第68話 橘平、向日葵と葵をからかう

文字数 2,347文字

 東北地区の山に、青白い閃光が轟く。

「橘平君のおかげだな」

 葵が穏やかな笑顔を向けた。

◇◇◇◇◇

 土曜の朝8時30分。7時ごろまでぽつぽつと雨が降っていたが今は止み、曇り空が広がっている。

 橘平は葵の黒い乗用車に乗って、彼の職場である村役場に来ていた。今回は直接、家での待ち合わせではない。以前、向日葵と待ち合わせた近所の公民館前で葵に拾ってもらった。理由は、朝早くて母の支度が間に合わないかもしれないと思ったからだ。後から考えれば、まだ暗いうちから起きてヘアメイクを済ませただろうけれど、説明も面倒なのでこれでよかったのだと橘平は納得している。

 村役場は、築60年は過ぎているだろう鉄筋コンクリートの建物。壁は縦に流れる黒ずみがあらゆる箇所で目立ち、汚れも多く見受けられる。造られた当時のまま、特に補修も塗り替えも行われなかった姿で、橘平の目の前に存在している。夜に一人で入るには勇気のいる古さだ。

 橘平の記憶では、村役場に入ったことはない。もしかしたら小さいころ、母に連れられてきたことはあるかもしれない。けれど覚えていないのだから、物心ついてから数えれば初めてだ。

 鳥の鳴き声以外に聞こえない役場の玄関前。橘平と葵は互いに話すことなくそこに立っていた。

 5分ほど経った頃、見慣れたピンクの軽自動車がやってきた。曇りの背景にまぶしい色だ。

「お、向日葵さんだ」

 金髪をトップでお団子にまとめた向日葵は、駐車場に車を止めて降りるや否や、元気よく走ってきて、「おはよー!!」橘平を勢いよくぎゅーっと抱きしめた。

「おおおおおはようございます。いてて、怪力怪力」

「おっとごめん。はい抱きしめ直し~」ゆるい力で抱きしめ直し「かわいいね~」と橘平の髪の毛をわしゃわしゃしていると、葵が「じゃれてないで早く入るぞ。遅刻して」とぶっきらぼうに言い放った。

「ごめんごめん、休日で油断した。あ、葵おはよ~」

「…おはよう」鍵を開け、さっさと役場の中へ入っていった。

 役場の中は、当たり前だが誰もいない。彼らの足音のみが反響する静かな空間。外壁は黒ずみが目立ったが、中の壁は20年ほど前に塗り直した程度の黄ばみを感じた。まだマシである。

 廊下を進み、彼らの職場である環境部の部屋へ着いた。部屋の右側は野生動物対策課、左側が自然環境課の島だ。各課の壁際やドア側の壁にはロッカーがあり、そこに日本刀など妖物駆除に関する道具、本物の対野生動物用の道具が格納されているという。

 向日葵と葵はそれぞれの席にカバンを置く。橘平は向日葵の隣席に案内された。

「いつもは蓮君が座ってるんだ~」

 橘平は躰道の稽古で蓮とは顔見知りとなっており、「小柄のすばしっこい人ですね」おおよその姿は浮かんでいた。

「きっちゃん、汚れていい服持ってきた?」

「はい」

 橘平はリュックから中学時代の小豆色のジャージを取り出した。現場は山の中なので、汚れていい服装を持ってくるよう言われていたのだ。

「なっつかしー!私も着てたやつじゃーん」

「そのころから金髪っすか?」

「なわけないでしょ!黒だよ!真面目だから金にしたのは高校生から!」

 それって真面目か?と突っ込みたくなったが我慢した。

「ほらこれ」向日葵はスマホのアルバムを見せてくれた。真っ黒でぎゅっとしたツイン三つ編みの少女が写っている。

 別人だった。

 誰だろうと、橘平は少し考えてしまったほどだ。髪を下ろしている写真もあった。

 橘平は「黒髪ロングの方が似合う」と感じたが、胸の内にしまった。桜から黒髪時代があったことは聞いていたが、金髪だからこそ、今の向日葵なのだ。写真の少女は人生がつまらなそうだったから。

 向日葵はトートバックから、葵はロッカーから、上はベージュ下は紺色の作業服を取り出した。

「ほいじゃ着替えましょ。きっちゃん、私とお着替えする~?」

 じっと向日葵の顔を見る橘平。おちょくりの質問のはずが、何の反応もなく、向日葵は滑った気がして身の置き所がなかった。

 向日葵が冗談だと言おうとすると、橘平は「向日葵さんが葵さんと着替えれば?」真顔で返した。

「はあ!?」

「俺よりそっちのがいいでしょ」

「な、何を」

「じょーだんっすよ!葵さん、更衣室どこですかー?」

 橘平は葵とともに部屋を出ていった。

 一人残された向日葵は、恥ずかしさと橘平にからかい返された悔しさがごちゃ混ぜになりながら、叫びたいのを我慢した。

◇◇◇◇◇ 

 男子更衣室は課を右に出て、3つ隣の部屋だった。女子更衣室はその隣だ。広さにして6畳ほどだろうが、ロッカーと簡易シャワー室、丸椅子が3個あり、実際よりも狭く感じる部屋だった。

 葵はグレーのクルーネックセーターを脱ぎながら、「向日葵にからかわれても、あんまり動じないんだな」

「あはは、向日葵さん、俺で遊ぼうとしてるのバレバレなんですもん。からかい返さないと」橘平はジーパンを脱ぎながら答える。

 ただの優し気な少年かと思えば、実はいたずら心もあるという、お茶目な一面も持ち合わせている。なかなか面白く見どころのある子だと葵が感じていると、「葵さんがさっきの質問されたら、なんて答えるんすか?」と尋ねられた。

「……え」

「うへへ、答えなくていいですよ!」橘平はジャージの下を履き、パーカーを脱ぐ。「即答できないってことはあれっすね。意外とスケベっってことですね~。一緒に着替えてナニするつもりですかねえ」

 いたずら心を自分に向けられた葵は、仕返しがしたくなった。が、それでは器の小ささを露呈していると思い至り、黙って作業服の上着を羽織った。

◇◇◇◇◇ 

 着替え終わって戻ると、早速、課の電話が鳴った。

 相手は今日の感知当番、二宮課長の父親。東北地区の山に妖物が出現したという知らせだった。
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