6-13:しかし君は虚構を選ぶ。実に創作者らしい矛盾だ。
文字数 4,096文字
最初に感じたのは、異様な蒸し暑さ。そしてむせかえるような青臭い空気だ。
ふいに足元からぐにょっぐにょっという不快な感触が伝わり、ぎょっとして視線を下に向けると、灰色のフローリングだったはずの床は苔むした泥土と化していた。
BANCY社の地下であるはずの空間に、極彩色の草花が咲きほこる河童の楽園が広がっている――その事実に驚愕しながらもさらに通路を進んでいくと、不意に視界がぐにゃりとゆがみ、元のうす暗い通路に戻ってしまった。
……この世界はいよいよ、現実という体裁を保つ役割を放棄しはじめたのだろうか。まことさんも恐怖を覚えたのか、震えながらぎゅっと手を握ってくる。
しかしこんな状況の最中でさえ、ぼくは物語が終わることを拒み、ふとした拍子に悪夢から覚めてしまうのではないかと恐れている。
もはや認めるしかない。
誰よりもこの世界に溺れているのは、欧山概念が作りだした舞台に執着しているのは――。
『へえ、君は現実よりも虚構を選ぶわけか。そうなってしまってはもう、クラスタの連中と変わりはないな」
どこからともなく声が聞こえてきて、ぼくはふっと我に返る。
金輪際先生だ。
近いような、遠いような。つかみどころのない響きだった。
「どこにいるんですか、金輪際先生。隠れていないで出てきてくださいよ」
「……急になにを言っているの、兎谷くん」
「え? だって今、話しかけてきたじゃないか」
隣のまことさんが不思議そうな顔で見つめてくるので、ぼくは思わず足を止めてしまう。
すると再び、先生の声が響いてくる。
『もう、すぐそばまで来ているよ。この世界が絶対小説だという事実から、君が今なお必死に目を背けようとしているのではないかと、私は心配していてね。念のためこうやって趣向を凝らしているところさ』
金輪際先生の言葉は、ノイズまじりの電波に乗せて投げかけられたようにも、耳元でふうふう息を吐きながら囁かれたようにも聞こえた。
いずれにせよ鳥肌が立つくらいに不快で、かつてともに笑いあった先輩作家とは似ても似つかない存在に変貌してしまったのだという事実を、嫌というほど思い知らされる。
『君も夢が夢であることさえ自覚すれば、私と同じ壇上に立つことができるだろう。いわば物語そのものを俯瞰で眺める傍観者の立場だ。……それとも君はあくまで、創造主に翻弄される語り部であることを望むかい。作家としてのプライドをかなぐり捨てて、あえて道化の立場に甘んじるというのなら』
「上から目線でご託を垂れるのは結構ですけど、ぼくとしちゃ先生も中二病めいたなりきりプレイに興じているとしか思えませんよ。そろそろ神さま気取りで喋るのはやめて、今までのぶんを殴らせてはくれませんかね」
見知った相手だからか恐怖よりも怒りのほうが上回り、ぼくは珍しく強気になってそう言った。
すると先生のほうも図星を突かれたようで、困ったように『ハハハ……手厳しいなあ』と笑い声をあげる。
ふと隣に目を向ければ、まことさんがなおも怪訝な表情で、暗がりに向かってブツブツと呟くぼくを見ていた。だからひとこと、
「あのおっさんがテレパシーを飛ばしてきているんだ」
「うええ……。もう、なんでもありね」
あっさりと納得した彼女は、呆れはてて天井を仰ぐ。
ぼくとしても同感だ。
しかし今は小説の中にいるのだから、なにが起こったとしても不思議はない。
そう、これまでと同じように。
『さて、君たちの心の準備も整ったようだし、そろそろはじめるとしようか。ここから先が本当の、世界の終わりとリアルモンスターワールドさ』
ふいに前方の景色がゆらぎ、狭い通路が伸びていたはずの暗がりはだだっ広い空間に様変わりした。
河童の楽園めいた栽培施設に、無数の植物系クリーチャーがずらりと並んでいる。カクタス、ウツボカヅラ、ハエトリグサ……突然変異を引き起こすケミカルXを多量に投与されているようで、巷に溢れたマンドラゴラもとい木霊よりもずっと凶悪な姿をしていた。
広間の中央に目を向けると、ひときわ巨大な植物の腹部に、金輪際先生の半身がにゅっと伸びていた。
ぼくは「ひっ!」と悲鳴を漏らす。
まことさんも同じような反応をしていた。
『あるいは兎谷くんの言うとおり、誰もが与えられた役割を演じているのかもしれない。現実だろうと小説の中だろうと、すべては創造主さまの退屈をまぎらわせるために、あるいは彼の作品を愛するファンを楽しませるために、この世に生まれ落ちたときから道化の衣装に身を包み、コミカルな動作で踊らされているわけだ。今、私がこうしているように』
植物系クリーチャーと一体化した金輪際先生は、怪しげな妖怪か、はたまたダンジョンの最奥で待ち構えていたラスボスのように見える。
それでもぼくらは意を決して、人間をやめてしまった感のあるラノベ作家のもとに近づいていく。
「……いったいどういう状態なんですか、それ。お願いですから唐突に『世界を無にする』とか言わないでくださいよ。ネタなのかマジなのかわからなくて反応しづらいですから」
『君も言うようになったなあ。それに今の私の姿を見ても怖じ気づかないのだから、絶対小説にまつわる冒険を乗り越えていく過程で成長したようだ。兎谷くんはまさに理想的なプレイヤーだったのかな、欧山概念にとっては』
そこで金輪際先生は虚空に視線を向ける。
天井に広がる暗がりの中に、この世界を作りだした存在が――百年前の文豪の魂がさまよっていて、ぼくらを見下ろしながら愉悦に浸っていると、そう考えているかのように。
『これが神になった気分だというのなら、なにもかも無に還したいと思うのもわからなくはない。望むように世界を変えるたび、それが作りものにすぎないのだと痛感し、心の中に虚しさと不安が募っていく。今こうして現実に戻ろうとしている自分さえも、欧山概念が定めた筋書きに従っているだけなのではないか。……この世界にいるとついつい、そんなふうに考えてしまわないかい?」
「その気持ちはわかる気がします。だからぼくもずっと居心地が悪かった」
『しかし君は虚構を選ぶ。実に創作者らしい矛盾だ』
金輪際先生の顔にうねうねと無数の文字が浮かびあがり、その瞳は蛍火のように発光していく。
まるで欧山概念の怨霊が――彼の肉体を介して顕現しているかのように。
『私とて現実に戻ることにためらいはあるよ。あれはあれで過酷な環境だからね。しかし欧山概念は物語の結末を求めているし、私はヒロインを袖にしてしまった。今さら兎谷くんを押しのけて、ヒーローの立場に返り咲くのは難しいだろう』
「……はあ? わたしは最初から先生を選ぶつもりなんてなかったわよ。自分のほうから振ってやったみたいな言いぐさ、勘違いされると困るしやめてくれないかしら」
『これは失礼! 我々は出会ったときから、互いを理解しようとしていなかったね。世界が虚構であるという事実の虚しさを、誰よりも共有できたはずなのに」
金輪際先生が言うように、小説のように生きろと大人たちに強いられてきた少女は、この世界でもっとも絶対小説の真実に近い存在だ。
欧山概念の魂に選ばれた作家たちを導く案内人――あるいはそれこそが、まことさんに与えられた本来の役割なのかもしれなかった。
『兎谷くんもいい加減に気づきたまえ。君の隣にいるのは現実に存在する女性ではなく、欧山概念の、あるいは私や君自身の願望が作りだした、精巧なダッチワイフにすぎない。風俗嬢が囁く甘い言葉を真に受けて、ぬるま湯の中で溺死するつもりか』
「ぼくのことはどう言ってくれても構いませんけど、まことさんを侮辱するのだけはやめてください」
『ふむ……。創作というのは公衆の面前で行う自慰行為であり、私たちはその気恥ずかしい見世物のプロフェッショナルだ。ならば虚構に浸り続けようとする君の選択も、作家としてあるべき理想のひとつなのやもしれぬ』
悲しいかな、金輪際先生は廃人だったときのほうがまだ、正常な人間のかたちを保っていた。
怨霊じみた顔から吐きだされる言葉の数々は世迷い言めいていて、やはり彼の口を介して別の何者かが囁きかけてきているようにすら、感じられてしまう。
「ぼくはただ、彼女といっしょにいたいだけなんです。先生」
「そうやってふんぞりかえって斜に構えているから、女の子にモテないんじゃないの?」
『なるほど、素直に虚構であることを楽しめばよかったわけか。私は昔からなりきりプレイというのが苦手でね、今もこうして必死にラスボスを演じているよ』
金輪際先生はそう言ったあと、植物型クリーチャーから伸びた半身をのけぞらせて笑う。
やがて彼は恐ろしいほど自然な仕草で周囲に生えたツタのひとつを操って、ぼくの足元になにか黒いものを放りなげてくる。
拾いあげてみると、それは一丁の拳銃だった。
『色々と考えてみたものの、対話だけで決着をつけるのは退屈だ』
「まさか……これで……」
唖然としながらも視線を戻すと、先生はクリーチャーと一体化した下半身を小刻みに震わせ、今にも動きだそうとしていた。
そしてぼくに向けて、こう告げる。
『どちらかがどちらかの物語を終わらせる。単純かつ明快なエンディングを目指すとしよう。せっかく田崎さんが最高の舞台を用意してくれたのだから、ラストシーンは盛大に盛り上げようじゃないか!!』
その言葉とともに、周囲のクリーチャーたちが一斉に動きだす。
ぼくはとっさにまことさんの手をつかみ、脱兎のごとく逃げだそうとする。
しかしすぐに追いつかれてしまうのは、状況的に見て間違いなさそうだ。
現実と虚構。
この世界はどちらかを、選択しなければならないのだから。