第88話 一生の思い出となる出来事⑤
文字数 4,370文字
ツートンの過去を知って、これまでに受けた嫌がらせは水に流そうと思った。
だが――
おれはただちに押し入れから跳び出すと、ツートンの向かい側に立った。
薄闇に光る眼とぶつかる。
けれども妙だ。
ツートンではないツートンと向き合う感覚が、肌を通じてひしひしと伝わってくる。
悪しき気配。邪悪な笑み。
コイツは……ツートンじゃない!
暴論を振りかざし、ワルはこちらへ近づこうとする。
目の前にある戸は、完全にしまってはいなかった。
隙間が空いているから、そこに手を差し込んで戸を横に動かせば簡単に
すでにワルは閉められた戸を開けて、部屋に体を半分近く侵入させている状態だった。
まるでケンカっ早い猫の代表格のように好戦的な態度だ。
しかしその裏側には、辛い過去がある。
彼の背負った悲しみを思うと――
戦意はたちまちぼやけて、普段口にしない本音がポロリと
ワルは鋭い眼光でおれを睨みつけ、イキリ立った顔面を寄せてきた。
さすがに我慢の限界だ……!
ヤツの後ろにいたファーマが声を張って叱りつけた。
振り返ってワルが反論する。
その頭上をひらりと舞うように跳んだのは、みつきだ。
前方にいた彼の頭上を跳び越し、
シュタッ!
と、おれのほぼ真横に着地する。
おれの左手側にある押し入れからは、生まれたばかりの子猫たちの息遣いが聞こえている。
せっかく生まれ出た命を危険に晒すわけにはいかない。
なんとしても、守り抜かねば――!
ワルは畳を踏みつつ、前へ進み出ようとしてきた。
おれは左から、みつきは右から、ワルの侵入を阻もうと前に立ちはだかるが――
ふいにイザベラが押し入れから出てくる。
おれの注意は、どうしてもそちらへ向かざるを得ない。
その隙を突いて、ワルがおれのもとに突進してきた。
ぶつかり合う体。
おれはワルの攻撃をいなしつつ後方へ下がり、反撃に転じる。
まずはワルの体を両手で押さえこみ、蹴りを喰らわす。
毛の薄い腹部に狙いを定めて、両脚を間断なく漕ぐように動かし、ダメージを深めていく。
だが目に見てわかる傷跡が残れば、オーハラたちがショックを受けるだろう。
ワル以外のキャラたちも、身に憶えのない傷に戸惑うはずだ。
たちまち劣勢に置かれ、ワルの怒気をはらんだ顔に焦りが浮かぶ。
だが、ワルは悪びれずに攻撃を仕掛けていた。
おれの目の前を蠅のようにブンブン行き来する拳、拳、拳……。
無鉄砲な攻撃はある程度見切れる。
そもそも威力に欠けるし、仮に一,二発浴びたところで問題はない。
最後のひと蹴りで、ワルをふっ飛ばす。
うまく着地できず、ワルは背中から畳の上へ滑りこむ。
その横倒れた体をみつきが追う。
みつきはワルの額を片手でぴしゃりと打った。
ワルが反撃に乗り出そうとした瞬間、
イザベラが畳に伏せて苦しみだした。
戦闘などしている場合ではなかった。おれには自分の命より惜しい存在がいるのだ。
後ろから噛みつきたければ勝手にしろ!
おれはイザベラの盾になることだけを考えて、彼女のそばへ駆け寄る。
イザベラの状態は、これまでおれが見た出産の中で一番苦しそうだった。
子どもが出てくるはずの入り口から、細長いものが見えている。
おれはイザベラの苦痛が少しでも和らぐよう祈りながら、体の毛を舐めた。
こんなことは気休めにもならないかもしれない。
けれどほんの少しでも癒されるのなら、いくらでも手を尽くし、彼女の身を楽にさせたい――
心からそう思ってぬくもりを伝える。
イザベラは体を横向きに変えて、股を二、三度舐めた。
それからバタンと倒れこむ。
すると、ほぼ足だけしか見えてなかった赤子の体がニュルッと動いて、半分以上が
祈りを捧げ、両目をギュッと閉じ、次にその瞳をひらいたときには――
目の前に、待望の赤子が出現していた……!
イザベラの瞳に涙が光る。
おれも感動して、視界がじわりと
合いの手を打つように赤子が鳴く。
イザベラは早々に子どものケアをはじめた。
おれもそれに加わりたかったが、ワルがいるので警戒に当たらなくてはならない。
感動も束の間。
背後から「チッ」と舌を打つ音が聞こえてくる。
振り向けば、ワルは生まれたばかりの子を射すくめるように睨んでいた。
おれはワルを部屋から追い払おうと決心し、歩み出す。
が――
おもいがけないことが起ころうとしていた。
唐突にワルが苦しみはじめ、その場にうずくまる。
かと思うと、今度は起き上がって頭をブンブン振り、
怒りと焦りの混ざったような声で叫びだした。
おれの
ワルが大絶叫する。
すると、ありとあらゆる行動が停止したように、顔や体、尾の毛先に至るまで沈黙状態になった。
ファーマの言うとおりだが、状況は明らかに別キャラの出現を示唆するように変化している。
佇む白黒猫からは、それまでのワルらしい邪悪さがキレイさっぱりと消えていた。
そして彼が瞳を開けたとき――
また違う一面が花ひらいたように、空間に謎のきらめきがあふれていた。
父親としては、悪くない気分だった。
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