6-18:さようなら、兎谷三為。
文字数 4,038文字
世界が終わったはずなのに、なぜだか自分は消えていない。
頭がはっきりとしてくるにつれ、兎谷三為としての記憶が徐々に薄れていき、現実での退屈な暮らしぶりが思いだされてくる。
フローリングの床にビールの空き缶が汚らしく転がっているのを見て、深々とため息を吐く。
なんということはない。酔っ払ったあげくに眠りこけていただけなのだ。
暗い部屋の中をぐるりと眺めたあと、ぼくは隣に目を向ける。
やっぱり君はいなかった。
◇
十年の歳月というのは残酷である。
それが夢を見ている間に過ぎ去ったとなれば、なおさらだ。
といっても意識不明のまま長い眠りについていたわけではなく、若いころの自分になって夢を見ていただけなのだから、実際のところはなにも変わっちゃいなかった。
二十代のころにデビューを果たしラノベ作家としてやってきたものの、手元に残ったのは担当編集さんとの罵詈雑言めいたメールのやりとりと、やけになって粉砕したノートPCだけ。ぶん投げたときに手を痛めたから起きたあともじんじんとしびれが残っているし、無残なスクラップと化した商売道具を眺めているだけで気が滅入ってくる。
ひとまず歯を磨こうと流し台に向かったついでに、髭と頭をまとめて剃っておく。
薄毛が気になりはじめたので最近は開きなおってスキンヘッドにしているのだけど、鏡の前でにっこりと笑みを浮かべてみれば、見知った先輩作家の顔が映っていた。
おはよう、金輪際先生。
さようなら、兎谷三為。
ぼくは若かりしころの自分に眉間を撃ち抜かれて、こうして現実に戻ってきたのである。
だからこの世界で、生きていくしかないわけだ。
その日の夕方。ぼくはプレ値で落札したシュプリームのキャップをかぶり、待ち合わせ場所である渋谷のカフェに向かう。
店内に入ると約束した相手は先に着いていて、すでにコーヒーとホットケーキのセットに手をつけているところだった。
それなりに高価なブランドに身を包んでいるからか、ぱっと見た感じでは渋谷の風景に溶けこんでいるように見える。しかし内側からにじみでるものがあるのか、彼女もぼくと同じく一般人に擬態しきれていない。
悲しいかな、オタクはやはりオタクなのだ。
「ねえ、わたしの顔を見てニヤニヤしないでくれる? キモいから」
「会っていきなりそれかよ……。まあいいけどさ」
ぼくはひとまずコーヒーを注文したあと、挨拶ついでに近況を話す。
数年ぶりに会った彼女は以前のような金髪ツインテールではなく、長い黒髪を横に流していて、見ようによってはそれなりの美人に見える。
あとはもうすこしホットケーキの食べかたに育ちのよさが出てくれば、良縁に恵まれるチャンスだってめぐってくるだろう。
「で、とりあえず実家に帰るわけ?」
「今のままだとしばらく本は出せそうにないからね……。貯蓄もそろそろ底がつくし、とりあえず向こうでバイトでも探そうと思う。群馬だし人手なんてどこでも足りていないだろ」
「ふうん、まあいいんじゃないの。引きこもりエリートの
遠慮のない言葉の数々に、つい苦笑いを浮かべてしまう。
彼女は昔から、ぼくのことを『為ニキ』と呼んでいる。上にもうひとり兄がいるからあだ名で区別する必要があるのと、
夢の中とはいえ実の妹を故人に設定したりイタコ占い師にしたあげく怪光線で抹殺した件については、さすがに罪悪感を覚えてしまう。
ぼくは心の中で彼女に詫びつつ、運ばれてきたコーヒーをかきまぜる。
「で、小説のほうはどうするの。バイトしつつまた新人賞に出すとか、それなりに展望はあるわけでしょ。ラノベじゃなくて一般のほうを狙ってみるのかしら」
「いっそ芥川賞か、直木賞ってか。でも今のところはなにも考えていないかな。当面は創作から離れて、お前が言うように真面目に働いてやり直すつもりだよ」
「へえ……意外。それにちょっともったいないわね」
「なんで?」
「だってけっこうよく書けてたじゃん。唯一の存在価値だったわけだし」
辛辣な評価はさておき、彼女の言葉のほうこそぼくにとっては意外だった。
妹が自分の小説を読んでいたなんて今まで知らなかったし、オタクとはいえ乙女BL界隈に属す彼女が、NM文庫で出すようなゴリゴリの男子向けラノベを好意的に評価するとは考えてもいなかったからだ。
だから不覚にも感動してしまった。
小説の情熱を失いかけている今だからこそ、余計に。
「なんだっけ、デビュー作のロボット出てくるやつとか後半エグくてよかったじゃん」
「グラフニールだろ。今となっちゃ粗が目立って読み返すのはしんどいけどな。そういえば投稿時のペンネームも愛着があったのに、縁起が悪いとか言われて変えさせられたっけ」
当時のペンネームが金輪際で、最終的には本名の兎谷三為でデビューすることになった。
とはいえゲンを担いだところでたいして意味はなく、金輪際もうサヨナラという結果になったのだから泣けてくる。
それにあらためて思い返してみると、ぼくが夢の中でグラフニールを絶賛し、それを書いたもうひとりのぼくを憧れの作家として尊敬していた。
あれはもしかすると、満たされることのなかった承認欲求を夢の中で満たそうとした結果なのかもしれない。
そんなふうに自覚してしまうと、なおさら惨めに思えてくる。
「……現実ってやつはしんどいなあ」
「なんか言った?」
「いや別に。創作とはなんと虚しいものかと、身にしみて感じているのさ」
「だけどプロにはなれたわけだし、そこまで自分を卑下することはないでしょ。そりゃうまくいかなかったかもしれないけど、私は為ニキの小説、それなりに好きだったよ。デビュー作もそうだし、あのなんか漢字がやたら長くてカタカナで読むやつだって悪くなかったし」
「偽勇者の再生譚だろ。好きな作品のタイトルくらい覚えておけよ」
「あー、ごめん。でも嘘じゃないってば。ちゃんと最後の三巻まで読んだから」
「ふふふ。けっこう急な打ち切りだったから、話を畳むのが大変だった記憶しかないぞ」
「個人的にはスカッとする終わり方でよかったよ。なんだっけ、最後にライルとユリウスの魂が合体して――」
「真の勇者となって魔王を倒す。強引とはいえまあ、我ながらよくまとめたとは思う」
柄にもなく慰めてくれている妹に感謝しながら、ぼくは力なく笑みを返す。
夢の中でふたりの人格として分離した兎谷三為と金輪際先生もまたライルとユリウスであり、こうして再び合体することになった。
しかし今のところ真の勇者になれた気はしないし、魔王に戦いを挑む以前に自滅してしまいそうな雰囲気さえある。
心の不安定さが血の繋がった妹にも伝わったのだろうか、彼女はぼくの元気づけるように、
「今はまだ気が乗らなくてもさ、落ちついたらまた書いてみれば。それが嫌ならいっそ、新しい趣味でもはじめてみたらいいんじゃないかな」
「そうだね。あと、ありがとな」
「じゃあ私は行くけど、お母さんたちにもよろしくね。実はこれからおデートなのです」
「お……了解」
どうやら彼女は脱オタ社会人デビューの果てに、都会でのリア充ライフを手に入れたらしい。
小説を書いていない妹は幸福を手に入れようとしていて、一方の自分はどんどん不幸になっていく。
足早に店内から去っていく小さな背中を見送ってから、ぼくはすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。
現実の味とやらは思わず顔をしかめてしまうほど、苦かった。
◇
明日から、実家に帰るための準備をはじめなくてはならない。
そう思うと長年過ごしてきた街が名残惜しく思えてきて、ぼくは妹と別れたあともひとりで夜の渋谷をぶらつくことにした。
夜空に浮かぶ月を眺めながらあてもなく歩いていると、夢の中で絶対小説を読み、そして原稿を紛失したときの記憶が脳裏をよぎる。
目が覚めてから欧山概念について調べてみたところ、概念クラスタはおろか絶対小説の記述すら、どこを探しても見あたらなかった。
百年前の文豪が遺した未完の長編こそ実在するとはいえ、絶対小説というタイトルや比類なき文才を得るというジンクスはすべて、ぼくの妄想が生みだした産物だったのだ。
無意識のうちに、才能を求めていた。
夢にまで見てしまうほどに、傑作を書きあげる力を欲していた。
それとも欧山概念の霊が、ぼくを不憫に思って小説の世界に誘ったのか。
ふぬけた根性に渇を入れるために、あんな悪夢を見せたというオチだってありうる。
「……君の意見を聞いてみたいよ、まことさん」
夜空に向かって呟いてみる。
だけど返事はなく、ただ虚しさが募るだけだった。
気恥ずかしいロマンティシズムが生みだした偶像だとしても、ぼくは彼女を失ったことで抜け殻のようになっている。
数えきれないほどの本を高く高く積みあげて、夜空に浮かぶ月の裏側までたどりつけば、この世界にいない君ともう一度だけ、話をすることができやしないだろうか?
現実では得られるはずのない幸福を求めて、ぼくはいつの日かまた小説を書くのかもしれない。
そうして報われない自分と向きあいながら、不毛な夢想をひたすらに紡ぐのだ。
この身に課せられたのは、創作というの名の永劫に続く呪い。
すなわち――絶対小説である。
(完)