絶対小説 序文
文字数 1,968文字
てっきり二周目の絶対小説の中に入った地点、つまり埼玉の工場から再スタートするものだと思っていたのだけど……現在の時間軸は一年ほど前、NM文庫の鈴丘さんと電話でケンカ別れした直後のようだった。
室内を見まわせばフローリングの床にビールの空き缶が散乱していて、やけになってぶん投げたノートPCの残骸が哀れな姿を晒している。
ぼくはこれから部屋を掃除して、夕方に渋谷のカフェで妹と会ってきて、次の日から引っ越しの手続きと荷造りをはじめて、実家に帰ってからバイトを探して、ノートPCを買うための資金を貯めながら――そしてまた、新しい小説を書くわけだ。
「よりにもよって、こんな最悪な場面に戻さなくてもいいじゃないか……」
ため息まじりにそう呟いてみるものの、ここは小説の中じゃないのだから、創造主さまに不満を漏らしたところでどうにかなるはずもない。
本当に?
どうだろう。
ここが小説の中だろうがそうでなかろうが、ぼくは今いる世界でやっていくしかないのだし、そのうえ立ち向かう相手はクソみたいな現実で、ラスボスとして申し分のない強さがある。
だから考えるのはあとにして、まずは起きあがって、顔を洗って歯を磨いて、戦う準備をはじめよう。
おはよう、金輪際先生。
またよろしく頼むよ、兎谷三為くん。
◇
「で、とりあえず実家に帰るわけ?」
「今のままだとすぐに本を出せそうにないからね。貯蓄もそろそろ底がつくし、向こうでバイトしながら小説を書いてみるよ。群馬だし人手なんてどこでも足りていないだろうし、やる気があれば創作と両立もできるだろ」
「ふうん、まあいいんじゃないの。てっきり意気消沈しているものかと思ってたけど、元気そうで安心したかも。真面目に働く気があるなら、野たれ死ぬこともないでしょうし」
「おうよ、ありがとな」
妹のぶっきらぼうなエールに、苦笑いを浮かべながら感謝の言葉を返す。
新しい小説を書けば彼女だって読んでくれるだろうし、ぼくに期待して神さまにケンカを売りにいった女の子もいるのだから、現実がどれほどしんどかろうが前向きにやっていこう。
すっかり冷めてしまったコーヒーをぐいと飲み干したあと、伝票を持って立ちあがる。
手持ちは残りすくないが、ここはお兄さまのおごりにしておくよ。
「じゃあ、そろそろ行くから。お前のデートもうまくいくといいな」
「……およ? わたし、このあとの予定なんて話したっけ?」
「ああ、聞いたよ。一年前に」
あるいは、物語の中で。
ぼくが笑いながらレジに向かう姿を、我が妹はきょとんとした表情で見送ってくれる。
妹と会う用事を手早く済ませたあと、ぼくは再びマンションに戻って机に向かう。
明日から実家に帰るための準備をはじめなくてはいけないし、当面はバタバタするはずだからあまり時間の余裕はないのだけど、それでも頭の中にある物語を早く文字にしておきたくて、ぼくは帰りがてらコンビニで原稿用紙と鉛筆を買ってきたのである。
ノートPCがぶっ壊れているから苦肉の策とはいえ、実際に鉛筆で書いてみると、やはりミミズがはったような筆致で、あらためてその汚らしさに辟易してしまう。
しかしある意味、この作品にふさわしい書き方だ。
絶対小説の原稿に。
書き記すべき。
クセの強い。
文字。
ぼくは苦笑いを浮かべながら、序文の言葉をつらつらと紡いでいく。
――――――――
今この文章を読んでいるあなたは、幸福ではないはずだ。
なぜなら小説を読むという行為そのものが、現実から逃避するための、およそ不幸な人間が、自らの境遇に目を背けんがために行われるものでもあるからだ。
小説を書く場合においても、同じだろう。
残念ながらぼく自身、今をもってしても幸福とは言いがたい。これから手に入れることができるかどうかさえも、かなり怪しいところである。
なにせこの世界の神さまは、とことん信用のおけないお相手だ。
また会おうと約束をかわした少女ですらただの幻想でしかなく、いくら待ち続けたところで報われることはないという結末だって、ありえないわけではないのだから。
だとしても今こうして、気恥ずかしいロマンティシズムに胸をいっぱいにしながら、幾千幾万の文字を紡いでいくと、やがてひとつの物語が生まれていく。
もしかしたらそれは、あなたの人生に彩りを添える幸福な時間のひとつになってくれるかもしれないし、たとえその出来栄えにご満足いただけなかったとしても、ぼくは自分の小説を一本、書きあげることができる。
それはとても、素晴らしいことだ。