第145話 妻への励まし

文字数 3,557文字




 

 子どもたちの話によると、イザベラが突然部屋からいなくなってしまったという。



イザベラ……どこにいる……!?




 集中して、耳に流れこむ音を吟味していく。



聞こえるぞ……!

廊下の奥から、かすかにイザベラの息遣いが聞こえる!




 おそらくイザベラは、廊下を進んだ先の部屋にいるに違いない。



おれはイザベラを迎えに行ってくる。

おまえたちはこの部屋から出るんじゃないぞ



はーい


はーい


はーい


はーい




 ミヌ、カンタ、ヒスイ、まれは、指示に従って順序よく返事をした。



 素直なよい子たちだ。



念のためドアは閉めておくか




 いま下の階には、ツートンではなくエンドレアがいるがいるからな。



 またヤツがうちの子をさらったりしないか心配だ。



 おれはドア板を顔でグイと押した。最後に上半身を押し当てて扉を閉める。



 ドアを閉めても、イザベラがいれば攻略はたやすい。



 音を頼りに廊下を移動すると、目的の部屋に到着した。



ここは……以前ツートン・ゼロがみつきにしつこく迫っていた部屋か




 戸のない部屋の奥にはベランダがあった。



 そのベランダに通じる大きな窓からは、暖かな陽射しが降り注いでいる。



 まばゆい床に横たわっているのは、イザベラだった。



 光の筋は彼女の体にも射していて、細い毛に陽が当たると神秘的なまでにキラキラ輝いて見える。



このままそっとしておきたいくらいだな




 おれは彼女のもとへ歩んでいき、その顔を見つめた。



スヤスヤァ




 イザベラは両目を無防備に閉じたまま、深呼吸をゆっくり繰り返している。



 もし警戒されていたら、このような寝姿を間近で見ることはできない。




 それだけおれを信頼してくれている――




 期待を裏切らない陽射しのように、じんわり胸が温かくなる。



イザベラ




 呼びかけると、閉じていた瞳がハッと見開かれた。



あっ、ウッカリしてたわ!

こんなところで寝てしまうなんて……っ



ただ寝ていただけなのか?



え、ええ……




 おれに問われて、気まずそうにうつむくイザベラ。



 やや動揺しているようだ。



突然具合でも悪くなったのではないかと心配していたのだ。

なんともなくてよかった


子どもたちも、おまえが帰ってこないから不安そうだったぞ



ごめんなさい。

寝るつもりはなかったんだけど、陽に当たった床が心地よくて、つい……



謝ることはない。

毎日子育てで疲れが溜まっていたのだろう


謝るならおれのほうだ。

ひとりにして、すまなかった



いいのよ。

わたしがあの猫の様子を見てきてって頼んだのだから


それでどうだったの?

例の保護された猫は、病院に連れて行かれたようだけど



しばらくしたら、またここへ戻ってくるらしい


よければ次はイザベラが様子を見に行くか?

子どもたちは、おれが見ているから



そう言ってもらえるのはありがたいのだけれど、下の階にひとりで行くのはちょっとね……



無理か?



わたしはまだ人に対して無警戒ではいられないから……


それに以前ほどではないけど、まだ気分に波があるの。

そういうときにあまり親しくない猫と会うと、なんだか気疲れしてしまうのよ


だから、遠慮しておくわ



そうか


なぁ、イザベラ。

この家にいて、暮らしづらくはないか?



いいえ、そんなことはないわ。

いまの環境はいいことずくめよ


不自由はないし、落ち着いて休める場所もあるし


けど……

どんなに都合のよい環境にいても、疲れてしまうものなのね




 イザベラはしみじみと息をはき出した。



 自分が至らないと感じているようだ。



イザベラ。

そう落ち込まないでくれ


休みたければ、もう少しここにいても構わんのだぞ



ありがとう。

でも、もう戻るわ。

充分うたた寝したし、大丈夫よ



そうか……




 ちょっと気怠そうに言って、イザベラは部屋を出る前に軽く毛を整えはじめた。



 体の毛を舐めている途中のこと――



 ふいにイザベラが起き上がって、神妙な顔をおれに向けてきた。



ねぇ、あなた。

じつはね……



うん?



こんなこと言いづらいんだけど……


わたし、たまに育児をほうり出したくなるときがあるの……!



育児をほうり出したくなる? 



ええ……



ひとりでここへ来たのも、それが原因なのか?



そうなのよ。

ほんの少しでいいから子どもたちと離れて、静かな場所でゆっくり休みたいって思うことがあって……


よくないことだってわかってはいるんだけど、自分ではどうしようもできなくて……


どんなに子どもたちが好きでも、ストレスって溜まってしまうものなのね



仕方がないさ。

おれたちは完全無欠ではないのだ


好きなものでも過剰に摂取しすぎれば不調になる


心身共に休息できる、『無』の時間を作らなければ、いずれ破綻をきたすといっても過言ではない



でも、子どもを置いて自分だけ休むなんて、いけないような気がして……



いけないと思うのは、固定観念に縛られているからだ


もう充分頑張っているのに、もっと頑張らなくてはいけない――


そうして自分を追い詰めることが、果たして正しいといえるだろうか?


おれは違うと思うぞ



紅様……



休みたいなら、そうすればいい。

罪悪感をいだく必要などまったくない


結局、無理をしつづけて健全な精神を保てるほど、動物は強くないのだ。

嫌なら、やらなくていい



だけど……、

やっぱり気にしてしまうわ



そんなに気に病んでしまったら、せっかくの休息が台無しではないか。

重く受け止めすぎるのは悪いクセだぞ



そうよね



休みたいときは、まずおれを頼ってくれ。

今日のようにおれがいないときは、おまえのやり方に任せるから



とくにやり方を決めているわけじゃないのよね……



だったら、休むときは自分の休息時間を決めておくといいぞ。

休むときはしっかり休む、動くときはきっちり動く、というふうにな


イザベラなら不規則にダラダラすることはないと思うが、メリハリをつけることが大事だ


育児のように長期的に取り組む物事であれば、なおさらだな



ありがとう、あなた……!


いつもどうしようって迷いながら過ごしていたんだけど、おかげで気持ちが軽くなったわ








 心からの安らぎを得たようにイザベラは微笑んだ。



 ふと、その笑顔にアンチクンの顔が重なる。



――なるほど! 

そういうことかっ!




 イザベラとの会話で、ヒト嫌いのアンチクンの打開策が見いだせたかもしれない。



 つい興奮して声に出したので、彼女は戸惑ったように目をパチパチさせた。



どうしたの? 



あ……いや、驚かせてすまない。

じつは、例の保護された猫のことなんだが……




 おれはアンチクンに関する事情をイザベラに伝えた。



なるほどねぇ、そういうことだったのね



彼は人間嫌いであるがゆえに、苦しみをかかえている


あのまま飼い主のもとへ帰されても、よい暮らしは送れないだろう。

不憫(ふびん)なコだと思わんか?



そうねぇ




 イザベラは目線を窓の外にやって、遠くを見つめる。



あのコも大変だけど、彼の飼い主もかわいそうな気がするわ


きっと、いなくなったコのことを心配しているんじゃないかしら?



どうしてそう思うのだ?



見知らぬ人間のことだから、その気持ちを想像することしかできないけれど……


少なくともわたしたちは、メデアとイソルダのことがずっと気にかかっているでしょう?



ああ



どんな事情があるにせよ、それまで生活を共にしていたコが急にいなくなって、平然としていられるものかしら?


それほど人間は、冷淡な生き物ではないように思うのよ



ふむ……。

たしかに、そうかもしれんな




 里親のもとへ行ったメデアとイソルダはどうなったのか、未だに連絡はない。



 あの子たちと別れて以降、ふたりのことを考えない日はない。



 というより、子どもたちのことを思い出して考えるのが、もう生活の一部になっている。



はぁ……。

メデアとイソルダに会いたいな……



そうね。

もう一度触れ合えたら、どんなにいいか……




 猫部屋に戻ると、子猫たちが出迎えてくれた。



ママ、元気ないミャア?



パパも元気ないミィ?



おれは大丈夫だ。

イザベラはちょっと疲れているから、みんなでいたわってあげるんだぞ



はーい



でもいたわるって、どうすればいいミィ?



そうだな。

たとえば、マッサージとか



じゃあ、フミフミするミャー



あたしもやるミャア



ふにゅぅぅぅ……。

おっぱいほしいニィ……



なんだ、まれ。

まだマッサージをしてないのにミルクの催促か



ふふっ、いいのよ。

ほら、まれ。おいで



ニィ~♪



ぼくも~♪



仕方がないな。

飲み終わったら、みんなでイザベラに「ありがとう」って感謝を込めてマッサージするのだぞ



はーい


はーい


はーい


はーい




 うれしそうに母猫のもとへゆく子どもたち。



 それを見ていると、さきほどイザベラの言った言葉が頭に蘇ってきた。



どんな事情があるにせよ、それまで生活を共にしていたコが急にいなくなって、平然としていられるものかしら?


それほど人間は、冷淡な生き物ではないように思うのよ





 ……だとしたら、人は猫に愛されるために努力することができるはずだ。




 おれはそう信じて、祈るようにまぶたを閉じた。

























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登場人物紹介

紅 

ねこねこファイアー組の元ボス猫。

亡き友人であり部下でもあったオス猫に、妻のイザベラとその子どもたちを託され、結婚することになった。

夫婦仲は良好で近々子ども産まれる予定だが、生活は苦しく、落ち着ける居場所を求めている。

ワケあって住処を離れることとなったので、家族と共に町へ向かうが……。


イザベラ 

紅の妻。メデアとイソルダの母猫。

メデアとイソルダは、亡き夫とのあいだにできた子ども。亡き夫はねこねこファイアー組の幹部のひとりだったが、ニャニャ丸組との抗争により深手を負い、他界した。

知性的な猫であり、ドアノブに手を伸ばして開けることもできる。

メデア 

紅夫婦の娘。

生まれたての頃は甘えん坊だった。弟に冷めたツッコミを入れることが多いが、逆にからかわれることも。

紅が父猫になるまではボスとして遠巻きに眺めるだけだったので、なかなか同居になじめなかったが、共に行動することで次第に心をひらいてゆく。

イソルダ 

紅夫婦の息子。

幼いころから体つきが丸く、運動嫌いが拍車をかけ、筋肉量の少ない体形はぷよんとしている。

スコティッシュフォールドのミックスだった父猫の影響を受け、片方だけ折れ耳。

口癖に「ニャウ」を多用する。調子に乗って姉のメデアをからかい、反撃を浴びることもしばしば。

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