3-8:だけど失うことを恐れていては、なにも得ることはできない。
文字数 3,655文字
ぼくは驚きのあまり言葉が出てこない。まるで別世界の話を聞いているかのようだ。
だけどまことさんの胸元にはまぎれもなく手術の痕があるし、
黙っているぼくに構わず、彼女は懐かしそうに語りはじめる。
「臓器提供者の家族と移植された人って、日本の法律だと連絡を取りあったりしちゃいけないんだけど……金輪際先生はいったいどうやったのか、ある日突然、元気になったわたしの前に現れたの。それからかな、たまに会って話すようになったのは」
「じゃあ小説を書きはじめたのも、そのころからってこと?」
まことさんは「そうね」と答える。
それからなにを思いだしたのかクスッと笑って、
「がんばって書いたのに、クソミソに叩かれて泣きそうになったこともあったわ。それでもわたしは挫けなかったし、今はこうしてデビューできたけど。……でも賞を取ったのに、あの人はなにも言ってこなかったわ。素直な人じゃないから」
「ぼくの知っている金輪際先生とは、まるで別の人みたいだなあ。なんだかんだであのおっさんて世話好きだし、構われすぎてめんどくさいくらいだよ」
「
言葉のわりに楽しそうな顔で、まことさんはそう言った。
ぼくは思いきって、彼女にたずねる。
「好きなの? 先生のこと」
「たぶんそういうのとは違うかな。でも認められたいことは確か。……作家として? ひとりの人間として? 妹として? それもよくわかんない。我ながらおかしな話だけど」
「そうでもないさ。なんとなく伝わったし」
なんて言いながら、ぼくは密かにほっとする。
彼女と金輪際先生が恋仲だったら、かなりのショックを受けていたはずだ。
とはいえ今のところ、あの人に勝てる要素はひとつもない。
ぼくは作家としても男としても、もっともっとがんばらないといけないのかもしれない。
「兎谷くんは、あの人の作品をぜんぶ読んでいるの?」
「うん。デビュー作からひととおりね」
「グラフニールも?」
「もちろん、一番のお気に入りだよ」
「ミユキのモデルってわたしなんだけど。あと、妹さんもすこし入ってる」
「……マジで?」
だけど言われてみれば、彼女はまさしくミユキだった。
金輪際先生にとってはもうひとりの妹、つまり――失ったはずの大切な人で、だけどまったく別人の、もうひとりの妹なのだ。
小説の世界から飛びだしてきたミユキは、ぼくの隣でつらつらと語る。
「書いているときのことを知っているから、断言できるわ。グラフニールには金輪際先生の魂がこもっているの。すべてを注いで書いた作品なの。でも……だからこそ、その出来映えに満足していなかったみたい。ほら、めんどくさい人だから」
「そっか……。でも、ぼくは好きだったよ」
「知ってる。めちゃくちゃ影響を受けてるもんね、デビュー作」
まあ、今さら否定するつもりはない。ぼくは無言でうなずいた。
どうせまた、劣化コピーだと言われるのだろう。
そう思って身構えていると、彼女はちょっと照れくさそうにこう言った。
「わたしは好きよ。劣化コピーだなんて言うひともいたけど、あれはまぎれもなく、あなたの魂がこもっていた。だから金輪際先生だって兎谷くんを可愛がっていたんだし、そのせいでちょっと嫉妬しちゃうくらいだったもの」
「……え、なんで?」
「認められているから。あの人に」
そうなのだろうか。あまり実感はない。
とはいえ、ほかにも新人作家は大勢いる中で、金輪際先生がぼくだけをかまい続けているのはまぎれもない事実だ。
彼の作品の熱心な読者だからか、作風が似ていて気が合うからか、色々と理由はあるのだろうけど、もし彼女の言うように認められているのだとすれば、素直に嬉しい。
「欧山の原稿が目的で近づいたのは認めるけど、兎谷くんのことだって知りたかったの。嘘ばかりついていても、あなたの作品のファンってのは本当よ」
「その言葉だけは信じることにするさ。でなけりゃショック死しちゃう」
ぼくが苦笑いを浮かべてそう言うと、彼女はブラウスを着直して、はだけていた胸元を隠してしまう。
すこし残念な気がするけど、今は真面目な話をしているのだから、これでいいのだろう。
「これはわたしの推測だから、違っていたらごめんね。もしかすると兎谷くんも、金輪際先生と同じような経験をしているんじゃないかな」
「それって……どういう意味?」
「だって、そうじゃないと魂をこめられないでしょ。あの人みたいな、グラフニールみたいな……なにかを失った人のための小説に影響を受けて、自分も書いてみようなんて思わないし、ほかでもない金輪際先生に認められるような作家に、なれるはずがないもの」
嫉妬のまじった声で、まことさんは問いかける。
ぼくは以前、小説を書きはじめたきっかけを、彼女に話していた。
だからだろう、なんとなく察したのかもしれない。
どうして中学生のころ、重度の引きこもりになったのか、その理由について。
「そんなにご大層な話じゃないよ。好きな子がいて、ある日から顔を見なくなった。と言っても別に親しかったわけでもないし、なにせ中学生のころだし、本気で恋してたのかどうかすら、今となっちゃ怪しいくらいだ」
「でも、悲しかったんでしょ。ずっと引きずってるくらいには」
「……どうだろ。怖くなったのかもしれない。だって急にいなくなるんだから。あのころはそれが信じられなくて、他人とどう接したらいいのかよくわからなくなった」
だけど失うことを恐れていては、なにも得ることはできない。
グラフニールだけじゃない、いろんな物語にそう教えてもらったから、ぼくは今、ここでこうしている。
そこでふと、紛失した原稿――今はどこにあるのかすらわからない、絶対小説の序文に書かれていた言葉を思いだした。
小説を読むというのは、幸福ではない人間が現実から逃げるための行為であり、小説を書くというのは、現実から受けた傷を癒やすための行為であると。
当時のぼくに必要だったのは、漠然とした喪失から逃げるための読書だった。
そして当時の先生に必要だったのは、喪失の傷を癒やすための創作だったのだろう。
だけど彼の傷は今なお癒えず、膿のようになって苦しんでいるのかもしれない。
「
「似たもの同士だからね。兎谷くんは、もうひとりのリュウジなのかも」
「やめてほしいな。その理屈だとぼくはともかく、主人公のほうのリュウジがスキンヘッドのおっさんになっちまう。君はそのままで、ミユキとして問題ないだろうけどさ」
ぼくらはそう言って、クスクスと笑う。
まことさんはたぶん、ぼくの中に金輪際先生を求めている。
ぼくは彼女の中に、いったいなにを求めているのか。
中学のころにいなくなってしまった、初恋の女の子。
あるいは大好きだった、グラフニールのミユキだろうか。
いずれにせよ、ぼくらはお互いの中に別のなにかを求めていて、しかし若い男女が肌を重ねる口実としては、それでも十分だった。
まことさんは再びぼくの手を握ると、もうひとりのミユキがいる胸元を触らせる。
「大丈夫。兎谷くんが童貞だろうけど、わたしは慣れてるから」
「そんなふうに言われると、複雑な気分だな……」
とはいえ草食系男子としては、女の子にリードしてもらったほうが安心だ。
ひとまず真面目な話はこのへんでお開きにして、彼女と甘い一夜を過ごすことにしよう。
◇
こうしてぼくは、めでたく童貞を卒業することができた。
なにもかもがうまくいったように思えたのだけど、実は最後の最後で、意外なオチが待っている。
なんと、まことさんも処女だったのだ。
不思議に思ってそのことについてたずねると、彼女はいっさい悪気を感じさせない顔で、
「……まさかとは思うけど、ドナーの話も本気にしてないよね?」
つまりぼくのほうは身も心も丸裸にされたのに、彼女のほうは嘘まみれだったわけだ。
結局のところ最初から最後まで、もてあそばれていただけだったのかもしれない。