみたいなので」
「うーん、書きたいものを書いてみたらいいのではないでしょうか。わたしはそのほうが作家の持ち味を活かせるような気がしますよ」
「でも昔から現実から逃れて異世界に飛びこんでみたいというか、別の自分に生まれ変わってみたいという願望を持つ人は多いみたいですから、そういう層に刺さるのならプロットを練ってみるのも悪くないような……ってすみません、急に仕事の話なんかしちゃって」
まことさんは「いえいえ」と言って笑う。
そして
「川太郎が現代に生まれていたなら、剣と魔法の世界に行ってみたいと考えたかもしれませんね。これ、なかなかいいアイディアではありません? 二次創作として」
ぼくは笑った。ユニークな発想だと思ったからだ。
彼女も小説を書いてみたら、案外よいものができるのではないだろうか。
◇
車窓から眺める平凡な町並は次第に自然の色が濃くなっていき、やがて緑豊かな山間部の景色に変わっていく。目的地の最寄り駅で降りるとそこは今どき珍しい無人改札で、閑散としていたもののこれはこれで風情があった。
移動手段をバスに変え、山間部特有の傾斜とカーブの多い道に揺らされること数十分。ぼくたちはようやく真実の川のモデルとなった土地にたどりつく。
「わあ、山って感じがしますよ兎谷先生」
「そうだね。むしろほかに感想が出てこないほどに山だ」
ぼくのコメントを聞いて、まことさんがほがらかに笑う。
真実の川のモデルとなった村はダム建設によって水没しており、付近にあるほかの村々も存続こそしているものの、今や限界集落となっているという。
作中に登場する渓流の場所もよくわかっていないらしく、今回の取材は周辺を散策しながら「なんとなく雰囲気を味わう」程度のものとなる。
それでも山の清浄な空気に触れれば、なにかしらのインスピレーションが得られるやもしれないが。
季節は夏の終わりぎわ、ようやく九月にさしかかろうというころ。
いまだ日差しが強く蝉の鳴き声がやかましいものの、山間部だけあって都内ほどの険しい暑さではない。
昨日雨が降ったばかりなのだろうか、わずかに地面がぬかるんでいる。
草木から漂う青くさい臭いに、ぼくはふと実家のことを思いだす。
「このあたりは欧山概念の出身地という説もあります。兎谷先生はどこ出身で?」
「群馬だよ。でも山のほうじゃないから田舎というほどじゃ……いや、そうでもないか」
スタバだってある、と言いそうになって踏みとどまる。
あえて主張したらそれこそ田舎まるだしだ。
まことさんは
「焼きまんじゅうおいしいですよね。あの甘じょっぱいタレをかけてあるやつ」
「懐かしいなあ。上京してからもう何年も食べてないよ。群馬は粉どころでね、山のほうは水がきれいだから蕎麦とかうどんも美味しいんだ」
ぼくはそう言いつつ、歩いている道の反対側を流れる小川を見つめた。砂利の間からちょろちょろと水が流れていて、足首ほどの深さしかないので泳ぐことすら難しそうだ。
……もうちょい山をのぼっていけば、真実の川に登場したような、荒々しい渓流とやらがあるのだろうか。
「そういえば、兎谷先生はなにがきっかけで小説を書きはじめたのですか?」
「ん、まあマンガとかラノベが好きだったからだよ」
あまりにも薄味な答えに、我ながら辟易してしまう。
読書家やオタクが小説を書こうと考えるのは自然なことではあるが、だとしても彼女が興味本位でたずねたように、なにかしらのきっかけはあるはずだった。
山の空気がそうさせたのか、さきほど実家のことを思いだしたからか――普段なら絶対にしないような話が、ぼくの口からこぼれおちていく。
「あんまり楽しい話じゃないんだけど……中学のころにショックな出来事があってさ、しばらく学校にいかなかったんだよね。いわゆる引きこもりで、いや、今もあんま外に出ないんだけど、当時はもっとガチなやつ、部屋から一歩も出ないような感じで」
「はあ、兎谷先生も大変だったんですね」
まことさんが神妙な顔でそう言ったので、話題の選択を間違えたかな、と思う。
とはいえ途中で終わりにはできないから、ぼくは古傷を確認するように言葉を紡ぐ。
「で、部屋から出ないと当然やることがないから。ヒマをもてあましたぼくはマンガとかラノベとか、ゲームとかアニメとか、ストーリーがあるものを漁りまくって……とくにハマったのがラノベだったかな」
文章だけで紡がれる物語は、想像力をかきたてる。
ぼくにとってそれは、一度閉じてしまった外の世界の扉を再び開かせるきっかけになった。
「気がついたら自然と部屋から出るようになって、学校にも行くようになって、なんとか社会復帰できたわけ」
「つまり兎谷先生は、小説に人生を救われたのですね」
「おおげさだなあ……。でもそうなのかもしれない。だから今は自分も面白いものを書いて、恩返しをしようとしているのかな」
そんな言葉でしめたあと、ぼくは慣れない自分語りに気恥ずかしさを覚える。
だけどまことさんは笑ったりすることなく、真面目な表情でぼくの話を聞いていてくれた。
話に集中していたからか、ふと見れば景色がだいぶ様変わりしていた。
標高が低いしハイキング感覚だし別にいいかと思って、登山計画書とかは出さなかったのだが……足もとは石がごろごろとしていて歩きにくいし、こころなしか勾配も険しくなっている気がする
おまけにうっすらと霧まで出てきた。
「まことさん、あんまり奥には行かないほうがいいかも」
「そうですねえ。天気も悪くなってきましたし。うわ……前が見えませんよ」
「今の地点ならまだ大丈夫だと思うけど、標高が低くても山は山だし、迷うといけないからすこし引き返そうか」
お互い緊張しつつ、駅があった方向に戻ろうとする。
しかしその間にも霧はどんどん濃くなっていき、自分たちが来た道を引き返しているのか、それとも違う道を歩いているのか、判別することが困難になってきた。
隣のまことさんが不安そうに呟く。
「大丈夫ですよね?」
「たぶん」
ぼくも不安なので自然と言葉が短くなる。
さすがに遭難してしまうことはないと思うのだが、霧のせいで前が見にくいのと足場が悪いのが合わさって、普通に歩くことすらしんどい。
平たいソールのまことさんは、ぼくよりも難儀しているように見えた。
そのうちに緑の匂いが濃くなり、霧の向こうに見える木々の背丈が高くなっていく。どう考えても戻れていないし、ごうごうと奇妙な音まで聞こえてきた。
まことさんが怯えたようにたずねる。
「なんですかね、これ」
「たぶん……水の流れる音?」
ぼくがそう言った直後、先を行くまことさんの身体が宙に浮いた。
なにが起きたのかわからなかった。
だけど身体は動き、ぼくはとっさに彼女の手をつかむ。
「えええええええっ!?」
「うわ、うわ、うわ」
落ちた。
いや、すべった。前に道がなかったのだ。
二人してずざざざざと斜面をすべっていき、やがてどぶんと身体が沈む。
ごうごうごう。ごうごうごう。
川だ。しかも流れが速い。
まことさんの手が、水の中へ、水の中へと、引っぱられていく。
ぼくはがぱがぱと水面に顔を出しながら、必死にその手をたぐりよせる。
溺れる。
死ぬ。
ほかになにも考えられなかった。