第82話 封印された記憶
文字数 5,906文字
彼は言葉を紡ぎはじめる。
暗いまなざしをどこか遠くへ向けたまま――。
母は人間に面倒を見てもらっている
オレたちに食事を与えてくれたのは、小さな酒屋を営む老夫婦だった。
いつも皿に盛られた食事は、柔らかめのウェットフードだった。
まだ歯の生えそろわない子どもたちを気遣ってくれていたのかもしれない。
おそらくゴマ団子とマメ大福の食の好みの影響は、この
食べ物と同様に、寝る場所にも困らなかった。老夫婦の家にはガレージがあり、家族全員が足を広げて寝るのに充分なスペースがあったからだ。
オレたちは日夜そのガレージで過ごし、歩けるようになると母と共に外にも出た。
とりわけ不自由を感じることもなく、日々の暮らしに不満はなかった。
あれはちょうどいまと同じくらいの季節だった。
桜の花も散った頃、老夫婦の家に二人組の男が押しかけてきた。
ヤツらの一人は老夫婦の孫で、もう一人はその友人だった。
男たちは、子どものオレでも感じ取れるような強烈な邪気を放っていた。
孫とその友人は、非常に暴力的で残忍な人間だった。
老夫婦が家を空けると、その隙に乗じ〝犯行〟に及んだ。
オレたちはヤツらにとって、気晴らしの道具だった。
その都度ガレージに閉じ込められ、エアガンとかいう銃の的にされていた。
男たちは銃を構え、何発も何発も無差別に撃ちまくってきた。
床は小さなプラスチックの弾だらけだった。
オレたちを撃ったものもそうではないものも、みんなが悪意の
体の痛み以上に、心に苦しみが募っていった。
人に裏切られた――
そう思いたくなくても感情がとめどなく噴き出して、胸に大きな穴をあけられた気分だった。
弟も妹も、震えながら母に
母も攻撃を喰らっていたが、それでも子どもを守るため、精一杯声をあげていた。
人を信頼していた母は、きっとオレたち以上にやり場のない怒りを感じていたはずだ。
にもかかわらずあんな目に遭わされて、さぞ苦しかったことだろう。
母は
だが――
所詮連中は、血も涙もないクソ人間だった。精一杯声を出して訴えても、心に届くことはなかった。
二人は母に銃口を向けると、引き金をひいた。
銃口からいくつもの弾が飛び出て、容赦なく母を撃った。
ヤツらにとってオレたちは単なる的にすぎなかった。
男たちは、ひたすら
母はそれでも
後ろにいる弟と妹を時折
人間は、ひどい……。
人は銃などという自分たちに都合のいいオモチャを作りだしたかもしれないが、撃たれるほうにしてみれば迷惑でしかない。
たった一発でも弾を受ければ皮膚は腫れあがり、内出血もする。
それが悪意のもとに撃ち出されたものなら、永久に消えない傷が心に刻まれ、
オレはヤツらの背後から懸命に訴えた。
危険とわかっていても跳び込まずにはいられなかった。
叫びながら跳躍して男の腕にしがみついた。それから小さな牙に渾身の力をこめて噛みついた。
憎い……!
腹立たしい……!
頭の中で怒りと悲しみがひしめき合って爆発しそうだった。
どうにかして、この絶体絶命的状況を壊してやりたかった。
窮地に陥った家族を救いたかった。
オレがヤツらに恨まれれば母や弟妹たちには狙いがいかないはず。そう思って行動に踏みきったが……
――無駄――
とことん思い知らされた。
相手は人間だ。
決死の覚悟や勇気を上から踏みつぶしてくるのが人間なのだ。
オレは首根を掴まれ、ボールのように投げ飛ばされた。
すべてがめまぐるしかった。
全身が硬い壁に叩きつけられて、痛みと痺れが同時に襲ってきた。視界が回って、方向感覚がおかしくなり、一瞬自分がどこにいるのかさえわからなくなった。
天井と床を交互に見つめながら、自分の身に迫る死についてふと考えた。
もう死ぬのかもしれない……。
それを思うと、全身が突然ずぶ濡れになったみたいに手足が冷えて、容易に動かすことさえできなくなった。
人間はポケットから取り出した物を器用に操った。
ライターとかいう物から、ジュボッと火が上がった。
火を目にしたのは、そのときが初めてだった。
揺らめく炎に恐れを感じ、目を見張らずにはいられなかった。
燃やす……?
何を言ってるんだ、コイツら!?
――やばい!
オレは体を動かし、体勢を立て直した。息が詰まって苦しくて、立ち上がるのも困難だった。
しかし止まってはいられなかった。
連中はおれを捕まえようと迫ってきた。
オレは一心不乱に走った。
恐怖で頭がおかしくなりそうだった。
男どもとの距離がみるみる縮まり、その手がぐんぐん背後に迫っていた。
逃げたい!
逃げたい!
逃げたい……!
こんなにも外に出たいのに、ガレージの扉は閉じられている。
普段は広々していると思っていた空間がやけに狭く感じられて、またしても裏切られた気持ちになった。
行く手を男たちに挟み撃ちにされてしまい、どうしようもなかった。
連中に捕まったオレは体を押さえこまれて、シッポの毛をライターの火でチリチリと焼かれた。
その勢いはまたたく間に膨れあがって、燃え広がった炎が黒い毛を一瞬で消しズミに変えた。
火があれほど熱いものだとは知らなかった。
あのとき嗅いだ焦げ臭いニオイは、いまだに忘れることができない。
燃やされたのは主にシッポの先端だったが、当時は不自然なほど毛が失われていた。
帰宅した老夫婦はすぐそれに気づいて、孫たちを問いつめた。
たちまち激しい口論になった。
老いた体が蹴り飛ばされる音が、家から独立したガレージにいても届いてきた。
老夫婦は孫たちの暴力による脅しを受けて、やむなく彼らに従うこととなった。
脳に……
心に……
閉ざされていなくてはならない未知の扉が、己の意思とは無関係に勝手にひらかれようとしている――。
それがわかっていても、どうすることもできない。
無為に日が流れるうちに、とうとう変化が起こった。
新たなキャラクターの出現だった。
弟も妹も、オレの変化に気づいていた。
それもそのはずで、オレの主要キャラであるツートンの内面が冷淡になったのは、この事件を経てからなのだ。
家族と平和に暮らしていた頃は、普通に甘えたりよく笑ったりする猫だった。
それがいつしか無表情の能面みたいになってしまった。
ツートンは自分が多重猫格であるという事実を知ろうとしないから、この話題が出るとすぐ意識下にもぐって消えてしまう。
妹は男に捕まったとき、オレに言った。
それが最期の言葉だった。
壁に打ちつけられ、物みたいにズルズルと壁面を滑り落ちていった。
壁に残された血痕、それは妹が生きていた証だ。
だがそんなものは死んでしまえば悲しい思い出にしかならない……
オレは死というものを悟った。
さらには生きることの虚しさも悟った。
いっそ死のう……
オレもみんなのところへ逝こう……
そう覚悟したときだった。
ガレージのシャッターが全開された。
事態を見かねた老夫婦がついに動き、警察という人間を戒める存在を連れてきたのだ。
終わりはあっけなかった。
おれはただひとり助かったが、待ち受けていたのは平穏とは無縁の日々だった。
孤独、そしてトラウマ――。
倒れた老爺をどうすることもできず、オレはガレージに戻ってしばらくじっとしていた。
そこで朽ち果てるなら、それでもよかった。
ただ、遠くへ行ければよかった。
思い出は、オレを苦しめる材料にしかならない――。
おれが頷くところを見届けると、シャドーは視線を窓のほうへ戻した。
外の風は相変わらず穏やかだった。
草木がザワつくこともなく、陽射しが遮られることもなく、春らしい陽気につつまれて波乱の影がチラつくこともない。
心に負った傷のせいで、この平和の象徴みたいな風景が淀んで見えるのだとしたら、それこそ不幸だと思った。
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