7-10:世界の終わりとリアルモンスターワールド(1)
文字数 2,341文字
そう思いまばたきをした瞬間、ぼくは夜の渋谷に移動していた。
二周目の絶対小説は現実の体裁を取るつもりが最初からないのか、時系列はめちゃくちゃだし、筋書きに影響しない場面はいさぎよく省略してしまう。
この調子なら与えられた役割をただ演じているだけで、すぐにでも結末にたどりつけるはずだ。
まことさんともう一度会いたいと願っていたけど……今となってはなにを伝えたかったのかさえ、思いだすことが難しい。
たぶんその言葉はぼくの中にはなく、語り部である兎谷三為が持っているのだろう。
伝えたいことがなにもないのなら、あえてこの物語を続ける理由がどこにある?
目が覚めた先になにもないことはよく知っているけど、それでもこの目障りな世界をぶち壊すことができたら、多少は気分がスカッとするかもしれない。
◇
「欧山概念という作家を知っているか」
「うちのレーベルで書いている人ですか? まだご挨拶したことはありませんね」
「バカを言うなよ兎谷くん。百年前に死んでいる男だぞ」
若かりしころの自分と対面するというのは、やはり奇妙な体験だった。
兎谷三為の髪はふさふさで、肌にもハリがあり、なによりもまだ目が死んでいない。
愛着と嫉妬。郷愁と憧憬。若者に向けるべきありとあらゆる感情がまじった視線をそそいでいると、兎谷三為はさっそくスマホで欧山概念について検索しはじめる。
大正のころ。芥川龍之介が活躍していた時代。三毛別羆事件から数年後。
欧山概念という作家が未完の作品を遺した。
その原稿に目を通してしまった以上、君はこれから倒錯的かつ救いがたい夢の世界に翻弄される運命にある。だから早く眉間を撃ち抜いてくれよ、兎谷三為くん。
前途多難な青年に期待をかけながら、ぼくは物語の発端となる設定を語り続ける。
あの日の金輪際先生と同じように、したり顔で。
「代表作である化生賛歌は、欧山概念が同人誌に寄稿していたころの短編を再構築した連作小説だ。つまり死の間際に書いた絶対小説のほうは、彼がはじめて挑戦した長編作品ということになる。さきほど私が話したように、完成することがなかったとはいえ」
「なるほど。欧山作品のファンであれば、喉から手が出るほど読んでみたいでしょうね。金輪際先生としては、かの文豪が頭の中に描いていた長編とはいったいどんなものだったのか……なんて空想したりするのですか」
「まあ、そういう楽しみかたもある。あるいは自らその続きを書いてみるなども」
事実、欧山概念が夢想した物語を体験したぼくは、現実に戻ってから絶対小説の二次創作を書いている。
後世の人間が未練を晴らすというのは美しい流れかもしれないけど……当の怨霊はその出来映えに満足してくれなかったのか、再びこの世界に戻されるハメになってしまった。
それとも、傑作になるまで続くのだろうか。
何度も何度も、ボツを繰り返して。絶対小説という名の、悪夢が。
「ここから先が面白いところだぞ。欧山概念が死の間際に書いた原稿には怨念がこもっており、それが魔術的な力となって所有者にインスピレーションを与えるというのさ。結果として、欧山が持っていたような比類なき文才が所有者となったものに宿る、という仕組みだ」
「ははあ、いかにも骨董品の逸話という感じですね」
「さては君、本気にしていないだろう」
ぼくがそう言うと、兎谷三為は困ったように笑みを浮かべた。
面倒くさい先輩だなと思っているのだろうし、その気持ちもまあよくわかる。
しかし目の前にいるのは、十年後の君自身だ。
くじけそうになりながら何度筆を取ったところで報われることはなく、現実に打ちひしがれて創作の情熱を失い、惰性で小説を書き続ける、ただの負け犬になる。
そういう筋書きになっているのだから、いくら努力しても意味はない。
だとしたら君は、そしてぼくは、いったいなんのために物語をはじめるのだろうか。
「で、先生に文才は宿ったんですか? 読んだんですよね、原稿」
「うむ……。しかし残念ながら私は、欧山概念に選ばれなかったらしい」
「ああ、選ばれないとか選ばれないとかもあるんですか」
「だからせめて、君に文才が宿らないものかと思っていてね。私たちはとてもよく似ているだろう?」
「どうでしょうねえ」
兎谷三為はあからさまに嫌そうな顔で、ぼくから目を背ける。
そして古ぼけた紙束を手に取り、こう呟いた。
「ずいぶんと値の張りそうなものですよね、これ」
「ハハハ。たかだか三百万で文豪になれ……ん?」
用意されていた台詞を言いかけた途中で、ふいに違和感を覚えて眉をひそめる。
彼の手元に、原稿がある。
……おかしい。
ぼくの記憶が確かなら、消えてなくなっていたはずなのだ。
この時点で、すでに。
だというのになぜ君は、まだそれを持っている。兎谷三為。
「ぼくだって選ばれやしません。……欧山概念? 比類なき文才が得られる魔術的な原稿? そんなクソみたいなジンクスに魂を売るくらいなら、最初から創作で勝負しようなんて考えませんってば。バカバカしい。むしろ腹立たしいですよ」
「ちょっ……待て!! お前、なにをするつもりだ!!」
「大体ね、こんなものがあるからいけない。先生もいい加減、目を覚ましてください」
兎谷三為は憮然とした表情でそう言うと、持っていた原稿をびりびりと引き裂いた。
ぼくは目の前で起きたことが信じられなくて、呆然としてしまう。
欧山概念の。
文字が。
塵芥と化して。
宙を舞っている。