第2話 橘平、金髪と美形に出会う

文字数 5,489文字

 時間の感覚も体の感覚も、思考もない。体だけ、ただひたすら動く。
 自らの白い息が橘平の視界を覆うが、体は冷気を感じるだけの体温も残っていないようだった。
 どれだけ走っただろう。5分か一時間か。100mか10キロか。
 時間も距離も感じない世界を必死に駆け抜けた。
 視界から生い茂る木々が消え、一面の銀世界が現れた。二人は森の外に出られたのだ。
 橘平の意識はふわふわしているが、走った後の激しい鼓動で生きていることは実感できた。途中、枝などに当たったが、ダウンコートのおかげでケガもほとんどないようだった。
 桜をゆっくりと降ろし、ちゃんと家に帰ったほうがいい、とでも言おうとした瞬間、橘平の視界は雪よりも真っ白になった。

「八神さん!?」

 突如、橘平は前のめりにばこんと倒れ、雪にはまってしまった。
 桜はそれをよいしょ、うんしょとひっくり返し、体を思い切りゆすった。

「八神さん、八神さん!」

 目の前でぶっ倒れた少年同様、心身が疲れ切っている。この状況にどう対処すればよいか、考える余力も思考の隙間もなかった。泣きたくても涙を出す力もない。
 橘平の顔は真っ白で真っ青で。おそらく疲れと寒さ、緊張と、いろいろなものが一気に噴き出してしまったのだろう。
 まだちらちらと降り続く雪の中。このままだと最悪、死んでしまうかもしれない。桜は焦り始めた。

「私のせいで、また誰か犠牲になるのは…イヤ…」

 失礼な態度をとってしまったけれど、橘平に手を取られた瞬間、桜は体の内側が温かくなった。母親に愛されているような安心感があった。
 彼がいなければ、あのバケモノに食われていたことだろう。命の恩人であるこの少年をどうしても助けたかった。
 桜の大き目のメガネがずれてきた。かけ直す気力も湧かなかったが、ふと気が付いた。

「あ……」

 桜はメガネをはずし、橘平の瞼にそっと手を添えた。

 橘平が目を覚ますと、桜の顔が間近にあった。鼻先が触れそうな距離で、じっと橘平の目を覗き込んでいる。

「わあああ!?」

 少年が叫ぶ声をあげると、桜は急いで体を起こし、メガネをかけた。

「大丈夫ですか八神さん!?」
「え、あ…えと俺は…」

 森を出たところまでは、覚えている。しかし橘平にはそれ以降、白い記憶しかなかった。

「森を出てすぐ、お倒れになってしまわれて。私を担いで走ったので、だいぶお疲れになったのかと」
「あー…すんません」

 きっと、桜が介抱してくれたのだろう。なぜあそこまで顔が近かったのかはよくわからないけれど、彼女を心配して付いてきたはずが、橘平の方が情けない姿をさらしてしまった。

「立ち上がれそうでしょうか?すぐそこに、うちの小屋のようなものがありまして」
「え?じゃあここって北側?」

 八神家は村の南、一宮家は北地域にある。橘平はとりあえず森から出ようと必死に走ったが、まさか自宅の反対側にでるとは思わなかた。雪の中、家までどうやって帰ればいいだろうと考えながら、橘平は寝返りをうち、ざくっと雪に手をついた。
 体を起こしてみると、橘平は倒れる前より体が楽な気がした。

「肩貸します」

 そう言って桜は橘平の左腕をとり、自分の肩に載せた。

「…ありがとう、一宮さんも疲れてるのに…」
「いえ、八神さんほどでは」

 肩を借り、橘平はのそりと立ち上がる。桜はとても小柄で、立ち上がってみれば、肩に手を乗せるだけになった。

「…私、何のお役にも立ちませんね…」
「い、いやいやそんなことないですよ!起きるまで見守ってくれてありがとうございます!」

 先ほどまで、強気だった女の子とは思えないほど、今の桜は弱弱しく見えた。もしかしたら、桜自身も森は怖く、橘平に対して強がっていただけなのかもしれない。
 さくっ、ざくっ、と歩き始めてみると、やはり体はだいぶマシな状態に戻っているようだった。
 ここまで楽だということは、いったい、自分はあの場で何時間倒れていたのだろうか。

「あの、俺はどのくらい気を失ってました?」
「え…そうですね…ご、5分?…以内だったと思います」
「5分…ご、5分以内?何時間も眠って起きた感じ…」
「何時間も眠ってらしたら、すっかり朝でございますよ」

 桜は腕時計を橘平に見せた。

「今、夜中の3時です」
「え、今までのことって家から出て3時間…?はあ、なんかもう百年分疲れた」
「愉快な方ですね、八神さん」と、桜がくすくす笑った。

 
 こんなに雪積もったことあったけ、私の記憶にはありませんね、などと二人はぽつりぽつりと話しながら歩く。
 10分ほどで古い小屋のような建物に着いた。真っ暗で外観はよく見えないが、窓からほのかに明かりが見えた。
 桜が引き戸をがらりと開ける。

「桜です、戻りましたー」

 彼女が玄関をくぐった途端、誰かが勢いよく現れた。
 現れたのは金髪の女性とメガネの男性。どちらも背が高く、村ではちょっと目立つタイプだった。
 女性の方は飛ぶように三和土に降り立ち、その勢いで桜をがばりと抱きしめた。桜はくるしーと訴えるが、聞き入れてもらえず、よりぎゅうぎゅうにされる。

「さっちゅんお帰り!やばーもう、生きててよかったー!!ってか誰その子ー?!」

 村中に響きそうな声で桜を迎えた明るい調子の女性が、桜を抱きしめたまま、その後ろに立つ橘平の顔をずいっとのぞく。

「あれ君、八神の?きっぺー君じゃない?」

 金髪ロング、ゆるパーマの女性。
 彼女には見覚えがあった。というよりも、金髪の村人なんて彼女一人。忘れられないともいえる。

「あ、はい…にのみ」
「二宮向日葵だよ~!ってか二人ともめっちゃやばそうじゃん、死ぬ?!早く入って!ほら、靴脱げ!」

 無理矢理に手をひっぱられ、二人そろって入って左の部屋に連れていかれた。
 こんなに力強い人っているのか?と橘平は恐怖を感じた。腕が引っ込抜かれそうだった。
 通された部屋には二人掛けのソファと一人用の椅子が二つ、それと木製のローテーブルが置いてあった。二人はソファの方に押し込まれた。随分と乱暴に座らされはしたが、やっと落ち着けたという安心感はあった。
 そのあとから、向日葵と一緒にいたメガネの男性が入って来た。こちらも村唯一、いや都会でもあまりいない容姿。小学校の頃に女子がよく話題にしていたので顔は知っている。久し振りに見たが、相変わらずの二枚目だった。

「えーと三宮の…」
「桜さん。何があって、どうしてそこの少年と一緒に帰ってきたんだ?無関係だろう」

 穏やかなのに冷たい無表情な彼の言葉には、刀で切りつけるような鋭さがあった。その刃を、向日葵がふわっと跳ねのける。

「ちょ、葵!どう見たって二人ともお疲れじゃん、休んでからでよくない!?」
「大丈夫。大切なことだから今話すわ」

 向日葵は眉をきゅっとハの字にし、「え、でも」と困っていた。しかし、桜の「今話すから」という強い決意をしぶしぶ、受け入れた。とりあえず温かいお茶を出すまで休んでてほしいと、台所と思われる方へぱたぱたと消えた。
 部屋の中は電気ストーブのおかげでだいぶ暖かい。橘平と桜は寒さでマヒしていた体が徐々にだが解けてきた。
 ちらと、橘平は葵を盗み見た。
 刀よりも本が似合うような。争いとは無縁の雰囲気でありながら、真っ黒な瞳には強烈な攻撃性も感じる。
 怖い人なのかな、と内心びくびくしていると、メガネの青年は橘平に使い捨てカイロを2つ、丁寧に手渡した。桜にはブランケットも併せて。「靴下とか手袋、濡れてるならストーブの近くで乾かせばいい」などと薦めてくれもした。
 意外にいい人なのだろうか。橘平の評価は定まらなかった。
 確か二宮と三宮はお伝え様と親戚か何かだったな、と橘平は思い出した。彼らもその関係で、ここで桜を待っていたのだろう。桜は葵を「葵兄さん」、向日葵を「ひま姉さん」と呼んでいた。
 向日葵は飲み頃のほんわか温かいほうじ茶を持ってきてくれた。「お代わり何百回でも言って!」と下手なウィンクをしながら、二人の前に湯呑を置く。
 桜はほうじ茶を一口すすると、先ほどの出来事を二人に聞かせた。
 その口調は、先ほどは打って変わって、同級生たちとそう変わりはなかった。

「……ということがあって」
「そうか。わかった、じゃあ今日はこれで解散だ」
「え?葵兄さん、早速次の対策を立てるのでは」
「桜さん、かなり疲れてるだろう。顔を見ればわかる。良い考えなんて浮かぶわけない。それに橘平君は俺らと関係ないのに巻き込んでしまったんだ。早く家に帰してあげないと」

 葵は軽く頭を下げ「本当に申し訳ない」と謝罪するとともに、「今日のこと、そして桜さんと会ったことは忘れてほしい」と頼み込む。
 忘れてほしい。
 橘平はその一言に引っかかる。衝撃的な出来事を忘れることができるだろうか。
 いや、できない。

「じゃ、私の車で送るよ。さて、帰ろか橘平君」

 向日葵は橘平を送ろうと椅子から立ったが、彼に立つ様子はない。葵の方をじーっと見続けている。

「ありゃ、動けないかな?じゃあおんぶして」
「…忘れられないです」
「え?まあさ、疲れてるだろうから、今日ははとりあえず帰ろうねえ」

 まるでぐずる幼児を扱っているようだ。ここまで自分はハッキリ感じて、見て、記憶しているというのに。
 立とうとしない少年は、無かったことにしようとしている目の前の人たちに、怒りのようなものを感じていた。

「とりあえず?」

 橘平は立ち上がり、3人に向けて一気にまくし立てる。

「忘れろってことは、後で何か聞いても教えてくれないってことですよね?確かに俺は部外者だけど、あんなバケモノ見たら、知らない女の子に会ったら、気になるじゃないですか。みんなは何をしようとしてるんですか?あの森に満開の桜?鬼?妖怪?忘れられるわけない!」

 大人しい少年だと思っていた橘平の激しい態度に、3人は沈黙した。
 彼らの計画に部外者が入ってくることは、全く予想していなかったことだ。
 この少年にどう対処するのが正解なのか。葵は厳しいまなざしで深く考えていた。反対に、向日葵は橘平の瞳に不思議なものを感じていた。
 やや長い沈黙ののち、葵が口を開く。

「ごめん、橘平君、無理かもしれないが」
「葵」

 向日葵が鋭く彼の名を発する。先ほどの陽気さからは一変して、冷静なまなざしで語る。

「私たちにとってすっごく大事な桜を助けてくれたんだよ、橘平くんは。普通なら一人で逃げちゃうような状況なのに」

 彼女は葵に近づき、椅子に座る彼を見下ろす。

「いきなり見たこともないバケモンに出会ってさ、その辺の中高生男子が女の子助けられる?」

 葵はじっと彼女の語る瞳をみつめる。

「無理だよね。すっごい勇気ある子だよ!そしたらさ、適当にあしらうわけにもいかなくない?一応、私らオトナなんだからさ」 

 桜がぎゅっと握った葵の拳の上に、自身の柔らかな手を重ねる。

「お話しましょうよ、葵兄さん」

 とにかく無関係の人間を排除することしか考えていなかった葵は、「桜を助けてくれた」という事実を突きつけられ、次の言葉が浮かばなかった。

「ここまで巻き込んでしまって忘れろというのも、本当に無理な話よ。私が八神さんの立場でも同じことを思うもの」

 桜は橘平に向き直り、頭を下げた。

「本日は大変失礼いたしました」
「え」
「助けていただいたにも関わらず、一貫して不躾な態度を取ってしまいました。お許しいただけないとは思いますが、心からお詫び申し上げとうございます」
「ちょっとちょっと、気にしてないから、もっとこう、楽にしてよ一宮さん。俺なんかにそんな、丁寧にしなくても」
「いえ、初対面の方にそういう訳には」

 すると、向日葵があははと笑い出した。

「もう初対面じゃなくね?少年漫画ならさ、共に死線潜り抜けたら仲間でファミリーじゃん。さくっちは昔からオカタイよ~同じくらいの年頃なんだし、もっと気楽にさ!」
「き、きらく…」
「ま、今すぐにはむりでしょーけど、じょじょに、ね」

 向日葵はまたも下手なウィンクを桜に飛ばす。気楽にできる状況でもないのになあ、と桜は思いつつ、またしっかりと橘平と向き合う。

「八神さん、このたびのことに関すること、すべてお話します」

 言ってから桜はさっと目を伏せ、数秒考えてから話を続けた。

「申し訳ございません、本当にすべてはお話しできないと思います。けれど、今日は葵兄さんが言うように解散いたしましょう。後日改めてお会いしませんか。お約束します」

 桜の深々としたお辞儀に、橘平はそれ以上の反論はできなかった。

「…わかりました」

 そしてこの場はお開きとなった。
 

 橘平は向日葵の軽自動車に乗せてもらい、電話番号とメッセージアプリの友達登録をした。

「落ち着いたら連絡すっから!」
「は、はい、よろしくお願いします」

 今日のことを車の中でも少し質問したいと思ったが、限界になった眠気は言うことをきかず。橘平は助手席で眠ってしまった。
 すやすやしている間に、八神家の前に着いた。
 向日葵が「きっぺーくん、おうちついたよー?ここだよねー?」と声をかけるが目覚めない。
 体をゆすっても、軽く頬を叩いても反応がない。
 耳を思いっきり引っ張り、鼓膜を破るつもりで「起きろー!!!」と叫んで、

「わわ!?」

 とやっと起きた。それでもぼーっとしている橘平は、前を見ているのかいないのか、ふわふわした足取りで家に戻っていった。

「あの子、自分の部屋にちゃんと戻れるかな?玄関で寝ちゃったりしないかな?」

 家に入ってからのことは助けてあげられないが、玄関に入るところまでは見届けた向日葵であった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み