4-9: ぼくはただ、楽しみたいから書いているのだ。
文字数 6,204文字
締め切りを間近にひかえた作家を、外界と隔絶された場所に閉じこめ、小説の執筆に専念させる。
そんな非人道的かつ合理的な空間は、ネオノベル編集部のオフィスに実在していた。
「マジかよ……。これじゃほとんど独房じゃないか……」
広さは四畳半ほど。部屋の大半を占めるのは飾り気のない長机とパイプ椅子だ。
卓上に社用と思わしきノートPCがぽつんと置かれているが、ほぼ確実に外と連絡が取れないように対策が施されているだろう。
室内の設備はトイレだけで、表面の黄ばみ具合や台座の傷から、自分が閉じこめられる以前にもたびたび使われていたことがわかる。
おまけにやたらと換気が悪く、なにもしていなくても息苦しさを覚えるほど。トイレで用を足したときのことを想像するだけで、陰鬱な気分になってくる。
それでもぼくは気持ちを切り替えて、ノートPCに向かう。
しかし机に違和感を覚えて目を向けると、木目の表面に『正正正正正正正……』『オウチニカエリタイ』『モウイヤダシニタクナイ』などという文字がいくつも刻まれていた。
筆跡を見るかぎりこの部屋を使った作家は過去に三人いて、そのうちの一人は三ヶ月以上もここに囚われていたようだ。
その後、彼らがどうなったのかは定かではない。考えたくもない。
「アハハハ……ハハハ。無理、これはマジ無理。でもやらなければ、書かなくちゃ」
これがぼくだけの問題であったなら、机に刻まれた先住者の苦悶を目にした時点で、心が折れていたかもしれない。
しかし僕様ちゃん先生も巻き添えを食らって人質となっている以上、自分だけ正気を失って楽になるわけにはいかなかった。
ぼくは冷静になろうと、グッドレビュアーから提示された条件を確認する。
「期限は三日、ジャンルは不問か。さすが地雷レーベル、スケジュールまで正気の沙汰じゃないな……。新たに構想を練っているヒマはないから、今あるものを使うしかない、か」
NM文庫に不義理を働いてしまうことになってしまうものの、納期とクオリティの両立を計るなら、執筆中の偽勇者の
原稿のデータは手元にないから、温泉宿で書いた内容を思いだしつつ、ライルが旅に出るところからまた書き直しだ。
そう思いノートPCを開いたとき――温泉地にて、ネオノベルに捕まる直前に体験した怪奇現象の記憶が脳裏をよぎり、ぼくは思わず手を止めてしまった。
また身体を乗っ取られたらどうしよう。
グッドレビュアーに語った話のすべてが作り話というわけではなく、ぼくの身体には今、本当に
しかし……自身を取り巻く厄介ごとの数々に頭がパンクしそうになったとき、突如として心の奥底にくすぶっていた怒りに火がついた。
「怨霊がなんだって言うんだ!! こんなうす暗い部屋で、汚っねえトイレのアンモニア臭を嗅ぎながら、三日で小説を書きあげなきゃいけないんだぞ!! 失敗すれば薬漬けの拷問だ。これ以上怖いもんがほかにあるかよ、ねえだろうがっ!!! ほらほら、ご主人様のピンチだぞ。面白そうなネタくらい出してみろや、クソ文豪。ぜんぶお前が悪い、なにもかもお前のせいだ。ネオノベルの連中の拷問を食らって地獄に落ちたら、このトイレでひねり出したクソをお前の顔面になすりつけてやるからな!!」
すべての元凶となった文豪に呪詛を吐きつつ、キーボードを叩きはじめる。
そして一時間、二時間……黙々と執筆を続けていると、幸いにも怪奇現象が起こる兆しはなく、ぼくは現実で抱えるあらゆる問題を忘れ、物語を紡ぐことに没頭していった。
――――――――
「……歯ごたえがなさすぎて退屈してきたな。どおれ、姿を見せてやるか」
洞窟の暗がりから滑り落ちるようにして、漆黒の鱗に包まれた鬼面の男が現れる。
異様に長い手の先にはマリアの臓腑がこびりついていて、ガルディオスはライルたちの前で、甘い果実を口にするかのようにそれを舐めとってみせた。
つんとした血の臭いが辺りに充満する中、ライルは意を決して聖剣エウレーカを振るう。
「うわあああああっ!!」
「おっと、無駄なあがきだな。小僧」
パッと火花が散り、ガルディオスはたやすく剣の一撃を受け止める。ライルは防御に転ずる間もなく敵の強烈な蹴りを受け、弾かれたように背後の壁面に打ちつけられてしまった。
「げほっ……!? ど、どうして!?」
「フハハハ!! 愚かなり!!」
ライルの手から聖剣エウレーカが抜け落ち、洞窟の暗がりの中にカランカランと転がっていく。
隙あらば加勢しようと身構えていたクロフォードですら、強大な魔物を前に勇者の力が発現しなかった事実を目の当たりにして、しばし戦いのことを忘れて愕然としていた。
「貴様ら人間が魔王様の討伐に向けて準備をしてきたように、我々もまた勇者と聖剣の力を封じるべく動いていたのだよ。たとえば赤子のうちに、勇者の生まれ変わりと平民の子をすり替えておく、といった具合にな」
「う、嘘だ……。ぼくは勇者で……だから……」
「であるならば、なにゆえ聖剣の力を引き出せぬ。もはや戦況が覆ることはない。すり替えられた真の勇者は抜け殻となり、今やその肉体には魔王様の魂が宿っておるのだ。あとは聖剣さえ手に入れてしまえば、あのお方は天上の神々すら凌駕しうる、完全な存在となるだろう……」
ガルディオスはそう告げるとふっと闇に消え、再び姿を現したときには聖剣エウレーカを手にしていた。
敵の蹴りを受けた際に肋骨が折れたのか、ライルは口から血を吐き、もはや立ちあがることすらできない。
しかし――絶望的な状況の最中、クロフォードだけは瞳に闘志を燃やし、こう言った。
「貴様の言葉が事実であろうとも、私はライルの力を信じる。ともに旅をした時間は短かったが、彼こそが真の勇者たりえる、人々の希望になりえると……そう思わせるだけの資質をこの若者は備えていた」
「なんと、これほど愚かな人間が存在していたとは! 無力な平民を担ぎあげ、あまつさえ偽物と知ったうえでなお、己が種族の命運を託すというのか」
白騎士はうなずくと、ガルディオスに向けて剣を構える。
そして毅然とした態度で言い放つ。
「ゆえに今、我が命を賭して未来への礎となろう!! 白騎士の称号は軽くはないぞ、ガルディオス!! ――王国騎士団流奥義!!
クロフォードの剣がまばゆく輝き、圧倒的かと思われた敵に凄まじい連撃を浴びせていく。脇腹を斬りつけられたガルディオスは苦悶の表情を浮かべ、わずかに後退する。
「ぬう……!? 小癪なっ!!」
「私が引きつけているうちに逃げろ、ライル!! そして強くなるのだ!! 与えられた力をただ享受するのではなく!! 受け入れがたい真実に目を背けずに!! 自らの意志で道を切り開かんとするならば、君は真の勇者たりえるのだから!!」
――――――――
ぼくはそこまで文字を打ちこんだあと、こめかみに痛みを覚えて顔をしかめる。
モニターの端に表示された時刻を見るかぎり、六時間くらいぶっ通しで執筆していたことになる。
「そりゃ頭も痛くなってくるよな……。でもまだまだ先は長いから休んでもいられないし、ぼくもライルと同じくらいの窮地に立たされている気がするよ」
このあとライルはクロフォードに言われたとおり逃げだすのだが、だからといってどうにかなるわけもなく、肋骨が折れたまま洞窟をさまよったすえに力尽きてしまう。
そして誰からも……宵闇のガルディオスにさえも発見されることなく骨と化し、数年が経過したあと、ようやく彼の亡骸の前にひとりの少女が現れるのだ。
と、そこで背後からガタガタと音が響き、施錠されたドアの下に設けられた戸口から、トレイに乗ったパンとチーズが差しだされる。
これが今日のメシ、ということなのだろう。
フォークやスプーンは用意されておらず、気分はいよいよ死刑囚だ。
心を無にしてモソモソと栄養を摂取し、何度かためらったのちにトイレで用を足してから、ぼくは再び執筆を再開させた。
――――――――
「ライル……ライルよ……。あなたはまだ死すべき定めにありません……」
慈愛に満ちた声を聞いて目を覚ましたとき、ライルは最初、天国にいるのだと思った。
しかし目の前に立つ金髪の少女は女神アルディナではなく、耳の尖り具合を見るかぎりエルフ族のようだった。
呆然とするライルに憐憫のまなざしをそそぎながら、彼女は自らの名を告げる。
「わたしはマナカン。エルフ族の長にして、世界樹より聖女の称号を授かりしもの」
「そ、それじゃあ……君は……」
「ええ。あなたとともに旅をし、天に召された長老ブライの孫です。祖父の死後、わたしはエルフ族の新たな長となり、あなたの亡骸をずっと探していました。生涯で一度のみ使える奇跡、蘇生術を施すために」
ライルは彼女の言葉を聞いて驚愕し、同時に運命の皮肉さを呪った。
マナカンは魔王に対抗するために、勇者の生まれ変わりを蘇らせようとしたのだろう。
しかし……。
「ああ、なんということを!! ぼくは違うんだ!! だって――」
「落ちついてください。あなたがただの平民であることは理解しております。赤子のころにすり替えられたことも、聖剣エウレーカの力が発現せず、ガルディオスに敗れたことも、今やこの世界の誰もが知っていることなのです。ほかならぬ魔王の配下たちがそれを広めているのですから。人々の希望を……打ち砕かんがために」
「ではなぜ、蘇らせたんですか!! 真の勇者ではなく、こんな偽物を!!」
死の淵から蘇り、漠然とした意識が鮮明になるにつれ、消え去りつつあった記憶の数々が蘇っていく。
ブライ、ロイ、マリア、そしてクロフォード。
彼らは勇敢に戦い、そして敗れていった。
しかしライルはなにもできず逃げだし、生き延びることさえできず、洞窟の中でのたれ死んだのだ。
これほど哀れなことがあるだろうか。これほど無力なものがいるだろうか。
「聞きなさい、ライル。あなたの内に宿る魂は、真なる勇者の生まれ変わりであるユリウスと非常に近い存在なのです。だからこそ偽物として見いだされたわけですが……しかし今やあなただけが、唯一の希望となっているのです」
マナカンはそこで視線をそらし、遠くを見つめる。
このときのライルは知らなかったが……彼女は三年以上もの間、過酷な旅を続け、そしてようやく今、最初の目的を果たしたところだったのである。
「わたしは当初、ユリウスを蘇られるつもりでした。しかし長きに渡り亡霊となっていた彼の魂はひどく損傷し、さらには肉体を魔王に奪われてしまった今――世界樹から授かりし復活の力を用いたとしても、彼を蘇生させることはできません」
マナカンはつらつらと言葉を紡いだあと、ライルの顔を指さす。
「だから、足りないものを補うことにしたのです」
彼女の言葉の意味を考え、やがてライルは理解した。
勇者を蘇生させるために足りないものは、己が持っていたのだ。
ユリウスの魂を補うための、偽物の魂。
そして彼の受け皿となる、肉体だ。
「ぼくはただ蘇っただけではなく、真の勇者であるユリウスと同化しているのですか?」
「……そういうことになりますね。今はまだ、魂の損傷が少ないあなたの意識が表に出ています。しかしその肉体に眠るユリウスの意識を目覚めさせることができたとき、偽物の器は真なる勇者となり、聖剣の力を引き出すことができるでしょう」
「ま、待ってください。それではまるで、ユリウスの意識が覚醒したら――」
マナカンは顔を背けながらも、こっくりとうなずく。
そして彼女が告げたのは、ライルにとってはあまりにも残酷な運命だった。
「あなたの意識はユリウスの中に溶けこみ、その一部となって消え失せるでしょう」
「そ、そんな……」
「だとしても魔王を倒すためには、真なる勇者の魂を目覚めさせなければならないのです。ほかでもない――あなた自身の意志で」
マナカンは神妙な面持ちのまま、静かに語る。
ライルの中に眠るユリウスを目覚めさせるには、エルフ族に伝わる厳しい試練を乗り越えなければならない。
世界各地に散らばる七つの霊結晶を集め、その中にねむrdさああ
――――――――
ふいに肘ががくっと折れ、机に勢いよく額をぶつけてしまう。
危ない危ない。
油断して寝てしまうところだった。
ぼくはカキポキと首を鳴らしたあと、大きく背筋を伸ばして深呼吸。
「あああああー…………ふううぅ。やばいな、いよいよ頭が働かなくなってきたぞ。ようやくマナカンと出会って、これから本編がスタートするってのに」
そう呟いたとき、鼻の下に冷たい感触を覚え、ぼくは手を当ててみる。
指先に、べっとりと血がついていた。
脳に相当な負荷がかかっている――そう理解して、苦笑いを浮かべてしまう。
困ったことに缶詰部屋にはティッシュすらないので、鼻筋を押さえ、血が止まるまで作業を中断するしかない。
食事を挟んでいるとはいえ、すでに二十四時間以上、執筆を続けている。ひどい二日酔いのときのように頭の奥からガンガンと痛みが響いてくるし、肩はガチガチに固まっているし、キーボードを打ちっぱなしだから、指と手首が痺れてきている。
だというのに、まだ全体の半分も進んでいないのだ。
これからさらにペースを上げていかないと間に合わないかもしれない。
突貫工事もいいところだから、誤字脱字だって多かろう。
しかし、不思議と内容についての不安はなかった。
だって書けば書くほど、面白くなっていく気がするのだ。
欧山概念の作品に匹敵するものになるかどうかはわからないけど、少なくとも自分にとっては、最高傑作になるだろう。
やがて鼻血が止まったので、ぼくは執筆を再開する。
過酷な現実を忘れ、心の中に思い描いた世界を文字として打ちこむごとに――ライルの心とシンクロし、一歩一歩、前に進んでいく。
ネオノベルの連中の要求なんてどうでもいい。拷問なんぞ知ったことか。
ぼくはただ、楽しみたいから書いているのだ。
この世界を。ライルの物語を。
早く、早く、続きを読ませろ。
だから書け。もっともっと書け。
より面白く、より刺激的に。
とにかく頭と手を動かして、文章を紡げ。
カタカタと文章を打ち続けていると、視界の端に自分の手が映る。
表面にはびっしりと模様のようなものが刻まれていて、それがまるで小さな虫のように、キーボードを介してモニターの中に流れこんでいるように見えた。
だからどうした。
いつもの怪奇現象じゃないか。
そんなことより、今は小説を書かなくては。