7-15:絶対小説(3)
文字数 3,982文字
わたしはさっそくゾウが載っている動物図鑑をおねだりしたのですが、お父さまがお仕事の帰りに本屋さんに寄って買ってきてくれるまで、我慢ができませんでした。
「
「
「どうしたんだい、お佐和。急に変な顔をして」
お父さまが不思議そうにたずねるので、わたしは呆れてしまいました。
あまりにもひどい仕打ちなので頬をふくらませて、
「ひどいわ、娘の名前を間違えるなんて。わたしは美代子ですわよ。実は病院で取り違えてきた子だったーなんて、衝撃的な過去を告げるつもりじゃないでしょうね?」
「ハハハ、言われてみればそうだったかもしれないねえ。しかしピンク色のゾウにしても今の作り話にしても、よくもまあそんなふうに妙な方向に頭が働くものだ。いっそこの毛むくじゃらを主人公にしてお話を書いてみたら、面白いかもしれないな」
「……あら、名案ですわね。どうせなら読んだ人をあっと驚かせるような、可笑しくて怖ろしくて、だけど最後は楽しい気分になれる物語を書いてみたいかも」
それからというもの、わたしは来る日も来る日も原稿用紙と向かいあって、自分が思い描いた世界を書き起こしていきました。
なにせ時間は十分にありますから、読み進めるほど驚きに満ちた物語が飛びだすように――河童や牛鬼に枯れ枝の妖怪、金色に輝く哀しい怪物、わたしの頭の中に住んでいる奇々怪々な登場人物たちを、物語にしていったのです。
「ふふふ、みんな楽しんでくれるといいな。でも外に出たこともない小娘が書いた小説なんてと投げ返されたら困りますし、確固たる評価が得られるまで正体を隠しておいたほうがいいかしら。そうね、いかにも格調高そうな筆名で、欧山――」
――――――――
ぼくは文台に置かれていた鉛筆を取り、原稿の余白、行と行の間につらつらとメッセージを綴っていく。キーボードでの執筆に慣れきっていたせいか、ひさびさに文字を書いてみるとミミズがはったような筆致で、我ながらその汚らしさに辟易してしまう。
絶対小説の序文に。
書き記されていた。
クセの強い。
文字。
あれはほかならぬ、ぼくの内側から溢れでた言葉だった。
欧山概念が思い描いた小説の中で、兎谷三為を導いていたのはまぎれもなく彼女自身だったけど、読者であるぼくの魂もまた、あの世界の筋書きに干渉していたのだ。
現にこうして余白にメッセージを綴るたび、新たに書きこまれた文字に呼応して原稿そのものが変化し、作者ですら予期していなかった方向に物語は進もうとしている。
絶対小説という作品が最初から最後までふたりで紡ぎあげたものなら――今からだってあのときの結末をやり直すことができるはずだ。
現実と虚構の狭間にいる今なら第四の壁なんて簡単に乗り越えられるはずだし、いつまでも引きこもっているつもりなら、強引にこの手で引っぱりだしてやる。
ぼくは欧山概念に殴りこみをかけにいくし、君に伝えたい言葉を届けにいく。
どちらも同じ意味なのだから、やるべきことはひとつしかない。
――――――――
小説を書くようになってからというもの、日々の暮らしはがらりと変わってしまいました。
わたしは今まで、自らの手で世界を生みだすことの面白さを知らなかったのです。
世の作家たちがどれほど丹精をこめて物語をお考えになっていたのか、まるで理解していなかったのです。
嗚呼、なんともったいないことでしょう。
幼いころから耳にしてきたお伽話をとってみても、ひとつひとつの台詞や筋書きに無駄がなく、ほとんど外に出ることのできない世間知らずの娘であろうとお話にすんなりと入るこめるようにと、様々な工夫がなされているのがわかります。
その単純なように見えて精緻に作りこまれた世界を紐解いていくだけで、自分ならどこを舞台にしてみようだとか、どういう設定の登場人物を出してみようかと、この胸の奥深くに眠っていた物語たちが、ひとつの作品となってわたしの手から溢れだしてくるのです。
嗚呼、しかし……なんと口惜しいことでしょう!
世にあふれた物語を読めば読むほど、小説を書く楽しさにのめりこめばのめりこむほど、創作者たちの想像力の豊かさに、数多の人々を満足させうる作品を作りだすことの途方のなさに、わたしはどうしても打ちのめされてしまうのです。
「美代子! 美代子! もしかしてまた小説を書いているのか! お医者さまに無理をするなときつく言われたばかりだろうに! この前みたいに倒れるようならもう二度と、出版社に紹介してやらないぞ!」
「大丈夫ですわ、お兄さま。今日はいつもより調子がいいのです。それに今度の作品を読んだら編集者だって目の色を変えて、ぜひうちで出したいと言ってくれるはずですから」
わたしが得意げにそう笑ってみせますと、お兄さまは呆れてお部屋から出ていってしまいました。
小説を書くようになってからというもの、嘘をつくのも上手になった気がします。
そう、残された時間はほとんどないのです。
お身体の調子がいいときだけ文台に向かっているのでは、わたしが思い描いた素晴らしい物語は、世にあるほかの多くの作品の中に埋もれてしまうのです。
だからもっともっと、斬新な登場人物や設定を考えましょう。さらにもっともっと、お話が面白くなるよう改稿を重ねていきましょう。そしてもっともっと空想に身をゆだねていきましょう。
だって今この胸のうちにある傑作を書きあげなければ、わたしは病弱な少女以外のなにかに変わることなく、自らの物語を終えてしまうのですから。
書きたいことが、たくさん残っているのです。
読んでもらいたいお話が、まだまだ溢れてくるのです。
どうか、どうかお願いします、神さま。
あとほんのすこしだけ、時間をください。
贅沢なことは言いません。
今書いている、このお話だけでいい。
たったひとりでいい、誰かに読んでもらいたい。
そして感想を聞かせてもらえたら、わたしはそれだけで幸福が得られるのです。
だから、
『じゃあ何度だって伝えるよ。百年後からわざわざ読みにきた甲斐はあったし、物語の世界を幾度となく飛び越えてまで、君を追い求めるだけの価値があったと』
「え……?」
不思議なことに目の前の原稿用紙から、いきなり声が響いてきたのです。
さてはわたしのことを不憫に思って、神さまが願いを聞き入れてくれたのでしょうか?
なんて期待していると、原稿の中にいる誰かさんは呆れたように笑い声をあげて、
『冗談はよしてくれ。ぼくはジーザスクライストじゃないし、今さら自己紹介なんてする必要もないだろ。お願いだからそろそろ、目を覚ましてくれないかな』
どういう意味、と問いかける時間はありませんでした。
不思議な声が語りかけてきたのとほぼ同時に、周囲の景色がパラパラと、まるでガラスが割れるように崩れていったのです。
でも何故かその異様な光景に見覚えがある気がして――やがて唐突に、わたしは自分がいったい何者であるかを思いだしてしまいました。
「もしかして、夢から覚めないといけないの……?」
『そうだね、エンドロールの時間さ。でも物語が結末を迎えるってことは、なにもかもが消えてなくなるわけじゃない。だからぼくから君に、この言葉を贈ろうと思う』
終わりゆく世界の中で、わたしはどうしたらいいのかわからず、ただただ呆然としてしまいます。
すると原稿の中の誰かさんは、いえ、兎谷くんはこう言いました。
『――俺たちの冒険はこれからだ!!』