1−3:たぶん手を握られたら一瞬で惚れる。
文字数 4,513文字
有名なので聞いたことのある方も多いかと思われるが、古代中国の思想書『壮子』の中にその説話はある。
いわく
果たして己は蝶になる夢を見ていたのか、それとも蝶が見ている夢こそ今の己なのか、と。
小難しそうな荘子の思想についてはさておき、ぼくはこの話が大好きである。
もし今の自分という存在が夢だとしたら、あるいはこの世界がぼくの見ている夢にすぎないのだとしたら――そう考えると、わくわくしてくるではないか。
いつぞやの原稿紛失の話などは、それこそ夢であってほしいところ。しかし件の問題は今や、ぼくの作家生命すら危うくさせる悪夢に変わろうとしている。
「いやあ、困ったことになりましたよ
「そうですねえ……。ぼくとしてもなにがなにやら」
スマホの回線越しに詰問口調で問いただすのは、設立されて間もないライトノベルレーベル、NM文庫の
この人はぼくの担当編集であり、今は数日前の事件――つまり金輪際先生との間に起こったいざこざについて、詳しく説明しているところである。
「私としてもね? あなたが
「はあ、おっしゃっていることはよくわかります。しかし正直なところ、ぼくに否があるわけではなく、原稿が煙のように消え失せてしまったわけでして。いわば偶発的な事故のようなものだった気がするんですよ」
「私が聞きたいのはですね、そういう言い訳ではありません。どうするおつもりですか、と聞いているだけなんです」
そんなこと知りませんよ、と言い返すことができればどれほど気分が晴れるだろう。しかしフリーランスの作家と大企業に属する編集者とでは、明確な力関係が生じがちである。
とくに数多の投稿作の中から、自分の作品を強く推した恩人となればなおさらだ。
それに今回の話は鈴丘さんにとっては寝耳に水。問題が大きくなれば、まったく関与していない件で責任を取らされるハメになりかねないわけで、そりゃ詰問口調にもなるだろう。
「実を言うと今回の件で、金輪際先生はかなりの精神的ショックを受けたようでして。今秋に予定されている新シリーズの執筆すらままならない状況らしいんです」
「うわ、レーベルの看板なのに大事じゃないですか」
「他人事みたいに言わないでくださいよお。あの人の担当ってうちの編集長ですから、会社で顔を合わせるたびに『どうしてくれるんだ、どうするつもりなんだ』ってグチグチ言われて困ってるんですから」
「それはもう本当にすみません……。ぼくとしてもこのままだと気まずいので先生と話をしてみます。円満に解決できればいいんですけど」
「とにかく早めになんとかしてください。ちなみに先日いただいた企画書はぜんぶ没です」
最後に大きな爆弾を放り投げてから、鈴丘さんは通話を切った。
具体的な解決策については一切の案を出さず、ついでに一ヶ月かけて作った二十本ものプロットをまとめてゴミ出しするという鬼畜の所業。
これぞライトノベル業界における最初の難関、プロット提出地獄である。
ぼくはかれこれ一年以上、賽の河原で暮らしている。
「欧山ナントカの原稿なんて知らないよ……。ぼくは早く新作を出したいんだ……」
思わず虚空に向かって毒づいてしまう。
結果を出したいと焦れば焦るほどうまくいかず、どころか先輩作家とのもめ事まで発生してしまうとは。このままだと胃に穴があいて死んでしまいかねない。
ひとまず金輪際先生にスランプから脱してもらわなければ。
ぼくはパソコンを起動して某SNSのページを開く。ここから彼のアカウントにメッセージを送りアポを取ってから、電話でお喋りするとしよう。
ところがアクションを試みても返信はない。最後の更新を確認するとちょうど原稿の紛失が起こった日の深夜、彼はただ一言『虚無』とだけ呟いていた。
「困ったな。いよいよ厄介な雰囲気が漂ってきたぞ……」
ぼくはあてつけのように自分のアカウントで『同じく虚無』と呟いたのち、企画書を作る気にもなれなかったため月額契約しているネットチャンネルでアニメを観ることにした。
可愛い女の子が出てくるアニメは観ていると、束の間、現実の過酷さを忘れることができる。
彼女たちは誇張された声で甘く囁き、屈託のない笑顔ですり減った心を癒やしてくれる。たとえモニターの向こうにしか存在しないとしても、どこぞの創作者(たぶんおっさん)の気恥ずかしいロマンティシズムが生みだした偶像だとしても――その愛らしさと優しさに、ぼくはついつい魅了されてしまうのだ。
就職活動を放り投げて専業ラノベ作家となり、今やコンビニの店員さんくらいしか女性と話す機会のない人間にとって、虚構の少女たちは現実の女性以上に本物だ。
「よし、闘志がわいてきた。やるだけやってみよう」
実家を出て孤独に暮らすようになってから増える一方の独り言を呟いたのち、ぼくは執筆ソフトを開こうとする。
しかしその前に一応、金輪際先生の返信がないか確認しておこう。
すると通知が来ていた。
お、と思い確認してみるものの、メッセージの発信者はお目当ての人物ではなく、まだ一度も会話した覚えのないアカウントからだった。
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:原稿の件でご迷惑をおかけしてもうしわけありません
ぼくは首をかしげる。このアカウントはいったい誰なのか。
外から閲覧できないメッセージ機能を用いていることから、ネット越しに話しかけてきた人物が、二人だけの会話を望んでいることがわかる。
そして『原稿の件』という文面だ。
……さては件の絶対小説を盗んだ犯人? あるいは金輪際先生の関係者だろうか。
【兎谷@企画構想中】:あの、すみません。どちらさまで?
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:ご挨拶を忘れていました。金輪際の妹です。
【兎谷@企画構想中】:なるほど。失礼ですが確認させてもらってもいいですか? 最近は有名人のなりすましとか増えているので、念のため。
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:わかりましたー(^^)/
【兎谷@企画構想中】:金輪際先生の実家で飼われている猫の名前は?
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:チノです。カプチーノから取ったと兄が。
実際はカプチーノから拝借したわけではなさそうだが……金輪際先生の実家で飼われている猫の名前は合っているし、彼はこの話をあとがきやインタビュー、SNSで言及していないのだから、妹さんご本人と判断してよいだろう。
ぼくはひとまず『ナタデココ☆らぶげっちゅ』さんのプロフィールを確認する。
都内の大学に通う一年生。趣味は料理、読書、映画鑑賞。あとは好きな映画のタイトルやハリウッド俳優の名前が羅列されている。およそ一般的な女子大生だ。
特筆すべき点があるとすればアイコンの画像である。
かなり可愛らしい女の子で、眉毛だけキリリとしていてボーイッシュ。おかげでショートカットがよく似合っていた。
正直なところめちゃくちゃ好みの顔つきだ。たぶん手を握られたら一瞬で惚れる。
ぼくは内心の動揺を抑えつつ、彼女に返信した。
【兎谷@企画構想中】:疑ってすみません。妹さんみたいですね。
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:いえいえー。兎谷先生の小説も好きですよー(^^)/
【兎谷@企画構想中】:ありがとうございます! マジでありがとうございます! ところで原稿の件ということですが、ぶっちゃけどこまで把握しています?
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:大体のところは。貴重なコレクションを飲み会に持ち出したお兄ちゃんが全面的に悪いのに、兎谷先生にご迷惑をかけて心苦しく思っています。
【兎谷@企画構想中】:ぼくとしてはそこまで気にしていませんから、ご安心ください。とはいえ金輪際先生がスランプらしいので、すこし心配ではありますね。
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:メンタル弱いのが悪いだけですから。ほんとに。
【兎谷@企画構想中】:あはは。しかし作家はストレス抱えやすい職業ですから。今回の件についても相当に落ちこんでいるはずなので、原稿が見つかればいいとは思うんですけど。ちなみにあれから先生は、盗難届などを出されたのでしょうか?
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:まだです。お兄ちゃんは警察沙汰にしたくないらしくて。だからわたしが探してみようかと。
【兎谷@企画構想中】:え? 妹さんが?
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:はい、探偵みたいに。だって三百万ですよ。
【兎谷@企画構想中】:まあ大金ですからね。気持ちはわかります。
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:ていうか兎谷先生は気にならないんですか? 煙のように消えたいわくつきの原稿の行方。閉ざされた空間で起きた事件。巻き起こる惨劇。
【兎谷@企画構想中】:惨劇ってもおっさんが落ちこんでるだけですけど。しかし気にならないと言えば嘘になります。とはいえ実際のところ、見つかるのでしょうか……。
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:探しましょうよ。わたしと、兎谷先生で。
【兎谷@企画構想中】:え、ぼくがですか? らぶげっちゅさんと?
【ナタデココ☆らぶげっちゅ】:はい。二人で協力して事件を解決するんです。
ぼくはキーボードを打つ手を止めた。
おかしな方向に話が進んでいる。
金輪際先生の妹さんと原稿の行方を探すということは、彼女とオフで、つまり実際に会うということになる。
モニターを隔てて会話するだけでなく、同じ空間を共有する。彼女の口から排出された二酸化炭素と、ぼくの口から排出された二酸化炭素が空気中で混じりあう。
想像するだけで頭がくらくらしてしまう。過呼吸に陥りそうだ。
アニメの女の子は素晴らしい。
しかし現実にする美人女子大生の引力はそれ以上に凄まじかった。
先輩作家の実妹という事実に不安があるものの、人生に一度あるかないかの大チャンス。熱い視線が交錯し、肌を重ねあう展開に発展することだってあるだろう。
欧山ナントカの原稿についてはもはや忘却の彼方。
文豪になれる力なんぞ、美人女子大生との甘いひとときの前では
ぼくは鼻息を荒くしつつ、力強い手さばきでカタカタとメッセージを打ちこんだ。
【兎谷@企画構想中】:ぜひとも探しましょう! ぼくと君の二人で!!