第6話 橘平、葵に口げんかで勝つ

文字数 3,902文字

 脳の揺れが、吐き気が収まるまで1時間ほどかかった。橘平はずっと、ソファでうつむいていた。桜は隣で背中をさすったり、向日葵もソファの傍らで見守ってくれていた。
 念のためにと、葵はバケツや新聞紙を用意してくれた。横になりたかったら布団も敷くからと、やはり、無表情で冷たそうにみえて意外と優しい青年だった。
 
 揺れが収まり気持ちも落ち着いて来た。はあ、とため息をつき、橘平はソファにもたれる。

「どーぞ」

 向日葵がテーブルに水の入ったコップを置く。

「…ありがとうございます」

 コップを手に取り、ちびちびと飲む。水が無くなってきたころ、ぬるめのほうじ茶を持ってきてくれた。

「す、すんません、いろいろ…」
「気にすんなって!あたまン中、めっちゃ揺れたっしょ?私たちもさあ、これ系の話初めて聞いたとき、そうなったし」
「懐かしい。私と葵兄さんは本当に吐いちゃったよね」
「ちょっと、桜さん…」

 分からない事だらけだが、どうやら彼らにも似た経験があるらしい。
 橘平の頭の中はまるで生まれ変わったようだった。古い価値という街は消滅し、そこに新しい街が作られ始めている。次々と家が建ち、道路が作られ、施設も増え…揺れは無くなったが、今、彼の脳内は建設ラッシュでまだまとまらなかった。

「…これ、なんなんすか?桜さんに質問攻めされたらくらくらしてきて…」

 葵は桜のような真っ黒な瞳を橘平に向ける。

「悪神を消滅させたら、村人に起こる現象。らしい」
「へえ?」
「村のおかしさに気付くと、頭の中で大地震が起こって、脳みそが生まれ変わって、これまでの考え方が一変して、『ない』が『ある』ことに気付く。あいまいだった存在がはっきりする」

 桜の視線は心がしびれるようなものだったが、彼のそれは体にくる。
 頭から氷水をぶっかけられたような、やっぱり刀で切られたような、ひんやりした感覚があった。

「それを強制的に起こした」
「…だったら、これを村の人みんなに起こして周れば、3人だけでこそこそする必要も」
「俺らの中では桜さんにしかできないのに、物理的に無理だろう。それに」
「そんなことをしているのが一宮の人間にバレたら、どうなるかわかりません。封印を守るためなら何でもするのが、一宮、いえ、この村なんです」

 隣に座る桜が、葵の言葉を待たずにそう言う。その表情からは恐れを感じた。

「私一人が処分される分にはいいんです。でも、ひま姉さんや葵兄さんにまで害が及ぶかもしれないと考えると…私たち以外の村人に、明かせる勇気はありません」

 桜はスカートの裾ごと、拳をぎゅっとにぎる。

「俺はいいんですか、秘密を明かして」

 桜の表情が、恐れから安心に変わる。

「はい」

 たった2文字の中に、桜の橘平への信頼を感じた。
 真っ暗な森の中を必死に走って謎のバケモノから桜を守り、握った手のひらからは心にしみる温かみ。
 彼は桜を、向日葵を、葵を、受け入れてくれる人だ。
 理由はわからない。直感だけれど、桜は橘平のことを信じていた。

「じゃあ…」

 飲み込まれそうだと感じていた桜の漆黒の瞳が、今は星のきらめく夜空のようだった。橘平はその輝きを感じながら、いままでの暮らしを振り返る。
 刺激はないけど楽しい生活。
 ゆったり流れる時間。
 穏やかでフラットな日常。
 何も考えなくても、だれかが用意してくれる道。
 それが実は、村の引力。
 封印のために村人が離れないように仕組まれていた生活。
 知ってしまったら、元には戻れない。

「…どうしました八神さん?疑問があるなら」

 聞きたいことはまだまだ沢山ある。
 でもきっと、彼らには、今日だけでは明かしきれない秘密がある。橘平はそう思った。
 少しづつ、疑問は解いていけばいい。
 橘平は桜の手を取り、自然と口にしていた。

「俺も悪神倒しの仲間にいれてください、桜さん」

「八神さん…」

 桜はもう一方の手を、橘平の手に添え、柔らかくにぎる。

「よろしくお願いいたします」

 先日から、少年の瞳に不思議なものを感じていた向日葵は、「そうなるだろうな」とどこか確信していた。ソファの後ろから二人の肩にぽん、と手を置く。

「よし、じゃあこれからは橘平ちゃんも一緒に」
「桜さん、何も知らないのに彼を巻き込むんじゃない」

 ただ、葵だけは納得していないようだった。
 桜と向日葵は橘平に感じるものがあるけれど、彼にはただの少年にしか見えていないようだ。はあ、と向日葵は大きなため息をつく。

「何も?ここまで知っちゃったでしょーよ」

 葵は立ち上がり、向日葵と対峙する。

「まだまだ知らないことばかりだからな」
「これから知ってけばいいでしょ?」
「知ってどうするんだ。俺たちの事情には無関係だ」
「そうかもしれないけど、村のことに気が付いちゃったんだよ?それで、『そうですか。じゃあ、さよなら。みなさん頑張って』なんてならないでしょ、特にこの子は」

 橘平と桜の頭の上で、成人二人の口論が始まってしまった。
 葵はあくまで冷静さを保ち、向日葵は派手な声で言い返す。争いの種となった少年は、いたたまれない。

「じゃ、なんできっぺーに説明したのよ?」
「桜さんが話そうって決めたからだ。こちら側に引き込むのとは関係ない」

 我慢できなくなった桜が立ち上がる。

「やめて二人とも!」

 こんな桜は見たことがない。二人の顔はそんな驚きに満ちていた。桜は普段、あまり怒ったり大声を出したりはしないのだろう。

「私は、八神さんと一緒がいい!!」

 またも桜の「わがまま」を聞く訳にはいかない。葵は「桜さん、橘平君はさっきまで何も知らなかった村人だ。巻き込んではいけない」と言い聞かせる。

「わかってるけど」
「もう巻き込まれてます!!」

 橘平も思わず立ち上がる。

「それはすまないと思ってるけど」
「葵さん、俺を捨てるんだ」
「は?」
「近づいてくる人、みんなそうやって捨ててるんですね」
「いや、捨てるって」
「今まで、何人の女性を泣かせたんですか!?」
「泣かせてねーよ!」

 あくまで冷静だった葵が、つい声を荒げてしまった。子供相手に大人げないと、すぐいつものトーンに戻す。

「あー、あのな、橘平く」

 橘平は泣きそうな声で「俺、初めて捨てられる男ですか?」と潤んだ瞳を彼に向ける。
 あははは!と、屋根を吹き飛ばすほどの突然の笑い声。向日葵だ。

「もう葵の負けだよ!きーくんの言う通り。私たち、ここまで巻き込んじゃったじゃない。お互い無視できないって」
「勝ち負けじゃなくて」
「そうだよ葵兄さん!八神さんのこと捨てちゃだめ!」

 桜の必死な訴えに、葵はもう何も言えなかった。降参とばかりに、大きなため息をつく。

「八神さん。またあの怪物と対峙しなければなりませんし、もしかしたら、もっと恐ろしい事があるかもしれません」
「分かってる」
「私たちが聞いていた以上に、『なゐ』は恐ろしいかもしれない。命の危険もあるでしょう」
「うん」
「それでも一緒に…仲間に入ってくださいますか?」
「もちろん!よろしくお願いします!」

 橘平の元気な声。桜は心の凍っていた部分が、じんわり溶けていく感じがした。

 向日葵は鼻歌を歌いながら、台所でお湯を沸かしていた。人気アーティストが歌うアップテンポな曲で、アニメの主題歌にもなっている曲だ。窓の外から入る暖かな午後の光が、さらに彼女の心を高揚させる。
 その隣で、葵がぶすっとした顔で立っている。

「なんで嬉しそうなんだ。一般の少年を巻き込んだというのに」
「あーんなにいらついて怒る葵なんて、ちょー珍しいじゃん」
「そっちかよ」
「うそうそ。葵の怒ってるのなんか、数学くらいつまんないよ」

 彼女はティーカップを用意しながら、陽気に話す。

「きーちゃん超良い子なんだもん!超いい子が、私たちと一緒に、さっちゃんを支えてくれるなんて…さいこーじゃない?」
「理由になってない」
「車ん中でしゃべったけど、私の車カワイイって!」
「お世辞だろ」
「なんだかんだ言って、アオも最後は反論しなかったじゃん」
「桜さんが『一緒がいい』っていうんだから、そうするほかないだろ」

 向日葵は気味が悪いほどにゆっくりと、にやあ、と口角をあげ、目じりを下げた。

「なんだその顔は」
「ほーんと、さっちゅんには逆らえないよねえ」
「そっちもだろ」

 向日葵は真顔に戻る。少し間があって、「まあね」と返した。
 ヤカンからふつふつと蒸気が見え始めた。

「葵には、きっぺーちゃんってどう見える?」
「どう?その辺の高校生だろ」
「うーん、そっかあ。葵はにぶいなあ~」

 ヤカンがぴーっと勢いよく音を出し始めた。向日葵はコンロの火を止める。

「一般人じゃないよ、八神橘平君」
「じゃあ何人だ」
「私たちみたいに『使える』。確実にね。きっと桜をしっかり守ってくれるよ、大丈夫」

 葵には分からないけれど、向日葵は少年に何かを感じ、すでに絶大な信頼を寄せていた。ティーカップにココアパウダーを入れる彼女は優しい顔をしている。
 使える。
 その一言に葵は即座に思考を切り替え、橘平について考えていた。
 巨大な鬼だか怪物だとかいうものに出会って、無事に帰って来られたということは「使える」ことに関係があるのかもしれない。
 あれを「使える」可能性は、なくはない。
 向日葵の直感を誰よりも信じる葵であった。

「にしてもさ」

 カップにお湯を注ぎながら、何気なく向日葵は言う。

「その無神経さで、一体何人泣かせてきたのやら」
「泣かせてないって!」
「ほんとにー?」
「ほん……ウソ泣きはいるな…」
「うそなき??だれ??」

 葵は苦虫を嚙み潰したような顔で、その人の名をつげた。
 向日葵は苦笑いする。

「それはノーカンでいいよ」
 
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