2-4:……河童ですね。
文字数 3,983文字
最初に感じたのは、耐えがたい息苦しさと、口から溢れでる大量の水。
それがいったんおさまると、口の中いっぱいに青臭さと泥の味が広がり、歯の間に挟まった砂のじゃりじゃりとした感触に不快感を覚えた。
再び咳きこみながらポンプのように水を吐きだしていると、そばにいたまことさんが泣きそうな顔で背中をさすってくれる。
「大丈夫ですかっ!? 大丈夫ですかっ!?
「げっ……げふっ! ぼ、ぼくは……?」
「助かったんです! 助けてもらったんですよお!」
朦朧とした意識の中、彼女の言葉を理解することすらおぼつかない。
内蔵が飛びでてしまうのではないかというほどげえげえと水を吐いたあと、ぼくはようやくなにから助かったのかを思いだす。
二人して川に落ちて溺れかけたのだ。
「ああ……よかった。まじで死ぬかと思った」
「わたしもです。すみません、兎谷先生」
まことさんは鼻水をたらしながら、ずびずびと泣きだした。
斜面から転げ落ちそうになった彼女に手を伸ばして、自分も巻きこまれたかたちになったとはいえ――まことさんだけ川に落ちていたらどうなっていたかわからないし、ひとまず二人とも無事でよかった。
周囲に目を向ける余裕が出てくると、ぼくたちがいる川辺からすこし離れたところに、たき火が燃えていることに気づく。
そして視線を近くに戻すと、まことさんのうしろにもう一人、知らない男性が立っていた。
ネズミ小僧のような頭巾をかぶった作務衣の老人で、いかにも山育ちという風情だ。
「おおう、よがっだなあ。こっぢはもうだめがどおもっだぞお」
「あ、あの……どちらさまで」
「この人が溺れていたわたしたちを助けてくれたんですよ、兎谷先生」
「そ、そうだったんですか。ありがとうございます!」
「ええっでごどよ。がわはあぶねえがら、ごんどがらきぃづけろ」
ぼくが姿勢を正してお礼を言うと、老人は快活に笑う。
やけに訛りが強いけど、この辺にあるという限界集落の住民だろうか。
あらためて彼に頭をさげると、髪からぼたぼたと水滴が落ちてくる。
Tシャツはともかくゴアテックスのパンツも水を弾ききれなかったようで、下着までびしょびしょだ。
隣のまことさんも同じくびしょびしょで、濡れた服が肌に張りついていた。淡いブルーの下着が透けていることに気づいて、反射的に視線を泳がせてしまう。
そこで老人がひとこと、
「からだがひえるどいげねえ。火にあだってかわかぜや」
「そ、そうですね。重ね重ねありがとうございます」
「――くちゅんっ!」
まことさんが可愛らしいくしゃみをしたので、ぼくらは慌ててたき火の前に移動した。
◇
ひとまず服を脱ぎ、トランクス一丁でたき火にあたる。
まことさんは老人に作務衣を貸してもらい、物陰でシャツとデニムだけ脱いで着替えたあと、ぼくと同じく服が乾くまでの間、たき火にあたることにしたようだ。
やがて場を離れていた老人が、藁でできたカゴを背負って戻ってくる。
彼は両手に見覚えのあるものを抱えていた。
あれはぼくのバッグだ。
カゴをもってくるついでに探してきてくれたらしい。
「わざわざありがとうございます。……よかった、中身も無事だ」
「変わっだ身なりだな、おめえら。どっがらぎたんだ」
「えと、東京からきました」
「しらねえどこだな。やっばりヨソモンか」
ぼくは驚く。
東京を知らないということはないだろう。
今はまことさんに作務衣を貸しているため、頭巾にふんどしというアバンギャルドなスタイルになっているものの、全体的に古風な雰囲気の老人だ。
頭巾からのぞく顔も干物みたいにしわくちゃで、かなりのご高齢のように見受けられる。
もしかすると、ちょっとボケているのかもしれない。
「ぼくは兎谷といいます。今日はまことさん……ええと、隣にいる彼女といっしょに山を散策しておりまして。途中まではよかったんですけど急に霧が出てきて、迷っているうちに二人して川に落っこちちゃったんですよ」
「へえ。迷っで川に落ぢたのだけわがった」
「……そ、そうですね。だから溺れたんですよねぼくら。というわけで助けてもらったうえにご迷惑をおかけして心苦しいのですけど、帰り道を案内してもらえると嬉しいのですが」
「無理だな。おら用事がある」
「なるほど。それではしかたありませんね……」
老人にあっさりと断られたので、ぼくは困ってしまう。
ぼくとまことさんは二人とも地図とスマホを川に落ちたとき紛失してしまったし、自分のバッグこそ見つかったものの、中に入ってたコンパスだけで下山するのは正直かなりの不安がある。
迷ったすえに、隣のまことさんに小声で相談する。
(ぼくらだけで帰れると思う?)
(正直に言うと怖いです。ほんとすみません、なんかわたしのせいで)
(いやいやいや! 君は悪くないから気にしないで! 今はちょっとうまくいってないけど最後は楽しく笑って帰ろう!)
まことさん、めちゃくちゃ落ちこんでいて相談するどころじゃなかった。
責任感が強いタイプなのか、またもや鼻水をずびずび垂らして泣きそうな顔をしている。
ぼくがなんとかするしかない。
でもぶっちゃけ自信ないな……。おじいちゃん助けてくれないかな……。
老人にすがるような視線をそそぐと、
「人手がだりねえ」
「はい?」
「山に用事があるげど人手がだりねんだ。おめえらヨソモンも手伝っでくれねえか」
「ええと……ちなみになにをするので?」
「食うもんをどりにいぐ」
老人が小脇に置いている藁カゴをのぞくと、大ぶりの鉈や鎌、粗紐や網が入っていた。見たところ、山菜か茸を採りにいくのだろう。
隣のまことさんが、ぼくに小声で囁く。
(手伝えば帰り道まで案内してもらえるかも)
(……だね。溺れていたところを助けてもらったわけだから断るのもアレだし、これはこれでいい取材になるかもしれない)
(兎谷先生はポジティブですね。ありがとうございます)
お礼を言われるようなことはしていないものの、まことさんから笑顔が戻ってきたのでホッと息を吐く。
とりあえず彼女も異論はなさそうなので、ぼくは老人に、
「お役に立てるかどうかわかりませんが、ぜひ手伝わせてください」
「よおし。んじゃもうすぐ仲間がやっでぐるから待っててけろ」
◇
しばらくすると服が乾いたので、ぼくとまことさんは着たときの格好に着替えなおした。
そうしているとちょうど老人の仲間がぞろぞろとやってきたので、ひとまず彼らに事情を説明する。
ぼくらを助けた人をふくめて十五人。みな例外なく干物のような男たちだ。
「ほおう、ヨソモンとは珍しいな。見でのどおり若えのがずくねえ。助けでやったぐらいの恩は返じてもらうとするか」
老人衆を代表してそう言ったのは、みなに『村長』と呼ばれている男性だ。白いヒゲを長く垂らしていて、仙人だと言われたら信じてしまいそうな貫禄がある。
彼らはみな古びた頭巾をかぶっており、身にまとう服も作務衣、半纏、ふんどし一丁という有様。
最初の老人にかぎった話であれば気にならなかったものの、こうも揃うと、
(……なんだか変わった人たちですね、兎谷先生)
(埼玉も山奥のほうだと、昔ながらの生活をしているのかもしれないね)
小声で囁きかけてきたまことさんにそう返したあと、我ながら「そうか?」と疑問を覚える。
山暮らしにしたって普通はビニール製のサンダルやナイロンのバックパックあたりは持っていそうなものなのに――彼らは藁や麻を編んで作ったような古めかしい身なりで揃えていて、その徹底ぶりは時代劇のエキストラのようだ。
村長に先導されて山に入ると、余計に違和感が強くなった。
渡された鉈を使って、うっそうと茂る草木をかきわけていくのだが……周囲に生える植物の多くがぐるぐると渦をまいていたり、毒々しい赤色の花蕾をつけていたりと、来るときに見た景色とまったく違うのである。
「赤いやつは毒があるがら気ぃづけろや」
「は、はい」
村長の言葉に、うしろのまことさんが震える声で返事をする。彼女も言いようのない違和感を覚えているようで、ぼくの背中をぎゅっとつかんできた。
そして小声でひとこと、
(ここ、ジャングルじゃないですよね?)
ぼくは無言で首を横に振る。そんなことはありえない。
ここは埼玉の山間部だ。
ケタケタケタケタと面妖な鳴き声が響いたかと思えば、草花の間から拳ほどの大きさのコガネムシがぴょんと跳ね、3メートルはありそうな樹木のうえから、猿のような顔をした鳥がぼくらを見下ろしていたとしても――ここは埼玉なのだ。
ぼくはまことさんを安心させようと、この状況を説明できる理屈はないものかと考える。
しかしその最中にも前を歩く老人たちの肌が淡い緑色に変じていき、カメレオンのごとく周囲の景色に溶けこんでいく。
彼らの一人が頭巾をぬぎながら、ぼくにこう言った。
「まっだく、今日はあづいからいげねえや」
「そ、そうですね。ぼくもそう思います。ハハハ」
しかしぼくが汗をかいているのは、暑いからではない。
老人衆が次々と頭巾をぬいでいくと、その頭頂部は一様につるつると禿げていた。
頭に皿を乗せたような姿は、緑色に変じた肌とあいまって、あるものを連想させる。
「……河童ですね」
うしろのまことさんがぽつりと呟く。
彼女はこの状況を、たったひとことで説明してくれた。