第94話 橘平、桜と向日葵にネイルアートを施す

文字数 2,120文字

 ヤカンに水を入れ、火をかける。

 沸騰までの長いようで短い時間。シンクに両手を置き、向日葵は台所の窓の外をぼんやり眺めていた。雨粒が窓ガラスをとろりと伝う。

 横に葵がやってきた。

「さっきの有休の話、ちょっと思ったんだが」

「何を?」

「同じ日に有休申請するのって、偶然って思ってもらえるのか。それとも」

 この不器用が一体、どんな面白いことを言ってくれるのか。向日葵は少し期待する。

「俺に嫌がらせか、って課長なら言うかもな。残業したくないから」

「は?」

 期待するような言葉はなく、向日葵は肩透かしをくらってしまった。

 最近の彼の様子からすると、色気のあることを言ってくれそうな感じがしてしまったのだ。

「まあ現状、同じ日に2人消えるわけにはいかないな」

 それだけ言うと、葵は茶箪笥から緑茶の入った茶筒を取り出し、向日葵が洗っておいた急須に茶葉を入れ始めた。

 肩透かしも何も、二人の関係を邪推する者は部内にはいないし、邪推されたら何が起こるかわからない。絶対されてもいけない。

 自分から葵と距離を取っているというのに、何かを期待する。向日葵はもやもやと切ないと悲しいと諦め、自分への戒め、そんな気持ちがいっしょくたになってきた。

 そのすべてを盛大なため息に乗せる。

「どうした?」葵は声をかけ、向日葵の顔を覗き込む。

 橘平に出会ってから、葵は少し感情的だ。菊が亡くなって以降に抑えていたものを、少しづつ吐き出すように。

 不断の熱を抱き続ける真っ黒な瞳に見つめられると、自分の決意が揺らいでしまう。

 覗き込まれると同時に、向日葵は葵の左耳を引っ張った。

「いって!!」



◇◇◇◇◇



「ねえねえ、鑑賞会本当に行きたいんだけど。ひま姉さんも興味あるみたいだし2人で行ってもいいかなあ」

「優真がなあ」

「お友達、挙動不審になんてならないよ。ひま姉さん話しやすいし、すぐ打ち解けるって。親しみやすい、会えるアイドルだよ」

「アイドルかあ…恩返しに向日葵さんを招待するのもアリ、か」

 真冬のイルミネーションのように一斉に。ぱあっと明るい笑顔が点灯する。

「ありがとう! 私、橘平さんのお友達ともお友達になれるかな」

 まあ変だけどいい奴らだよ、と返したが、自分以外にも友達が増えていくことに多少のさみしさもあった。先日「クラスメイトとお近づきになれた」という話を聞いた時も、胸がチクリとした。

 桜は自分だけのものでもないし、むしろどんどん、友達を作るべきだ。

 橘平だって友達はいる。桜だけが友達じゃない。よく分からない感情で気持ち悪いけれど、桜の一番の友達というポジションだけは守りたいと思うのだった。

「ああ!!」

 桜が突然、大声をあげる。

 台所から向日葵が飛んできた。

「どしたのさっちゃん!?ゴキ!?」

「違うよ、今日の大事なコト、もう一つあった。忘れちゃうところだった」

 桜はにっこりと笑いながら、スマホの画面を向日葵と橘平に見せた。

「ネイルアート」

「あーそうだ!ちょい待ってて、車から道具持ってくる~!!」

 本日は野宿相談、八神家での収穫物のほか、春休みに入ったということで橘平が桜にネイルアートを施すことになっていたのだ。ついでに向日葵にも。

 どんなネイルにするかは、事前に桜から画像が送られてきていた。ピンクをベースにサクラや猫の絵があしらわれたデザインだった。

「とにかく可愛くお願いしまーす」

「か、かわいく…了解っす」

 道具を借りた橘平は、早速ネイルアートに取り掛かった。

 しかも桜と向日葵、乾かす時間を利用して二人同時に描くという。

「まじで?きっぺーちゃんまじで?」

「はい。できると思うんで」

 「可愛く」という注文通りにできるかという自信はあまりなかったものの、あっという間に描かれていくサクラや猫の絵に、桜は感動していた。

 葵はその様子を、お茶を飲みつつ眺めていた。ネイルのことはよくわからないが、橘平の作業量がすさまじいことは分かる。絵の練習はしていたそうだが、ネイル自体は向日葵に施術して以降は何もしていないという。そんな人間の仕事とは思えなかった。

「はい、まず桜さん終了」

 絵柄も色合いも、桜が送った画像通りに仕上がっている。この出来上がりに桜は「可愛いよ! わー、可愛いよ! カワイイよ!」と大変満足した。

「ホント、もう、さっちゃんにぴったしの可愛らしさよ~きっちゃんアートのてんさい~」

 桜は葵に「見てみて」と両手を顔の前に挙げた。

「見事だな。お父さんのアクセサリーもキレイだったが……」

「きーくんさあ、いい特技だわこれ。お金になる。いや取ったほうがいい。お金払うね」

「ええええ、いいっすよそんな素人」

「そのくらいの価値あるよ、橘平さん。プロよ。今度お母さまにも塗ってあげたほうがいいよ」

 絵を描くのは嫌いじゃない。楽しい。まさか趣味を活かすことで人に喜んでもらえるとは思わず、ただただ驚く橘平だった。

 そして向日葵のネイルも終了した。前回頼まれた「好きなキャラ」ではない。春らしくチューリップを描いたデザインだ。

「さすがに、職場でキャラネイルはどうかなってさ…ブナンに…」

「えー、せっかく練習したんすよ」

 橘平はスケッチブックの練習跡を向日葵にみせた。
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