6-12:正直に言うと、このまま逃げてしまいたいくらいさ。
文字数 5,418文字
そしてあとに残されたのは、なにもない真っ暗な空間だけだった。
隣でまことさんが話しかけてきていたけど、頭の中では最後に放たれた言葉がリフレインしていて、ぼくはしばらくの間なにもできず、ただその場に突っ立っていた。
やがて前方にふっとランプが灯り、我に返る。
赤い光は暗がりの向こう、細い通路に続いていて、この先に向かえと指示されているようだった。
ぼくはまことさんの手を握り、無言のまま歩きはじめる。
このランプの先に金輪際先生がいて、そしてすべての真実が明かされるはずだ。
いや……ぼくはすでに知っているのだろうか。
ずっと以前から気づいていたのに、他人に指摘されてようやく向きあうつもりになった。真っ暗な通路をひたすら歩いていると、そんな錯覚にすら陥ってしまう。
やがて沈黙に耐えられなくなったのか、まことさんが心配そうな声で話しかけてきた。
「ねえ兎谷くん……大丈夫?」
「あー、ごめん。ちょっと色々と考えなきゃいけないことがあって。君にちょっと聞きたいんだけど、はてしない物語って読んだことある? ミヒャエル・エンデの」
「ネバーエンディング・ストーリーの原作でしょ。本の世界で冒険するファンタジーだったかな? 言っておくけど私、国内文学専門なのよね」
つまり読んでいないのか。まあ、なんとなくそんな気はしていた。
だからやっぱりこの話をするのはやめておこうかな、とぼくは考える。
ところがまことさんは、
「つまりはそれが絶対小説ってわけね」
「わかんないけど……たぶんそうなんだと思う」
彼女は出会ったときから嘘ばかりついていたくせに、ぼくの心をすぐにこうやって丸裸にしてしまう。
おかげでエンデの話を振った意味に気づかれても、さして驚きはしなかった。
「考えてみれば簡単な話さ。絶対小説の力が現実を変えているんじゃない。この現実こそが絶対小説なんだ。ぼくの中に欧山概念の魂が宿っていると考えていたけど、もしかしたらその逆で、ぼくの魂が欧山概念の書いた小説に囚われているのかもしれない」
「じゃあ原稿を読んだときに、兎谷君の身体ごとシュポンッ!って入っちゃったのかしら」
「ねえ、真面目に聞いてる? でも実際、そんな感じなのかもしれないな。ぼくは欧山概念の怨霊に取り憑かれていて、現実では昏睡状態に陥っているとか」
ホラー作品みたいな筋書きだけど、小説が現実に影響を与えていると考えるよりは、まだ納得のいく話ではある。
するとまことさんは、ぼくと似たような推測を語りだす。
「だったら今までのことはぜんぶ、兎谷くんが見ている夢って可能性もあるわね。それとも金輪際先生か、欧山概念? まったく別の誰かの夢ってパターンもありえるかしら」
「やけにあっさりと納得するんだなあ。自分のいる世界が現実じゃないって言われたら、普通はもうちょっと否定するんじゃないの」
「そうは言っても今さら驚くような話でもないしね。ビオトープにいたときとそこまで変わらないもの」
ぼくはなにも言えなかった。
あの倒錯した島の中で育ってきたまことさんからしてみれば、この世界が作りものだと言われたところでとくに違和感は覚えないのだろう。
彼女はこの世に生を受けたときからずっと、欧山概念の作品を演じ続けていたのだから。
「君はそう言うけど、ぼくは怖くて怖くてしかたないよ。今まで体験してきたことのなにもかもが、誰かの手で作られた偽物かもしれないだなんて、考えるだけで頭がどうにかなっちゃいそうだし」
「そう? わたしは小説の中にいたとしても、それはそれでいいかなって気分。いけ好かないお嬢さまに付き従っているモブの女子生徒Aとかだったら絶対に遠慮したいけど、たぶんそれなりにいいポジションでしょ、わたし」
「もう一回言うけどさ、真面目に聞いている? いや、君の場合はたぶん本気なんだろうな。余計にどうしたらいいかわからなくなってきたぞ……」
「ちょっと、相談する相手を間違えたみたいに言わないでよ!」
ぼくが頭を抱えていると、まことさんがぷりぷりと怒りだす。
ある意味、彼女のおかげで深刻に思い悩まずにいられるのかもしれない。
でも、最悪のケースだってちゃんと考えておくべきだ。
「たとえばさっき話していたみたいにさ、この世界が誰かの見ている夢で、その人が目を覚ましたらなにもかもが消えちゃうとか……そういうふうに考えたら君だってやっぱり怖かったり悲しかったりするんじゃないかな」
「兎谷くんが隣にいるなら気にしないよ」
「だから消えちゃうんだって。君もぼくもぜんぶ」
「じゃあ消えるときまでいっしょにいて」
「それでいいわけないだろ。クソみたいなバッドエンドじゃないか」
「わたしは構わないわよ。ひとりだけ残されるのはいやだけど」
そう言われるとなんて返せばいいのかわからなくて、ぼくは深々とため息を吐く。
するとその態度が気に入らなかったのか、まことさんは眉をつりあげてこう言った。
「兎谷くんはそうやって悪いほうばかり考えているけど、本当にぜんぶ消えちゃうとはかぎらないでしょ。夢を見ている誰かさんが目を覚ましたら今までのことがチャラになって、絶対小説の呪いからも解放されて、みんなでめでたしめでたしってなるだけかもしれないじゃないの。地獄に一直線コースだけ考えていたら気が滅入るだけよ」
「そこまで楽観的に考えるのもどうかと思うけど……まあ一理あるっちゃあるか。絶対小説の呪いを解いたら現実に戻れるとか、そういう可能性だってあるだろうからなあ」
「ていうかそれでしょ。話の流れ的に」
「あのさ、お願いだから真面目に聞いてくれ。これは現実の――じゃない、小説の話なのか。くそ、いよいよ頭がおかしくなってきそうだよ……」
「ちょっと座って、落ちついて考えてみよっか。待っているのはどうせ金輪際先生なんだから、いくらでも待たせておきゃいいでしょ」
それは同感だったので、ぼくらは隣りあって通路の端に座ることにした。
するとさっそく、まことさんが自分の考えた説を披露しはじめる。
「とりあえずだけど、兎谷くんは本物の人間と思う」
「なんで? 絶対小説の原稿に選ばれたから?」
「そうね。だから金輪際先生も同じように現実に存在するはず。だって絶対小説にまつわる事件はみんな、兎谷くんと先生と、あと欧山概念を軸に動いているでしょ。過去に原稿の力で文才を得た作家たちは、世界に影響を与えることなんてできなかったわけだし……その点も含めて考えると、やっぱりあなたたちは特別だって気がするの」
「なるほど。筋が通っているといえば、そうかなあ」
そうなるとやはり、この世界は夢ではなく小説の中だと考えるのが自然だろうか。
ぼくらはプロの作家で、そして読書家でもあるわけだから、類型の作品をいくらでも知っている。
それに現実と虚構の境目が曖昧な今の状況は、クラスタで言うところの欧山概念的な展開だ。
ならば絶対小説の筋書きを、予想することだってできるかもしれない。
自分たちが存在している世界が小説だと自覚したうえで、この先の展開を考えてみる――なるほど金輪際先生が言っていたように、今のぼくらは相当に奇異な人間に見えるはすだ。
あるいは、神だろうか。いずれにせよ正気の沙汰ではなかった。
「もしかしたら絶対小説の力とかそういうのすら関係なくて、兎谷くんたちは現実に存在する人間だからこそ、欧山概念の考えた筋書きに干渉できるのかもね。プレイ中の選択肢でルートが変わっちゃうゲームみたいな感じで」
「ちょっと待ってよ。さっきからずっと気になっていたけどさ……その理屈だとぼくと金輪際先生以外のひとはみんな、小説の登場人物ってことになっちゃうじゃないか。君とか、僕様ちゃん先生とか、金色夜叉さんとかグッドレビュアーも」
「だからそう言っているんだってば。概念クラスタにしてもネオノベルにしてもリアリティ皆無だし、わたしにいたってはクローンなのよ? 現実に存在するって考えるほうがどうかしているわ」
「またすっげえ爆弾を投げてきたな。自分の存在ごと全否定かよ」
ぼくは冗談交じりにそう言ってから、まことさんの言葉が存外に重いことに気づいた。
彼女はきっと、否定したがっているのだ。
自分の出生を。概念クラスタそのものを。
「さっきも言ったけど、わたしは小説の登場人物でいいの。兎谷くんが特別なら、もしかしたらヒロインのポジションかもしれないでしょ。だったらなにも文句はありませんって」
「ぼくは嫌だし悲しいよ」
「なんで? あなたはずっと否定したがっていたのに」
欧山概念を? 絶対小説を? あるいはこの世界そのものを?
かもしれない。
原稿をめぐる事件に巻き込まれてからというもの、ぼくは散々な目にばかりあってきた。
それこそ小説の登場人物みたいに、見えない誰かにもてあそばれてきたのだ。
この悪夢から解放されたいのなら、物語の結末を迎えてしまえばいい。
金輪際先生はきっとそれを望んでいて、ぼくといっしょに絶対小説という作品を終わらせるつもりなのだ。
しかしそれがわかっているというのに……今は先に進むことが恐ろしかった。
「これは直感でしかないけど、まことさんの推測は概ね正しいと思う。埼玉の山間部へ取材に行ったとき、河童の楽園で冒険する夢を見たけど、今までの出来事すべてが、あのときの体験と同じなんじゃないかな」
「ま、認めるしかないわよね。兎谷くんから話を聞いた感じ、どれもこれも欧山概念的な筋書きだから。わたしとしてはクローンだろうと小説の登場人物だろうとたいして変わらないし、あとはもう開きなおって与えられた役割を真っ当するだけよ」
「君にしちゃずいぶんとしおらしいな。反抗してやろうって気にはならないのかい」
「したらしたでそれがわたしの役割かもしれないし、考えはじめたらキリないじゃん」
なるほど。彼女の言うとおり。
そしてだからこそ、今の状況はとてつもなく厄介なのだった。
「正直に言うと、このまま逃げてしまいたいくらいさ。絶対小説のことも金輪際先生のことも世界の終わりも放り投げて、なにも考えずに君と世界中を旅したいね」
「そうは言ってもまあ、無理な相談でしょ。欧山概念の力はどこまでも追いかけてくるだろうし、今以上に最悪な展開に陥ることだってありえるもの。それにぜんぶ放りだしちゃったら、兎谷くんはずっと自分の小説を書けなくなるわ。だって呪われたままなんだから」
「そうだね。でも今はそれでも構わないとさえ思っているよ」
ぼくがそう告げると、まことさんが驚いたような顔をする。
それはとても、彼女らしい反応だった。
「冗談でしょ?? てっきり小説を書くためなら、わたしどころかこの世界を消し飛ばしても後悔しないと思っていたのに」
「またひっでえ意見だな……。あくまで、どちらかしか選べないならって話だってば。自分の小説を書きたいとは思うけど、そのためになにもかも犠牲にしようとまでは考えないよ。ビオトープから脱出したときみたいにほかの選択肢があるならともかく、ね」
「でも小説を書かなかったら兎谷くん、抜け殻みたいになっちゃうかも」
「君がいなくなっても抜け殻みたいになっちまうさ、わりとマジで」
そう、ぼくがなによりも危惧しているのは――現実に戻ったとき、まことさんが隣にいない可能性があることだった。
というより、いないと確信している、と言うべきかもしれない。
なぜならそれがもっとも、欧山概念的な筋書きだからだ。
「金輪際先生はたぶん、自分の小説を書くためならこの世界ごと消し飛ばすつもりだと思う。でもぼくはあの人ほど、ストイックになれないのかな。今はただ、君がいなくなってしまうかもってことのほうが、恐ろしくてたまらないんだ」
「でも」
「わかっているよ。なにが正しくて、なにが間違っているかなんて」
愛する女性が隣にいる甘い虚構と決別し、自らの小説を書くために、あえて過酷な現実に戻っていく。
それが作家として、ひとりの人間として、あるべき姿なのかもしれない。
だけど、ぼくは――
「仕事とわたし、どっちを選ぶの? って感じね」
「君が仕事を選ぶんでしょって言ってきて、ぼくが君を選ぶよって言うんだから立場があべこべだよなあ。ていうか、できれば喜んでほしいところなんだけど」
「どう受け止めたらいいのかわからないのよ。あなたを現実を捨てる方向に導くことが、わたしに与えられた役割なのかもしれないし」
困ったことに、それもまたありえそうな話ではあった。
金輪際先生が現実に戻る道を選び、対するぼくは小説の中で生きる道を選ぶ。
現実と虚構の、対立構造。
どちらかを象徴する両者が相まみえることで、絶対小説という物語は結末を迎える。
欧山概念の魂はもしかすると、そんな筋書きを望んでいるのだろうか。
だとすれば、逃げることなんて不可能だ。