第32話 向日葵、遅刻する

文字数 1,464文字

「冷静冷静、いつも通りいつも通り、笑顔笑顔、デカい声デカい声…」

 向日葵は通勤中の車内で呪文のように唱えていた。眉間に皺寄せ、苦い顔。呪いをかけているようだ。
 土曜日、葵に抱き寄せられてしまった向日葵。職場の前の席に座る彼に、おかしな態度を取らないよう自分を落ち着けるのに必死だった。無視はお互いに利益のないことだった。今回は「いつも通り」を演じようと昨日の就寝前に決めたのだ。といっても、就寝は全くできず朝まで考え続けてしまったのであるが。

「主演女優賞、助演女優賞…」

 彼女はずっと演じてきた。自分の内面をさらさないように、弱さをみせないように。
 特に「なゐ」の消滅を決めた時からは、調べていることや封印を解こうとしていることを誰にもばれないよう、より演じている。
 今日だって、うまく演じられるはずだ。
 呼吸で心を落ち着けながら向日葵が役場の玄関を入ると、葵と兄の樹が作業服を来て早速出動するところだった。

「え、もう行くの!?」

 樹は葵よりもさらに背が高く、アメフトやラグビー選手のようなしっかりした体格。ぼろぼろの役場が特撮のミニチュアセットに見えるほどだ。

「おはよ、ひまちゃん!遅刻してるのはそっちよ」

 向日葵並みの大きな声で超低音、そして喋り方は、字に起こせば柔らかそうなのに漢らしかった。

「じゃあねん」

 二人は早足で現場へ向かっていった。

「ちこく…しちゃったのか、私…」

 落ち着くことに気を取られ、向日葵は時間を失念していた。もう始業から15分経っている。走って課へ向かった。

「あら向日葵、遅刻なんて珍しいわね」

 席に着くと、さっそく桔梗がそこを指摘した。

「すいません、最近あまり寝つきがよくなくて…」
「疲れてるのかもね、無理しないで。寝る前にお風呂入るとか、あったかい飲み物飲むとか、工夫してみたら?」

 桔梗はあくまで優しく注意を促す。課長は、

「ほんとだよ。体調管理しっかりしてよね?社会人の基本じゃん?シゴト忙しいんだよ?定時で帰りたいよね?え?」と、詰めてきた。

 遅刻に関しては100%自身に非があるのに、課長に指摘されると拳が飛びそうになる。向日葵はいつも抑えていた。
 体調管理が社会人の基本であるなら、その腹と糖尿予備軍はいかがなものか。と言いそうにもなるが、これも抑える。

「そうそう、今日の午後から新しい子来るんだ。みんな仲良くね。伊吹君、面倒みてあげて」
「分かりました。誰が来るんですか?」
「それがさ、誰かまで教えてもらえなかったんだよね~。使える子だと定時に帰れるなあ」
「一体誰が来るんでしょうね。男子か女子か?強いのか?」
「ここに配属されるくらいだから、そこそこじゃないですか。ほんと、使えるといいな」課内一の小柄、二宮蓮が答える。
「てことは、誰かは限られてくるわね。あのあたりかしら」

 午前中いっぱい、葵と樹は駆除に追われ役場へ戻ってくることはなかった。新人の話題などもはさみながら、向日葵は「いつも通り」を演じる必要なく過ごすことができた。
 午後の始めのうちは、新人のこともあり課内は騒がしかった。また向日葵は課長から雑務もドッサリと頼まれ、忙しくて葵の事を気にする暇もなかった。
 やっとトイレに立ち、手を洗っている時にふと、「忙しいのもたまにはいいな…」向日葵は思ってしまった。仕事に追われていれば、プライベートに思考を割く必要がない。
 でも結局、忙しさは今日をやり過ごす手段。この気持ちを解消する根本的な方法にはならないのだ。
 向日葵は水玉模様のタオルハンカチを握りこみ、課に戻ったのだった。
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