5-12:だったらそんな現実、壁に叩きつけてやるよ!!
文字数 3,958文字
玄関先でまことさんが待っていたので、手土産として持たされたクーラーボックスを渡す。中には魚がぎゅうぎゅうに詰められているものの、すべて金色夜叉さんの釣果である。
「では今日は豪勢に、海の幸を堪能しましょう」
「それは楽しみだな。我が輩は群馬出身ゆえ、新鮮な魚には目がないのだ」
海なし県民は海産物に弱い。
文豪口調でそう伝えると、まことさんはほがらかに笑う。
今夜ビオトープを出るなら、この愛おしい表情も見納めだ。
そう思うと針で刺されたかのように、胸がちくりと痛んでくる。
◇
まことさんがさばいた魚を鍋にして味わったあと、ぼくらは数日ぶりに肌を重ねた。
彼女はぼくがビオトープを出ようと決意したことに気づいた様子もなく、今は毛布にくるまってあくびをかいている。
その無邪気な表情を見ているとやはり、罪悪感に苛まれてしまう。すくなくとも彼女の想いを裏切った事実を、ぼくは一生後悔するハメになるだろう。
「今日、出ていくよ。小説を書かなくちゃいけないから」
無意識だったのか、それとも打ち明けるべきだと思ったのか。
自分でもわからなかったけど、自然と口から言葉は漏れていた。
しかしまことさんはとくに驚いた様子もなく、こう答えた。
「そう。あなたならたぶん、そうすると思っていたわ」
「……ずいぶんとあっさり納得するんだね」
「じゃあ怒ってほしいの? それともわんわん泣いてほしい?」
ぼくは返答に詰まる。
彼女の反応に物足りなさを感じたのは事実だった。
我ながら嫌な男で、心の底から情けなくなってくる。
「ごめん。いや、謝ったところで許してもらえるとは思えないけど」
「最初からわかっていたし、だから覚悟もしていたの。全身ゴールドおじさんが手を貸してくれるのなら、安全に脱出できるでしょうし」
「その口ぶりからすると、なにもかも筒抜けだったわけか。昨日のうちに独占契約の書類を突きつけてきたのも、金色夜叉さんがぼくを逃がそうとしていると察していたからなの?」
そう言ってから、まことさんの表情をうかがう。
なんとなく違和感があって、どうしてなのか考えて、そしてぼくは答えを得た。
「もしかしてぜんぶ、君が……」
「あれ、なんでわかったの。兎谷くんもすこし腕をあげたのかしら」
まことさんはあっけらかんとした顔でそう呟く。
大変よくできました、といったご様子だ。
とはいえぼくがまた、彼女の嘘を最後の最後まで見抜くことができなかったのは事実だろう。
金色夜叉さんに指示を出したのは――ほかでもない彼女なのだと。
「困ったことに美代子として生を受けたのよ、わたし。あなたの作品はクラスタに独占されるべきじゃない、もっと広い世界で評価されるべきでしょ。だったらそのために、文豪の代理人としてやるべきことをやらなくちゃ」
「そういえば、ネオノベルでも同じようなことを言っていたっけ。最初からずっと君が一番……ぼくの小説を応援してくれていた」
「たぶんね、絶対小説となんの関係がなくても、わたしはきっと兎谷くんと、兎谷くんの小説が好きになっていたと思う。でもあなたが欧山概念の魂を継承していなかったらこうして出会うこともなかったわけだし、そして継承してしまったからこそ、わたしたちはいっしょにはいられないの。概念クラスタの思想が歪んでいることは誰よりもよく知っているし、彼らがあなたの創作活動を邪魔しないよう、わたしはここで金色夜叉とともに評議会を制御していかなくちゃいけないから」
その言葉を聞いて、ぼくは泣きそうになった。
まことさんは怒ったり泣いたりもせず、お互いの別離をただ享受しようとしているのだと、そう気づいて。
ぼくの小説のために。
小説を書きたいと願う、ぼくのために。
そう納得しかけて――しかしふと胸のうちにわいたのは、憤りだった。
「……やっぱり納得がいかないよ。お行儀よく手を振ってはいさようならって、楽しみに読んでいた小説の主人公がヒロインとそんな結末を迎えたとしたら、ぼくは絶対にその本を壁に叩きつける気がする」
「それは兎谷くんがラノベ作家だからでしょう? 底の浅いラブコメじゃないんだから、なんでもかんでも結ばれてハッピーってわけにはいかないの、現実はね」
だけどぼくは、まことさんの手を握った。
彼女のどこまでも頑固で、眉を吊りあげて首を横に振る。
「こどもみたいに駄々をこねないで。まさかわたしと駆け落ちでもするつもり? 言っておくけど本気を出したクラスタは、ネオノベルが可愛く思えるほど過激な団体なのよ」
「知っているさ。武装したやつらがビルに突入するところを見たんだぞ、ぼくは」
「じゃあ冷静になりなさいな。目の前にいるのはラプンツェルじゃなくてクソカルトの教祖さまだし、あなただって白馬の王子さま役にしちゃ残念すぎるツラでしょうに。引きこもりのラノベ作家が愛想のいい子にメロメロになって、強引にお持ち帰りしようとしているだけのくせに、オーランド・ブルームにでもなったつもりで手を握ってこないでよ」
「そうだね……君の言うとおり、自分に酔っていることは認めるさ。でも一生に一度くらい、勢いに任せて女の子を口説いたっていいだろ。ぼくはこの島から出ていくし、クラスタの契約を蹴ってNM文庫で小説を出す。でもだからといって、君と別れなくちゃいけない理由にはならない。仕事と私生活を両立するのが、正しい社会人のあり方じゃないか」
小説を書くことで幸福になれる。
欧山概念は、絶対小説の序文にそう記した。
なのに今ぼくは小説を書くために、手にしたはずの幸福を捨てようとしている。
……納得できるわけがない。
百年経っても成仏できない往生際の悪いクソ文豪のせいで、どうしてぼくがまことさんのことを諦めなくちゃいけないのか。ただでさえ何度もひどい目にあっているのに、これ以上やられっぱなしでいられるか。
ぼくがなおも強く手を握ろうとすると、彼女はスッと身体を離してこう告げた。
「でもここで別れるのが正しい選択なの。わたしがいなくなったら評議会は確実に暴走していくわ。そうなったらクラスタに追われて逃げ続けなくちゃいけないし、小説を書くどころじゃなくなるでしょ。そのときになって後悔しても遅いんだから」
「そんなの、全身ゴールドおじさんになんとかしてもらえばいいだろ。ここで君と別れたら一生後悔するし……どうせ後悔するなら、白馬の王子さまの役を最後までやりとげたいよ」
「ほら、やっぱり。兎谷くんは単に現実が見えていないだけ。いくら納得できなくても、あなたの選択肢はひとつしかないの。世の中には、どちらも選べないことだってあるのよ? いくら手を伸ばしたところで届かないものはあるし、どれだけ望んだって得られないものはある。それでもみんな我慢して、必死に耐えて生きていくの。そんなこと、あなただってわかっていたはずでしょ」
「だったらそんな現実、壁に叩きつけてやるよ!! 納得できない結末を読まされるくらいならね!!」
気がつくと、ボロボロに泣いていた。
裸のまま、必死に駄々をこねて。土下座するように、腰をかがめて。
幻滅されてもおかしくないほど、情けない姿だったのかもしれない。
実際、醜態を晒したぼくを見て、まことさんはこう呟いた。
「うわ、なに今の。ごめん、ダサすぎて素に戻っちゃった」
「えええ……。ぼくは真剣なんだけど……」
さすがに唖然としてそう返すと、彼女は毛布にくるまってケラケラと笑う。
おかげで余計にみじめな気分になってきて、ぼくは絶望の底に叩きつけられた。
でも、
「わたしがいなくなったら、小説どころじゃなくなりそうね。兎谷くん」
「すくなくとも作風に影響は出るよ。めちゃくちゃ話が暗くなったりするかも」
「それはちょっと困るかな。なんだかんだ言ってもわたし、底の浅いラブコメってのも嫌いじゃないし」
今度はまことさんがそう言って、自分からぼくの手を握ってくる。
彼女の体温が伝わって。
優しさが伝わって。
溢れるばかりの想いが伝わって。
ぼくの口から自然と、嗚咽が漏れてしまう。
「クソみたいなラブコメって最後はハッピーエンドになるってわかっているから、安心して読めるのよね。わたしが面倒を見てあげたら、兎谷くんはそういう作品も書いてくれる?」
「……今書いているやつが落ちついたら、ね。主人公はたぶん、めちゃくちゃ振りまわされると思うよ」
まことさんは歯を食いしばって、必死に笑うのを我慢している。
そんな彼女の表情を見て、どうやら腕をあげたらしいぼくはこう言った。
「本当はちょっとだけ期待していたんじゃないの。駆け落ち」
「え、ちょっとだけだと思う?」
やっぱり君は嘘まみれじゃないか。
でもだからこそ、逆にわかりやすいのかもしれなかった。
◇
そしてふたりで、夜が明けないうちにボートに乗りこむ。
ビオトープに来たときの悲惨な状況を思えば、ありえないほどドラマチックな幕引きだ。
だけど冬の澄んだ星空の下、ボートに乗って静かに元いた島が遠くなっていく様子を眺めていると――不穏な考えがふと、心の中に芽ばえてくる。
これは本当に、自分で選んだ行動なのだろうか、と。
……ビオトープで長く生活していたせいかもしれない。
今なお誰かが書いた小説の、なりきりプレイに興じている。
そんな気がして、ぼくはどうにも落ち着かなかった。