7-4:河童をめぐる冒険(1)
文字数 2,636文字
平日の昼間だったので乗客はまばら、車窓からは代わり映えのない田舎の風景が流れていく。
これまた偶然にもまことさんと出かけたときと同じような状況で、どうしたってあのときのことを思いださずにはいられなかった。
よくよく考えてみると、ぼくは絶対小説という夢の中で、河童の楽園を冒険するという夢を見たわけだ。
夢の中で夢を見るというはなんとも奇妙な感じがするものの……あの世界で体験した出来事の数々を思い浮かべれば、些細なパラドックスのひとつにすぎないだろう。
むしろ自分が兎谷三為だったとき、あの倒錯的な世界が現実なのだと信じきっていたことのほうに違和感を抱いてしまう。
目が覚めて一年を経た今、絶対小説という世界に施されたメッキはボロボロと剥がれ、あとに残されたのはバカバカしいほどに誇張された夢の残滓でしかなかった。
「しかしこうして手にしてみると、ひっでえ代物だったなあ……」
ぼくは苦笑いを浮かべつつ、それなりに高額で買い取った化生賛歌を開く。
蔵書の中でも比較的状態のいいものを譲ってもらったというのに、ハードカバーは日焼けしてボロボロ、表紙に印刷されたタイトルはかすれてほとんど読むことができない。
中を開けば年季の入った古書らしく黄ばんだページが待ち受けていて、ぺらぺらとめくるたびに酸化した紙の匂いがぷんと漂ってくる。
とはいえ本当にひどいのは本の状態よりも、むしろ中身のほうかもしれない。
絶対小説において化生賛歌は『世界的に評価されている傑作』という扱いだったし、ぼく自身、夢の中で「さすがは文豪が書いた小説」だと、深い感銘を受けた覚えがある。
しかし現実に戻って一年が経ち、あらためて化生賛歌を読み直してみると、文章の拙さだとか構成の杜撰さばかりが目についてしまう。
一部マニアの間で話題になっているだけあり、奇想天外な発想と先の読めない展開の数々には惹かれるところもあるのだが……それ以上に粗が多すぎて、名のある文豪どころか、新人賞の一次審査ですら落選しかねないほどの完成度なのだ。
夢を見る以前にこの作品を読んでいたはずだし、そのときも同じ評価をくだしたと思う。
だというのに兎谷三為として絶対小説の中に存在していたとき、現実での記憶は忘却の彼方に追いやられ、あげく欧山作品を盲目的に賞賛するハメになった。
考えようによっては作為的に、ぼくの認識――小説を読んだ感想でさえも、本来ならばありえない方向に歪められていたわけである。
「だからあれは、ただの夢じゃなかったんだろうな」
乗客のまばらな車内で口に出してみると、胸に抱いた疑念は根拠のない確信に変わっていく。
しかし百年前の怨霊がぼくにあの奇妙な世界を体験させたのだとしたら、その目的はいったいなんだったのだろう?
現実の欧山概念は文章力も構成力もなく、優れた作品として評価されることもなかった。
今の自分がそうであるように、彼もまた創作の苦しみに打ちひしがれていたのだろうか。
それとも悔しさをバネに筆を取り、次こそは傑作を生みだそうと息巻いたのだろうか。
いずれにせよ、彼は二度と作品を書きあげることができなかった。
自らの未練を託そうとしたのなら、絶対小説とはやはり呪いと呼ぶべきものだったのかもしれない。
やがて最寄りの駅に着いて周辺の景色をぐるりと見まわすと、ぼくは今まで以上に既視感を覚えて眉間にしわを寄せた。
伊香保と違って埼玉の山間部に足を運んだことはなかったし、そうなると脳内に眠っていたイメージ映像が、夢の中でひょいと顔を出したという線は考えにくい。
……実はテレビかなにかで観ていた?
しかし駅の構内や周辺の家々はまったく見覚えがないのに、山の景観となると、まことさんといっしょに来たときとそっくり同じなのだ。
建物はさておき自然にかぎっては、百年前とそう変わりないはずだ。
だから夢の中で見た景色は、欧山概念の記憶をもとに再現されたのではないか――そんな考えが、ふと脳裏によぎる。
ともあれ答えは出そうにないので、バスを乗り継いで先に進むことにする。
これまた夢の中と同じ手順を踏んでいるものの、今回の目的地は山からすこし離れた場所にあるという。
以前はまことさんがいたから道中も楽しめたけど、今はただただ退屈でしかない。あとで山のほうに足を運んでみようと思いつつも、彼女の不在をより強く感じてしまいそうで気後れしてくる。
……先のことは、用事を済ませてから考えよう。
軽い気持ちで引き受けたとはいえ、実際ハードな仕事になりそうなのだ。
なにせこれから取材するのは、ぼくのような人間ならば確実にトラウマを植えつけられる恐怖スポット。
凄惨きわまりない猟奇バラバラ事件の現場であり、今なお歴代の独裁者たちですら裸足で逃げだすほどの大虐殺が行われていると、ごく一部の間で囁かれているのだから。
◇
「いやーどうもどうも。なんかネットで記事を書いてくれるとかで? 私のようなものが取材を受けるなんて近ごろじゃめったにありませんから、なんだか緊張してしまいますな」
「こちらこそよろしくお願いします。ええと、ではさっそくインタビューをはじめます。ちなみにあなたが工場の管理責任者さんで間違いないですよね?」
「ええ、そうですとも。昔は◯◯エンターテイメントの編集者としてブイブイ言わせていたんですけどね、著作権関係で他社と揉めたせいで今じゃこの有様ですわ」
「ぼくもラノベを書いていましたから、某社の謝恩会でお話したことがあったのかもしれませんね。最初にお会いしたときになんとなく、どこかでお顔を拝見したような気がして」
「ありえますなあ。ここに左遷されてからまだ二年目ですから」
田崎氏のモデルにでもなれそうな壮年の男は、話の内容のわりにほがらかに笑う。
オイルまみれの機械を毎日ガシャンガシャンと動かして、背筋が凍るような大虐殺を指揮している人間とは思えないような表情だ。
しかし肩書きを見るかぎり、彼こそが今いる施設を管理するアドルフ・ヒトラー。
もしくは指先をパチンと鳴らすだけで、数多の世界を消滅させるパワーを持つサノスなのである。
そのうえ標的となりうるのは、ぼく自身とて例外ではなかった。