5-11:なるほどそれは、現実の中にはありますまい。

文字数 6,089文字

 人生を左右する選択を迫られて、ぼくは正気に戻らざるを得なくなった。
 クラスタと契約を結べば、もはや後戻りはできない。兎谷三為という作家は彼らの所有物となり、自らの手で創作の情熱を破壊し続けることになる。
 しかしその対価として、文豪としてもてはやされながら、目の前の愛らしい女性と暮らすという、考えうるかぎりで最高の人生を歩むことができる。
 望まれるままに、他人行儀な小説を書くだけでいい。
 文豪の模倣者として、その信奉者たちを満足させるだけでいい。
 ただそれだけで――ぼくは幸福になれるのだ。

 まことさんとしばし無言で見つめあったのち、書類の件は一旦保留にしてもらい、布団を並べて消灯する。
 そして隣の彼女がすーすーと穏やかな寝息を立てたころ、ぼくはふと絶対小説の序文を思いだし、暗闇に向かって呟いた。

「ある意味この生活も、小説を書いた結果として得られる幸福なのかな……」

 だとしても、ぼくはそれを捨て去らねばならないのだった。


 ◇


 実のところ、契約書以外の面でもタイムリミットは近づきつつある。
 今となっては遠い昔のように感じるものの、僕様ちゃん先生とともに逃避行の旅に出てからそろそろ一ヶ月。つまりNM文庫の鈴丘さんと交わした、初稿の提出期限が近いのだ。
 この異常な状況を考えるとおかしな話と思えるかもしれないが、できることなら締め切りを破りたくなかった。連絡を入れずにぶっちぎるのはプロの沽券にかかわるし、偽勇者の再生譚の本執筆に入るとき、鈴丘さんはこう言ってくれたのだ。
 一読者としても楽しみにしています――と。
 ぼくはひとりの作家として、一年間苦楽をともにした担当編集さんの期待に応えたかった。
 
 さて……そうなると島を出るために動きださなければならない。
 ネットの記事を読んでいたこともあって、概念クラスタの総本山、ビオトープ――つまり現在地が本州からそう遠くない位置にあることは、事前に周知している。
 島に物資を届けにくる貨物フェリーに潜入するか。
 あるいはクラスタの誰かをうまいこと言いくるめて、脱出の手助けをさせるか。
 いずれにせよ、慎重にことを進めなければならないだろう。

 そして翌日の昼下がり。
 島の南端、眼下に冬の海が広がる丘のうえで見知らぬ男に声をかけられたのは、ぼくがない知恵をうんうんと振り絞って、およそ現実的ではない計画を立てていたときだった。

「すこしお時間をよろしいですかな、尊師」
「ええと……誰ですか?」

 気がゆるんでいたのもあってか、ぼくは文豪口調を忘れてざっくばらんに問いかけてしまう。
 しかし目の前の男は気分を害した様子もなく、苦笑いを浮かべてこう言った。

「なりきりに興じていないのでわかりませんかな。金色夜叉です」
「ああ、言われてみればどことなく面影が……」

 ぼくはぽんと手を打つ。
 全身ゴールドのおっさんは、全身ゴールドでないときは普通のおっさんなのだ。
 そのうえ素面だからだろうか、今日の彼は文豪らしい振る舞いを強要してこない。
 まるで散歩中に話しかけてきたかのように自然な感じで、

「気分転換に釣りにでも行きませんか。思うように筆が進んでいないご様子ですし、せっかく島に来たのですから優雅にボートにでも乗ってみたいでしょう」 
 
 正直なところ、面倒だなと思った。
 だけど相手はクラスタのお偉いさんなので、むげにもできなかった。


 ◇


「このボートは最新型でして、タッチパネルを操作すれば勝手に目的地まで航行してくれます。ほかの船舶が見えたときはブザーを鳴らして、AIが回避してくれたりもするんですよ」
「へえ、流行のオートドライブ機能ってやつですか。自動車だけでなくほかの乗り物にもあるんですねえ。なんだかSFって感じで興奮しちゃいます」

 学生時代にバイトでよくおっさんの相手をしていたので、高価なおもちゃ自慢にヨイショするのも手慣れたもの。
 ぼくは金色夜叉さん相手に何度もごまをすりながら、しばし海釣りに興じる。
 やがて彼は頃合いを見計らったように、

「ビオトープでの生活はどうですか。そろそろ慣れてきたころでしょう」
「ええ、たまに自分が兎谷三為なのか、欧山概念なのか、わからなくなるくらいには」

 口に出してから、失言だったかなと後悔する。
 しかし金色夜叉さんはぼくをとがめることもなく、竿に魚がかかったのか、リールを巻きあげはじめる。
 そして部下に悩みを打ち明けられた上司さながらの調子で、こう言った。

「クラスタの理念を遂行していると、私もそういう気分になるときがあります。そこまで文豪になりきれるとはさすがは尊師、と言いたいところですが……完全に没入してしまうとそれはそれで不都合がありましょう」
「実際のところ危機感を覚えていますよ。自分が自分でなくなっていくような感覚で、なんとも気分が悪いですし」
「フーム。執筆が滞っている理由はその辺にあるのですかな。だとすればやはり、我々は選択をまちがえたのでしょうか」

 慣れた手つきで釣りあげた魚(詳しくないので名前すらわからない)をシメつつ、金色夜叉さんはあっさりとクラスタ側の否を認めた。
 ぼくはその言葉にすくなからず驚いて、まじまじと彼の顔を見つめる。

「おっと、今のは評議会の総意ではなく、あくまで私個人の考えです。ですから他言はひかえていただけると助かります。うっかりすると立場が危うくなりますからな」
「そういうことなら誰にも言いませんけど……。口をすべらせたついでに、金色夜叉さんの意見とやらを聞かせていただけませんかね。わざわざ海釣りに誘ってくれたのも、ほかに誰もいないところで、その話がしたかったからでしょう?」

 ぼくがそう言うと、金色夜叉さんのまなざしに得体の知れない色が宿る。
 最初に出会ったときから、このひとはクラスタの中で――まことさんと同じかそれ以上に、胸襟を開いて話をしてくれているような印象を受ける。
 そしてそれは、ぼくの思い違いではないはずだった。

「はて、どこから話せばいいものやら。かねてより金色夜叉めは兎谷三為尊師のお目付役として、文豪らしく振る舞え、欧山概念のように威厳を保てと口うるさく言ってまいりました。しかし実のところそれは評議会にて決定された方針に従っていただけでございまして、私個人としては当初より、貴方様にクラスタの理念を遂行させる意義について懐疑的なのです」
「そうなのですか? てっきりノリノリでやっているものかと」
「我々の活動に対する理解を深めてほしい、とは常々願っております。とはいえ教義とは強要されてやるものではないですし、ましてや尊師は敬虔なる読者ではなく、自らの思い描いた世界を体現なさる力をお持ちの、作家さまでございます。であれば欧山の登場人物のなりきりに興じる必要はなく、新しく創造なさるのが本来のお役目でありましょう」

 そこまで話したあと、金色夜叉さんは深々とため息を吐く。
 どういうわけか彼の表情に深い絶望を見て、ぼくはわずかに眉をひそめる。

「私は最近、こう思うのです。クラスタの者たちは尊師のように欧山的な作品を創造できぬがゆえ、彼の世界を模倣することで、自らの内から溢れる情熱を慰めているにすぎないのではないか、と。あなたの小説を愛している、そう伝えるためになにをすべきか。本当は理解しているというのに、その資格をもたぬがゆえに、作品世界を再現するという代替行為によって、飢えた心を満たしているのでありましょう」
 
 ぼくは金色夜叉さんがなにを言っているのか、よくわからなかった。
 すると彼もこちらの気持ちを察したのか、

「端的に申しあげるなら、欧山概念的な世界を具現化する――クラスタの理念を遂行するもっとも理想的な手段は、彼のような小説を書くことにございまする。かの文豪に匹敵しうる、新たな作品の創造。すなわちそれこそが、我ら一同の秘めたる願いというわけで」
「ええと要するに、クラスタの面々も潜在的には作家志望者なのではないか、ということですか? だったら書いてみりゃいいじゃないですか。まことさんがそうしたみたいに」

 相変わらず難解な物言いの金色夜叉さんがまどろっこしくて、ぼくはつい率直な意見を口に出してしまう。
 彼自身がそう認めたように、作品愛を示すだけならもっと平和で、合理的な手段はいくらでもある。沸騰した湯に飛びこんだり、文豪の才能を見いだした女性のクローンを生みだすなんて、常軌を逸した行為に身を染める必要はどこにもない。

 ほかの文芸サークルの多くがそうであるように、欧山作品の二次創作をする団体として活動していればよかったはずなのだ。
 しかし、

「残酷なことを言いますな、尊師。書いてみようとしたところで、我らは我らの創作物に納得できないのです。クラスタの者たちは、出来の悪い模倣物では満足できませぬ。そのうえ誰よりも欧山作品を愛している敬虔なる読者が、唾棄すべきまがい物を作りあげてしまうという事実を、どうしても直視することができない。美代子にしてもそう、彼女の小説には愛がない。かの文豪に対するリスペクトがない。そもそも欧山概念的な小説を書こうとしているかどうかも怪しい。むしろ否定したがっているようにすら感じられます」
「そんなこと言ったらぼくだって、欧山概念的な小説を書こうなんて思っちゃいませんでしたよ。文豪の力を継承したなんて本気で認めたくないですけど……あのクソオカルトが事実だとしても、ぼくはずっと自分の小説を書きたいと思ってきました。なのにあなた方に欧山欧山言われて、いい加減にうんざりしているところです」

 つい感情的になって本音をぶちまけると、金色夜叉さんは虚を突かれたような表情を浮かべる。後先を考えずに話してしまったけど、ぼくに後悔はなかった。
 やがて彼は納得したような表情を浮かべ、こう言った。

「欧山作品に心酔するものは、どうあがいたところで模倣者にしかなれません。否定もせず、肯定もしない。かの文豪の作風をまったく意識しないからこそ、貴方様は現代の欧山概念たりえるのでしょうか」
「結局ぼくがなにを言っても、どう思っていても、あなた方はぼくをポスト欧山なんちゃらに認定するつもりのようですね……。おかげでいよいよ頭が痛くなってきましたよ」
「ハハハ。気分を害されたのなら申しわけない。しかし我々が選択を間違えたのではないかと思うのは、つまりはこういった理由でございまして」

 いきなり本題に戻ったので、今度はぼくが虚を突かれてしまう。
 そもそもこれまでの会話は――兎谷三為尊師に文豪として振る舞うようにと、クラスタ側がなりきりプレイを強要することの意義を、ほかでもない評議会の一員たる金色夜叉さんが問うたことが発端だったのだ。
 そのうえ彼は、さらに突っこんだ意見を口に出す。

「ビオトープのような欧山概念的な空間に身を置くことが、尊師にとって理想的な創作環境なのだと、クラスタの面々はそう信じている節があります。しかし実際に貴方様のお顔を拝見すると、窮屈な籠に押し込められた鳥のごとく覇気がない。そもそもかの欧山概念大師は、この島のような特異な場所で小説を執筆していたのでしょうか? 私めにはむしろ逆に思えるのです。無味乾燥的な、平凡な、夢想を抱くことでしか生きることに希望を見いだすことのできぬような生活の中にいたからこそ、創作の翼は羽ばたかせたのではないか、と」

 そこで疲れたのか一拍の間を置き、金色夜叉さんは苦渋に満ちた顔で「だとしても」と続ける。
 ぼくは寒々しい冬の海に浮かぶ船上で、彼の言葉に耳を傾けるほかなかった。

「組織として肥大し、歪みきったクラスタは今さら変わることができませぬ。真に敬虔なる読者であれば、かの代理人だった美代子がそうしたように、兎谷三為尊師の作品を広く世に知らしめるべく働きかけるべきだと理解していても――評議会は多くの信者たちから求心力を得るために、貴方様という才能を囲い、宗教的なシンボルとして利用しようと画策しています。私めにはそれが、たまらなく虚しく思うのです」

 彼はそう言ったあとでふいに、操縦席のほうを指す。
 そこにはこれみがよしに、タッチパネルの操作マニュアルが置いてあった。
 表紙にBANCY社のロゴがあり、今載っているボートに件のIT企業が開発したAIが搭載されているのだと気づく。
 代表取締役である田崎氏も元々はクラスタの人間で、現在は袂を別っているという話だったが、会社としての付き合いはまだ残っているのかもしれない。
 なんてことを考えていると、

「ここだけの話、私めはズボラな性根でして……うっかりボートの鍵を置き忘れることがあるのです。そうなると無断で船を借用されかねませんし、不用心だと思いませんか」

 唐突にそんな話を振られた理由を考えたあと、ぼくはあっと声をあげる。
 オートドライブ機能搭載の、最新式のボート。
 金色夜叉さんの説明が事実なら、船舶免許を持っていない素人だろうと、AI制御で船を操縦できるはずだった。
 あるいはそのまま島を出て――本州に渡ることすら。
 
「皆が寝静まったころ、夜釣りに行くのも風情がありましょう。しかしながら、美代子は誘うべきではありませんな。かの娘はクラスタの代表者でありますゆえ、日々の勤めに差し障りかねません。貴方様だけならともかくとして、ね」
「そう、ですか……。つまり、ぼくひとりで島を出ろと……」

 具体的なことを口にしたぼくに、金色夜叉さんは「しっ」と釘をさす。
 そして彼は、銀貨三十枚で聖者を売り渡す背教者の顔を向けると、

「実のところ、いまだに迷っているのでございます。しかし貴方様がもし羽ばたこうとなさるのならば、私めも勇気を出して、評議会にて新たなる理念を提唱しようかと思いまする。たとえ唾棄すべき代物であったとしても、模倣者にすぎないと自覚したとしても――」
「難しく考えずとも、やってみりゃいいと思いますけどね。すくなくとも全身を金色に塗りたくるよりは、価値のある行動だと思いますよ」

 金色夜叉さんは「こりゃ、一本取られましたぞ」と言って、自分の頭をぽんと叩く。
 今からでも概念クラスタが、わずかでも真っ当な文芸サークルに変わっていくことを祈って――ぼくは会話の締めにもうひとこと、彼らが信奉する文豪の言葉を引用した。

「絶対小説の序文にも、小説を書くことで幸福は得られると書いてありましたし」
「ハハハ。それは実に欧山大師らしいお考えですなあ」

 彼は屈託のない笑顔を浮かべたあと、その表情とは不釣り合いに乾いた声で呟いた。

「なるほどそれは、現実の中にはありますまい」
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登場人物紹介

兎谷三為


売れない新人ラノベ作家。手にしたものに文才が宿る魔術的な原稿【絶対小説】を読んだことで、百年前の文豪にまつわる奇妙な冒険に巻き込まれる。童貞。

まこと


オカルト&文芸マニアの美人女子大生。金輪際先生の妹。

紛失した絶対小説の原稿を探すべく、兎谷と協力する。

欧山概念


百年前に夭折した文豪。

未完の長編【絶対小説】の直筆原稿は、手にしたものに比類なき文才を与えるジンクスがある。

金輪際先生


兎谷がデビューしたNM文庫の看板作家。

面倒見はいいものの、揉め事を引き起こす厄介な先輩。

僕様ちゃん先生


売れっ子占い師。紛失した絶対小説の行方を探すために協力してくれる。

イタコ霊媒師としての能力を持つスピリチュアル系の専門家。アラサー。

河童


サイタマに生息する妖怪。

肉食植物である【木霊】との過酷な生存競争に明け暮れている。

グッドレビュアー


ベストセラーのためなら作家の拉致監禁、拷問すら辞さない地雷レーベル【ネオノベル】の編集長。

裏社会の連中とも繋がりがあるという闇の出版業界人。

田崎源一郎


IT企業【BANCY社】の代表取締役。

事業の一環として自社のAIに小説を書かせている。


田中金色夜叉


欧山概念を崇拝するあまりカルト宗教化した読者サークル【概念クラスタ】の幹部。

欧山の作品に登場した妖怪になりきるために全身をゴールドのポスターカラーで塗りたくっている。

川太郎


欧山概念の小説【真実の川】に登場する少年。

赤子のころに川から流れてきた孤児であるため、己が河童だと信じている。

リュウジ


金輪際先生の小説【多元戦記グラフニール】の主人公。

最強の思念外骨格グラフニールに搭乗し、外宇宙の侵略者たちと戦っている。

ミユキ


金輪際先生の小説【多元戦記グラフニール】のヒロイン。

事故で死んだリュウジの幼馴染。

外宇宙では生存しており、侵略者として彼の前に現れる。

ライル


兎谷の小説【偽勇者の再生譚】の主人公。

勇者の生まれ変わりとして育てられたが、のちに偽物だと判明する。

マナカン


兎谷の小説【偽勇者の再生譚】のヒロイン。

四天王ガルディオスとの戦いで死んだライルを蘇らせたエルフの聖女。

真の勇者ユリウスの魂を目覚めさせるために仲間となる。



聖騎士クロフォード


兎谷の小説【偽勇者の再生譚】の登場人物。

ライルの師とも呼べる存在。

ガルディオス戦で死亡し、魔王軍に使役されるアンデッドになってしまう。

お佐和


欧山概念の小説【在る女の作品】に登場する少女。

病弱ゆえ外に出ることができず、絵を描くことで気分をまぎらわせている。

やがて天才画家として評価されるが、創作に没頭するあまり命を削り息絶えてしまう。

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