5-10:ギョギョッ!! ニクダ!!
文字数 5,769文字
ビオトープに滞在している以上、文豪の魂を継承した作家として扱われるのから、恐怖から目を背けようにも、常にその事実を意識させられることになる。
では、どうすればいいのか。
答えは簡単だ。
なにもかも、受け入れてしまう。あるいは、すべてを放棄してしまうのだ。
ゆえに今のぼくは――いや、我が輩は、兎谷三為尊師として生きることにしたのである。
「旦那さま。そろそろお目覚めになってください。今日はお日頃もよく、絶好の散歩日和でございます。たまにはお筆を休めて、外に出かけてみてはいかがですか」
「んん……それも悪くないかもしれんな。しかしまずは朝食だ。腹が減っては戦はできぬと言うし、君の作った料理に手をつけずに一日をはじめるのは、合戦に勝つより難しいさ」
「あらまあ、お上手ですこと。村の衆から大根をいただいたので、湯がいてからポン酢で食べましょう。あとはご飯とお味噌汁。ほかになにかお出ししましょうか?」
「いや、十分だよ。これほどのご馳走もそうあるまい」
我が輩は寝床から起きあがると、座敷の隅に置かれていた採れたての大根を眺める。
そしてお茶碗を運んで戻ってきた美代子とともに、穏やかな朝を迎えることにした。
◇
朝食を終えると、美代子はいつものように外へ出かけていった。この島を統べる巫女に休日と呼べるものはなく、常に多忙をきわめているようである。
かくいう我が輩も物書きのはしくれであるから、休日がないと言えばそのとおり。しかし毎日が休日というのもまた、まぎれもない事実ではある。
今日はあまり筆が乗らぬので、美代子の言葉にならい島内を散策することにする。
海に囲まれた孤島だけあってビオトープは風が強く、冬である今の時期はとくに寒さが険しいという。我が輩は甚平のうえに半纏を羽織ると、猫背をさらに丸めて外へ出る。
島内を散策する前に、数週間ほど寝泊まりしているあばら屋の、びゅうびゅうと吹きすさぶ島風に耐えているわびしい姿をじっと眺めた。
……こうしていると不思議なことに、もう何年もここで暮らしているような気分になってくる。
ビオトープに招かれたその日から、我が輩は島の東端、クラスタの住人の多くが住まう村のはずれに建つこの小屋に、美代子とともに暮らすことになった。
彼女は生まれながらにして文豪の魂を受け継いだ作家、尊師である我が輩の恋人であり、今や内縁の妻というべき存在となった。そして欧山概念と、オリジナルの美代子が成しえなかった生活を、百年の月日を経た今、再現しようとしているのだろう。
……閑話休題。
あてもなくあぜ道を歩く。
島内でもこの辺りは自給自足の生活、すなわち欧山概念が小説の中で描いた農村の暮らしを再現しているエリアだ。
しかし今の時期はほとんど作物を植えておらず、枯れた雑草がまばらに生えた地面は、空き地とそう変わりはない。
しばらく道なりに進んでいくと、やがて畑の向こうから村人のひとりが走ってくる。間近にやってくると、それはぽっちゃりとした女性だった。
顔はそばかすとあばたで荒れた畑のようになっているものの、実際は化粧で農村の娘らしい肌をわざわざ再現しているに過ぎない。
『大変だ、大変だど、尊師さま。おらの娘がさらわれちまった。きっと北に山に住む餓鬼どもにちげえねえ。あの子はまだほんの赤子で、乳さやらねえとすぐに死んでしまうだ!』
『なんと、それは大変なことでございますな。こう見えて我が輩は仙術の覚えがありまする。今から北の山に行って、赤子をさらった餓鬼どもを成敗してやりましょう』
『おお、おお、ありがたえ。尊師さま、おらの子をよろしくおねげえしますだ!』
農村の娘の涙ながらの訴えに、我が輩は過去に読んだ小説の記憶をたぐりよせ、化生賛歌に登場する僧侶の台詞をそのまま返す。
なにやらとんでもない事件が起きているふうだが、これもやはりクラスタの理念にのっとり、なりきりプレイを興じているだけ。
この女性はビオトープに招かれて以後、十五年間毎日かかさず、自分の娘をさらわれ続けている。
『尊師さま、どうかご武運を』
『うむ』
そのままビオトープの豊かな自然の中を散策しつつ北の山を登り、我輩はやがて餓鬼の住処に足を踏みいれた。
一応は最後まで僧侶の役割を演じておこうと、尊師としての義務感を覚えたがゆえの行動であったが……どうやら一足遅かったのか、餓鬼どもは今日の儀式を終わらせようとしていた。
つまりさらわれた赤子を助けようにも、すでに食べられてしまったあとなのである。
こうなってしまうと、僧侶の役割を全うすることができない。しかたなく我が輩は元の尊師に戻り、餓鬼の群れに混じっていく。
すると彼らのひとりが、
『ソンシ! ソンシ! メシダ! メシダ!』
と話しかけてきたので、その瞬間から今度は餓鬼の親分を演じなければならなくなった。
『ギョギョッ!! ニクダ!! オヤブンニハ、イチバンジョウトウナニクヲヨコセ!』
『モチロンデストモ!! イッショニ、ニンゲンマルカジリ!』
無理に裏声を出して餓鬼たちに応じ、彼らから差しだされた赤子を手に取る。
化生賛歌の一篇『地獄絵図』によると、餓鬼の群れはたびたび集落を襲い、赤子をさらっていく。そして火にくべて、食べてしまうのだ。
しかし当然のごとく我が輩に差しだされた赤子は本物ではなく、産婦人科の研修などで使われるマネキンである。
『ソンシ! ソンシ! クエ!』
餓鬼のひとりがマネキンの腹部を石器で切り開き、火の通ったミンチ肉をおおぶりの葉っぱに盛りつける。
周囲にはポリ塩化ビニルの焼け焦げた匂いが充満しており、でろでろに溶けたマネキンを見ているだけで食欲は失せてくる。
しかし食べてみると蒸したチキンに近い味で、なにも知らなければナゲットの中身だと思ったはずだ。
クラスタはマネキンの生産ラインをひとつ餓鬼たちのために確保しており、別の食肉加工業者の手で中にミンチ肉を詰めてもらったあと、一ヶ月に一度、貨物用のフェリーにてのべ数百体、ビオトープまで運ばれてくるという。
マネキンの工場はともかく……腹の中にミンチ肉を詰めている食肉加工業者の従業員たちは、その作業をしながら疑問を覚えないのだろうか。
いったいどんな用途のために、このようなものを作らされているのかと。
◇
日が暮れる前に島内の散策を切りあげ、村はずれのあばら屋に戻ってくると、先に帰ってきていた美代子が玄関で出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。そのご様子ですと、尊師としての勤めを果たされたようですね。ビオトープで暮らす以上、旦那さまはポスト欧山概念的な創作活動だけでなく、たびたびこのような読者サービスを行ったほうがより求心力が高まりますかと」
「うむ。君が暗に忠告してくれたのであろうことは、今朝の時点で概ね察していたよ。さすがに毎日はしんどいから、一週間に一度くらいにしておきたいところだがね」
「それで十分でございます。今日はお疲れかと思い、お風呂はすでに沸かしておりますし、お食事もすぐにご用意できます。わたしをご所望であれば、なんなりと申しつけください」
美代子はそう言って、挑発するような視線を向ける。しかし彼女の言うように我が輩はだいぶ疲れていたので、ひとまず先に入浴と食事を済ませることにした。
そして夜も更けてきたころ、美代子が数冊の本を抱えて寝床にやってくる。
卓の前にあぐらをかいたまま船をこぎはじめていた我が輩は、はっと顔をあげ、寝ぼけ眼のまま彼女を見る。
「ご要望の資料をいくつか取り寄せてもらいました。創作の足しになればいいのですけど」
「ありがとう。しかし今日は筆が乗らぬゆえ、読書に専念することにしよう」
「大丈夫なのですか?」
なにが、と彼女はあえて問わなかった。
つまり言わずとも伝わるだろうと、そう思われているわけだ。
かたや我が輩は、むっつりと黙ったまま。
ビオトープに招かれて以後、クラスタ評議会にたびたび催促されているというのに――長編はおろか短編すらまだ一度も書きあげていないことについて、弁明すらしない。
しばしお互いに見つめあったのち、美代子はふうとため息を吐き、我が輩を招きよせるように両手を広げてみせた。
我が輩はごろんと寝転び、美代子に膝枕されながら、溜めに溜めておいた弱音をつらつらと吐きだしていく。
「書こうという気持ちはある。とくに偽勇者の再生譚の続きは、さらに面白いものに仕上がるはずだ。君もネオノベルの編集部で――あのときは僕様ちゃん先生に憑依していたが、もっと読みたいと話していたしな。それにクラスタの連中とて、物語の続きを待ち望んでいることは事実だろう」
「ええ、ええ。そのとおりでございます。あの作品はまさに彼らの、いえ、わたしたちが待ち望んできた物語なのですから。かぎりなく欧山概念的で、しかし現代に生きる読者のために書きあげられた、至高のライトノベルであるがゆえに」
「欧山概念的、か。しかし彼の作品を意識したことは一度もない。絶対小説にかかわってからも、この身にかの文豪の魂が憑依された以後も、だ。我が輩は常に一介のラノベ作家、兎谷三為として小説を書いてきた。だというのに君らはなぜか、彼と比較しようとする」
「それが嫌なのですか? 比較対象が文豪だとしても、自らの沽券にかかわりますか?」
「最初はそうだと思っていた。だが、最近はわからなくなってきてしまった」
我が輩は目を閉じる。美代子が優しく、髪を撫でてくる。
その献身的な好意が自らに向けられたものなのか、あるいは内に宿る文豪の魂に向けられたものなのかすら、今をもってなお理解することができなかった。
「……もしかすると、怖いのかもしれない。そして我が輩は怖いと思うこと自体が、なによりも恐ろしいのだ。なぜならそれは知らず知らずのうちに、自らの手で自らを否定することにほかならないからだ」
「敬虔なる読者のために、もうすこしわかりやすく話してくださいませんか? わたしはあなたを理解したいと願っていますけど、あなたのように理解することは難しいですから」
「もとよりそのつもりさ。だから最後まで聞いてくれ」
彼女がうなずいた気配がしたので、我が輩は目をつむったまま話を続ける。
「創作でもっとも辛いのは、自分の作品をあしざまにこきおろされることではない。初投稿で受賞、しかも三度も重版をかさねた君には伝わらないかもしれないが……反応があるだけマシなのだ。苦労して書きあげたというのに、なにも感想がないというのは本当に辛い」
「わかりますよ。わたしがはじめて小説を書いたとき、ビオトープの人々はまるで無関心でしたから。いえ、今でもそうかもしれません。なぜならわたしは美代子であり、彼らの中では、美代子は小説を書かない女性でなければならないのですから」
「そうか……。すまなかった。であるのなら、今の我が輩はやはり恵まれているのだろう。このビオトープにいれば己は文豪であり、常に作家として賞賛の声を浴びる。いまだに気が乗らぬとはいえ、小説を書きさえすればきっと、たちまち彼らを魅了するであろう」
「だったら書いてください。誰もがそう望んでいるはずです」
「あるいは、我が輩もな」
そう言ったあとで、口は自然と「しかし」と続ける。
美代子に本音を告げるのは、いくばくかの勇気が必要だった。
「一介のラノベ作家に過ぎぬとはいえ、我が輩は自分の作品を作ることに誇りを持ってきた。だというのにクラスタの信者たちにもてはやされた今、我が輩はスケベ心を働かせて、欧山概念のような小説を書いてしまうかもしれない。もしそうなったとき、果たしてそれは己の作品といえるのだろうか」
そして我が輩は――いや、ぼくは言った。
「ただチヤホヤされたいわけじゃない。お金は確かに欲しいけど、書きたいものを曲げてまで売れたいわけじゃない。この世界にたったひとりだけでもいい、誰かに伝わってほしい。そう思ってきたからこそ、今までどんなにしんどくても耐えてきた。なのに……クラスタの人々が名のある文豪のように扱うと、ぼく自身もそうあることを望んでしまう。欧山概念のように生きようとしてしまう」
「つまり、それが怖いのかしら。あなたはあなたのまま、変わらないでいたいの?」
「そうなのだろうね。囚われの身である事実に疑問を覚えなくなるのも怖いし、クラスタの奇矯な振る舞いに慣れてきていることも怖いよ。君の優しさに甘えてしまうのだって怖いし、なにより自ら望んで悪魔に、欧山概念の怨霊に魂を売り払ってしまうことが怖い」
ぼくが最後まで語りきると、美代子は――いや、まことさんは言った。
「兎谷くんのそういうところが好きよ。わたしはもう、諦めちゃっているから」
「たぶん、まだ間に合うさ。ぼくも……それに君だって」
「あなたはもしかしたら引き返せるかもしれないけど、わたしは絶対に無理ね。だって生まれたときから美代子として定められているのだし、今さらそれを変えようとしたら最悪、闇に葬られてしまうかも」
彼女の言葉は冗談に聞こえなかった。
クラスタもやはり、ネオノベルの連中と同じなのだ。
拷問ではなく、懐柔策。ぼくに対してはそれを選んでいるだけ。
しかも困ったことに、彼らの策は効果てきめんだった。なぜなら、
「あのね、兎谷くん。わたしは今のままがいい。あなたの作品がクラスタに独占されてしまうとしても……ずっとそばにいてほしいって、そう思ってしまったのよ」
まことさんはそう言って、ぼくに一枚の書類を渡してくる。
目の前の女性と生涯をともにするという意味において、それは婚姻届でもあった。
すなわち概念クラスタの専属作家となるという旨の――契約書である。