第86話 一生の思い出となる出来事③

文字数 2,519文字





 新たな命の誕生。



 なんと尊いのだろう……。



ミィミィ




 おれが感慨に浸っているあいだに、母猫イザベラは黙々と子どものケアをしている。



おーい、わかるか?

おれが父親の(くれない)だぞ




 うれしさのあまり、子猫に話しかけるが、



生後間もないうちは、目が見えないだけじゃなく、耳も聞こえないのよ




 なんと! 

 耳も聞こえないとは……っ!



知らなかった……!




 イザベラに(さと)され、おれはいたたまれずに身をすくめる。



ところでいまイザベラは、何をしているところなのだ?



生まれたての子は、羊膜(ようまく)という透明な皮につつまれているのよ



羊膜?



ええ、羊膜は薄いから簡単に破れるの。

自然に破けていることもあるわ


まずはその羊膜を舐めてはがして、こうしてキレイにしてあげるのよ



ミィミィ♪




 イザベラの的確な処置によって、子猫は見違えるほどキレイになってゆく。



 その身にまとわりついていたドロリとした皮や粘液が取り除かれて、フワッとした毛の質感がありありと見て取れるほどになった。



次に子猫のへその()を噛み切るの


おなかの真ん中から、ヒモみたいなのがビヨ~ンて伸びてるでしょ?



ああ



そのへその緒を噛み切るときに、引っ張らないようにするのがポイントかしらね



とにかく丁寧に扱うのだな



ええ




 イザベラは説明しながら、それらのことを手際よく済ませていく。



 誰に教わったわけでもないだろうに、なぜこのようなことを的確におこなえるのか不思議でならない。



さすがは母猫だ……




 そう感心すると同時に、おれも父として子のために尽くしたい、何かしたいという気持ちがこみ上げてきた。



 イザベラがひとりめの子の処置をひと通り終わらせた直後のこと――。



あーーー来た来た!


ふたりめが、出そうだわーーーーーっ!



もうふたりめか!

早いな……!




 ただ見ているだけのおれですら、めまぐるしさをおぼえてしまうほど展開が慌ただしい。



 イザベラは苦しげに喘ぎながら、押し入れの壁を背にして座った。



 その両脚のあいだからは、命が――!



 宿った命を花咲かせようと、懸命に芽がひらこうとしている……!



姿は見えているぞ!

あと少しだ!



んぐぐぐぐぐぐぐ!



がんばれ!



クゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――


ハアァァァッッッ!



どうか生まれてくれ――!




 叫びと祈りが交錯する。



 やがて母体から、新たな命が解き放たれた。



 陣痛の波に流されるようにして、水気を帯びた体がニュルリと滑り出る。




ミャ~!




オオオオオオ~ッ!




 それは奇跡だった。



 目の前に命が出現する、奇跡――。




 なんという感動だ! 言葉にならない……!




 子猫の状態は良好らしく、はがれ気味の羊膜の中でモゾモゾと両手を動かしている。



フゥ……




 イザベラはひと息つくと、赤子ケアにとりかかった。



 舌をせっせと動かし、子猫にまとわりついた膜を舐めとっていく。



なぁ、イザベラ。

おれもやっていいか?



あなたは見ているだけでいいわ。

これはわたしの仕事だから



しかし……、

子を育てるのに、どっちの仕事もないだろう



え?




 イザベラはキョトンとした目をおれに向ける。



なにかおかしなことを言ったか?


おまえは精一杯子どもを産んでいる。

それだけでもう充分立派に働いているではないか




 対するおれは、何もしていない……。



 ただ無力にその様子を見ていることしかできていない……。



これくらいのこと、みんなやってるわ



みんなとは言うが、他の母猫たちとて、協力者がいればなんでもひとりでやらずに済むだろう



それはそうかもしれないけど



なぁ、イザベラ。

ちょっとでいいから頼むよ


純粋にやってみたいのだ。

遠慮などせずに、もっとおれをこの貴重な体験に参加させてくれ



でも……、

育児放棄って思われないかしら?



誰も思わんだろう。

もしそんなことを言うヤツがいたら――


おれが地獄を見せてやる!



ハハ、あなたならやりかねないわね……




 イザベラは苦笑すると、少し端へ移動して、子猫のそばに来るようおれを促した。



それじゃ、ご協力お願いします



ああ、こちらこそよろしく頼む



羊膜をはがすときは、舌先じゃなく、舌全体のザラザラな部分を当ててやってほしいの


刺激を与えるのは必要だけど、力を入れすぎちゃダメよ



まかせてくれ。

イザベラがひとりめの子を世話しているあいだに、その動きはしっかりと見ていた


自分で言うのもなんだが、結構うまくやれると思うぞ



ふふ、頼もしいわね



ミャー




 目の前にいる子猫が小さな声で鳴く。



 〝パパ、しっかりね〟と言ってくれているのだろうか。



まかせろ。

しっかりやるからな




 おれはやや緊張しながらも、子猫に舌を当てて動かし、体を丹念に舐めあげていった。







あら……。

ホント器用にこなしてるわ


さすがパパね!



フフッ、あんまりおだてるな。

調子に乗ってしまいそうになる



じゃあ次にへその緒の処理ね。

へその緒は食べると栄養になるのよ


うまく噛み切れる?



やってみよう




 子猫の腹に顔を寄せ、牙を当てないよう慎重にへその緒を口にくわえて噛みつく。



シャリシャリ……




 何度か噛んでいるうちに、ヒモ状のそれはプチッと切れて口内に収まる。



うまくできたわね



うむ




 へその緒は食べられないことはないが、格別美味ではない。美味というよりは、むしろ珍味に感じる。



 もとより猫は人より味覚が強くないから、味の感じ方は異なるものだ。

 


 おれに限っていえば、腐ってなければなんでも抵抗なく食べられる。



 とはいえ――



シャリシャリ……


シャリシャリ……



あなた。

もうへその緒は切れているわよ



ああ、すまん。

このシャリシャリした食感が癖になって、つい噛むのをやめられなくなってしまっていた



ふふ、ウッカリさんね。

あなたのそんな一面、初めて見たわ




 イザベラは無邪気に笑って、そばにいる子猫の顔をペロリと舐めた。



 最初に生んだ子猫は、フワフワした布の上に横たわって静かな呼吸を繰り返している。



 へその緒の処理が終わると、ふたりめの子どもが鳴いた。



ミャー



もっとキレイにしてって言ってるのかしら



そうかもしれないな




 子猫がなんと言っているのかわからないが、おれはその体に残っていた羊膜をすべて取り除いた。



 すると子猫はちょっと甘えたように、か細い声で鳴く。



ミャー♪




 小さな口を開けて、今度はちょっとうれしそうだった。






















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登場人物紹介

紅 

ねこねこファイアー組の元ボス猫。

亡き友人であり部下でもあったオス猫に、妻のイザベラとその子どもたちを託され、結婚することになった。

夫婦仲は良好で近々子ども産まれる予定だが、生活は苦しく、落ち着ける居場所を求めている。

ワケあって住処を離れることとなったので、家族と共に町へ向かうが……。


イザベラ 

紅の妻。メデアとイソルダの母猫。

メデアとイソルダは、亡き夫とのあいだにできた子ども。亡き夫はねこねこファイアー組の幹部のひとりだったが、ニャニャ丸組との抗争により深手を負い、他界した。

知性的な猫であり、ドアノブに手を伸ばして開けることもできる。

メデア 

紅夫婦の娘。

生まれたての頃は甘えん坊だった。弟に冷めたツッコミを入れることが多いが、逆にからかわれることも。

紅が父猫になるまではボスとして遠巻きに眺めるだけだったので、なかなか同居になじめなかったが、共に行動することで次第に心をひらいてゆく。

イソルダ 

紅夫婦の息子。

幼いころから体つきが丸く、運動嫌いが拍車をかけ、筋肉量の少ない体形はぷよんとしている。

スコティッシュフォールドのミックスだった父猫の影響を受け、片方だけ折れ耳。

口癖に「ニャウ」を多用する。調子に乗って姉のメデアをからかい、反撃を浴びることもしばしば。

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