7-14:絶対小説(2)
文字数 2,783文字
彼女に呼びかけた直後、夜の渋谷がぐるりと反転した。
寝ぼけているときにがくっと身体ごと傾いたような、唐突な浮遊感を覚えて短く悲鳴をあげたあと、ぼくは慌てて周囲をきょろきょろと見まわす。
今となっては珍しい、純和風のお座敷だ。
室内の調度品は年季が入っているもののどことなく上品で、それなりに裕福な家庭の屋敷だというのがわかる。
はてさて、ここは……どこなのだろう?
前触れもなく瞬間移動するのには慣れてきたし、さきほどまでいた世界が現実ではないという可能性だって前もって考慮していたというのに、新たに現れた景色に心当たりがなかったせいか、状況を把握するのにすこし時間がかかってしまう。
ああ、ここは小説の中じゃなさそうだ。
映画のセット。
というよりフィルムの、概念クラスタが制作したショートムービーの世界。
「思えば君は真実の川の朗読にしてもあの映画にしても、化生賛歌のことになると必ず自分の言葉で語ろうとしていたね。もしかしてそこだけは唯一、ぼくに嘘をつきたくなかったのかな」
読者に対して誠実だった部分がいかにも偏屈な作家らしくて、ほほえましく思える。
欧山概念が、美代子について描いた――つまりはありのままの自分を題材にした、在る女の作品。
ぼくは今、あの物語の中にいるわけだ。
「さて、感動の再会といこうか。主人公の君が不在だと、物語がはじまらないよ」
欧山概念に、美代子に、あるいはまことさんに問いかける。
しかしあらためて周囲を見回して、ひとつ大きな勘違いをしていたことに気づく。
在る女の作品の語り部は、病弱な絵描きの少女だ。
彼女は血反吐を吐きながらも筆を手に取り、描きかけのカンバスと向きあいながら絶命してしまう。
なのに今いるお座敷にそれらしきものはなく、代わりに畳まれた布団と文台が隅にひっそりと置かれている。
だからここは物語の中じゃなくて、欧山概念が遺した記憶の残滓だ。
彼女はあの短編を書くとき、自分が暮らしていたところを舞台に選んだ。
もしかすると今いる場所は、かつて実在していた世界であると同時に、かぎりなく物語に近い――いわば現実と虚構の狭間のような空間なのかもしれない。
あらためて文台を見ればくしゃくしゃに丸められた化生賛歌の原稿がそのままになっていて、血反吐を吐きながら執筆していた彼女の苦悶と葛藤がにじみでている。
ぼくは丁寧にしわを伸ばしたあと、置き手紙のように残されていた物語を読んでみることにした。
――――――――
幼いころから、空を見るのが好きでした。
季節ごとに変わっていく、庭の草花を眺めるのも好きでした。
直に触れることは決して許されませんでしたけど、屋根伝いによちよちと歩く野良猫さんや、隣家のご夫婦が飼われているワンちゃんに、閉めきった窓越しにご挨拶するのも大好きでした。
でも、時々こう思うのです。
お空の色はどうして、青か、赤か、黒しかないのでしょう。
草花はどうして、じっと動かないでいるのでしょう。
猫さんやワンちゃんはどうして、わたしにご挨拶を返してくれないのでしょう。
たとえばカレンダーをめくるたびに、お空の色がピンクやイエロー、グリーンやパープルに変わるとしたら。朝起きて外の景色を眺めるまで、だあれもお天道様がどんな姿をしているかわからなかったら、一日は今よりもっと楽しくなると思いません?
それとも庭の草花が蝶や鳥のように、ひらひらと舞いはじめたら。わたしたちがいつも眺めている外の世界は、今よりいっそう賑やかでわくわくするものになると思いません?
猫さんやワンちゃんがにこやかにご挨拶を返してくれたら。彼らはきっと首輪をつけて飼われているのを嫌がって逃げだしてしまうかもしれませんけど、今よりずっと魅力的で可愛らしい、最高のお友だちになってくれると思いません?
「お佐和ちゃんは面白いことを考えるんだねえ。お父さまにお願いして、ご本を買ってもらうといい。絵本がいいのかな、それとも図鑑のほうかな」
「どうせなら両方がいいわ。だってわたし、自分で想像してみるのも、知らなかったことを自分でお勉強するのも、どっちも大好きですから」
「好きなことは多いほうが楽しかろう。一つのことをもっともっと好きになっていくのも同じくらい楽しかろう。お佐和ちゃんにはたぶん、その両方の素質があるはずだ」
「ありがとう、先生。……でもわたし、お薬とお注射だけは苦手なの。もうすこし減らしてくれたらとても嬉しいのだけど」
「そうはいかないさ。お薬とお注射のおかげで、君はこうして元気でいられるのだからね。だからちゃんと先生やご両親の言うことを聞いて、おとなしくしているんだよ?」
そう、わたしはみんなと違って、外の景色を眺めることくらいしかできません。
だからお空はもっとカラフルで、庭の草花はひらひらと賑やかで、動物さんはごきげんようと話かけてくる――そんな魅力的な世界に変わってほしいと願っていたのです。
――――――――
ぼくはふうと息を吐き、原稿から目を離す。
在る女の作品がどのような終わりを迎えるか、映像化されたものを夢の中で観ているから知っているし、そうでなくともお佐和のモデルである美代子が、闘病の末に死にいたる運命にあることはわかりきっている。
彼女だって、自らの終わりが近いことを予見していたはずだ。それゆえに欧山概念として、この物語を書いたのであろうから。
理不尽な現実から目を背けたくて、中途半端な幕切れに納得できなくて、起こるべくして起こる筋書きを嘘で塗り固めて、その肉体が朽ちたあと、自らが思い描いた物語の中に魂ごと呑みこまれていく。
ぼくの知っている女の子ならやりかねない離れ業だし、まさしく欧山概念らしい筋書きだ。
とはいえ当人がその結末に満足していたのなら、百年後の現実に生きているうだつのあがらない作家を、わざわざ夢の世界に連れてくる必要なんてなかったはずだ。
誰にも読まれない物語を書き続けるのは苦しいものだし、自分とその分身しかいない世界は虚しい夢でしかないのだと、ぼくもついさきほど思い知ったばかりだ。
絶対小説の中で出会った君は、嘘まみれの世界で生き続けることに疲れはて、諦観に近い絶望を感じていた。
百年もの間ずっとそうしていたのなら、今では自分がいったい誰だったのかさえ、思いだせなくなっているのかもしれない。
だとしたら、月の裏側にいる君にどうやって言葉を届けよう?
答えはいたってシンプルだ。
都合のいいことに彼女が残していった原稿には、こんなにもたくさんの余白がある。