第86話 一生の思い出となる出来事③
文字数 2,519文字
新たな命の誕生。
なんと尊いのだろう……。
おれが感慨に浸っているあいだに、母猫イザベラは黙々と子どものケアをしている。
うれしさのあまり、子猫に話しかけるが、
なんと!
耳も聞こえないとは……っ!
イザベラに
イザベラの的確な処置によって、子猫は見違えるほどキレイになってゆく。
その身にまとわりついていたドロリとした皮や粘液が取り除かれて、フワッとした毛の質感がありありと見て取れるほどになった。
イザベラは説明しながら、それらのことを手際よく済ませていく。
誰に教わったわけでもないだろうに、なぜこのようなことを的確におこなえるのか不思議でならない。
そう感心すると同時に、おれも父として子のために尽くしたい、何かしたいという気持ちがこみ上げてきた。
イザベラがひとりめの子の処置をひと通り終わらせた直後のこと――。
ただ見ているだけのおれですら、めまぐるしさをおぼえてしまうほど展開が慌ただしい。
イザベラは苦しげに喘ぎながら、押し入れの壁を背にして座った。
その両脚のあいだからは、命が――!
宿った命を花咲かせようと、懸命に芽がひらこうとしている……!
叫びと祈りが交錯する。
やがて母体から、新たな命が解き放たれた。
陣痛の波に流されるようにして、水気を帯びた体がニュルリと滑り出る。
それは奇跡だった。
目の前に命が出現する、奇跡――。
なんという感動だ! 言葉にならない……!
子猫の状態は良好らしく、はがれ気味の羊膜の中でモゾモゾと両手を動かしている。
イザベラはひと息つくと、赤子ケアにとりかかった。
舌をせっせと動かし、子猫にまとわりついた膜を舐めとっていく。
イザベラはキョトンとした目をおれに向ける。
対するおれは、何もしていない……。
ただ無力にその様子を見ていることしかできていない……。
イザベラは苦笑すると、少し端へ移動して、子猫のそばに来るようおれを促した。
目の前にいる子猫が小さな声で鳴く。
〝パパ、しっかりね〟と言ってくれているのだろうか。
おれはやや緊張しながらも、子猫に舌を当てて動かし、体を丹念に舐めあげていった。
子猫の腹に顔を寄せ、牙を当てないよう慎重にへその緒を口にくわえて噛みつく。
何度か噛んでいるうちに、ヒモ状のそれはプチッと切れて口内に収まる。
へその緒は食べられないことはないが、格別美味ではない。美味というよりは、むしろ珍味に感じる。
もとより猫は人より味覚が強くないから、味の感じ方は異なるものだ。
おれに限っていえば、腐ってなければなんでも抵抗なく食べられる。
とはいえ――
イザベラは無邪気に笑って、そばにいる子猫の顔をペロリと舐めた。
最初に生んだ子猫は、フワフワした布の上に横たわって静かな呼吸を繰り返している。
へその緒の処理が終わると、ふたりめの子どもが鳴いた。
子猫がなんと言っているのかわからないが、おれはその体に残っていた羊膜をすべて取り除いた。
すると子猫はちょっと甘えたように、か細い声で鳴く。
小さな口を開けて、今度はちょっとうれしそうだった。
(ログインが必要です)