第37話 橘平、武道を体験する
文字数 3,452文字
「手のひらは上に向けて」
「は、はい」
「腰落として腰落として。『七減三加』って言ってね。体重を後ろ足に…」
橘平は今、夜の学校、それも柔道場に立っている。
隣にはど派手ファッション…ではなく、パリッとした道着を身に着けた向日葵。メイクだけは相変わらずで、髪は後ろで一つ結びしている。
「きっつ…」
橘平は初めての躰道を体験していた。
◇◇◇◇◇
今日の朝食時。橘平は納豆を混ぜながら、同じく納豆を混ぜている母親に何げなく報告した。
「今夜さ、学校でやってる躰道とかいう武道の体験行ってくる」
「どうしたのいきなり?」
「向日葵さんが子供たちに教えてるらしくて。来てみるかって」
「ああ、公英さんたちがやってる教室だね」
公英は野生動物対策課の二宮課長のこと。向日葵の親戚で上司である。
橘平が聞いた向日葵の話によると、躰道教室は二宮の親戚を中心に運営されている。門下の子供たちも一宮、二宮、三宮の親戚の子が多く通っているらしい。
なお、地域に開かれた教室なので、他の家の子や大人も一緒に汗を流しているということだ。
「父さん知ってるの?」
「きっぺー、ちっちゃいころ、一度だけお父さんと見学に行ってるのよ。でも大人たちの気合?試合?が迫力あって怖かったみたいで。それきり」
全く記憶にないことで、橘平は目をぱちぱちさせた。
母親が「子供に何か習い事をさせたい」ということで、いろいろ連れ回された思い出はぼんやりとあるが、躰道に行った記憶はなかった。隣町も含め連れ回された結果、親戚が開いている絵画教室が唯一、長く続いた。中3まで通った。
実花は親戚の教室に通わせることに、実は少し気持ち悪さがあった。義実家は隣、親戚もすべて近所に固まっている。一族に関わる必要のない部門は、積極的に別に頼りたかったのだ。息子が楽しく通っていたので習い事の件は飲み込んだ。橘平はふと、小さな村に絵画教室があるのは珍しいかもしれないと思った。
話は戻り、橘平は小さいころに躰道教室に見学へ行っていたという。そのころすでに、向日葵とは会っていた可能性がある。そう考えていたら、
「そうそう、その時橘平の面倒見てくれたの、向日葵ちゃんだったよ、確か。今とちょっとイメージ違うけど。何歳だったかなあ、中学生、小学校高学年…そのくらいだった。あの子別格にうまいらしくて、そのころから下の子の稽古見てたの」
その可能性しかなかったのだった。向日葵は覚えているかもしれないが、そのころは金髪ではなかっただろうから、橘平の記憶に残りにくかったのかもしれない。
弟の柑司は我関せずと、黙々と食べ続け、最初に食べ終わって席を立った。
「葵さんもいた?」
「いや、彼は剣道でしょ?居なかったんじゃないかな。覚えてないや」
やっぱり剣道か。サムライだもんな、と橘平は味噌汁をすする。
実花は「見たい…」と呟やいていた。俺は日本刀を振ってるの見たぜ、と心の中で自慢する息子だった。
「あでも、あの猫みたいなちっちゃい女の子、桜ちゃん?見たことあると思ってたけど、武道教室にいたよ。あの子だあの子!あの印象的な目!忘れられないよね」
桜は意外な面ばかりを持っている。驚かされてばかりの橘平だった。
◇◇◇◇◇
そんなわけで、橘平は今、向日葵から構え方や足運びを習っている。優しく一から丁寧に教えてくれるが、見慣れない動きで難しかった。
橘平は陸上部だ。運動は好きな方だし、走るのはそれなりに早いが、体の使い方が異なっていた。腰を落とすという、現代の日常生活にほとんどない態勢がまず、とてもきつい。
基本の構え方すら維持できず、きっと見られた姿ではないだろうと、橘平は恥ずかしくなった。通い続けている小学生たちのほうが立派なくらいだ。低い姿勢が保てず、徐々に浮き上がってきてしまう。ちびに「こしおとすんだよ」と声を掛けられてしまった。
小中高校と隣同士なため、小学生たちの顔をほぼ知っている、中高生たちはもっと知っている。この情けない姿を彼らに見られている。でも初心者なのだから、と割り切れたり、きれなかったりしていた。
黒帯たちの試合も見た。迫力があって、怪我をしそうで、橘平は終始はらはらした。当たり前のようにバク転したり、くねっと体を倒して攻撃を躱したり。スピードも目が追い付かないほどだ。
知り合いの小学5年生女子に「これ、危なくないの?」と橘平は尋ねた。
「そりゃ油断するとケガするけど。橘平くん部活は?」。
「陸上部」
「陸上だって油断すると、転んだり骨折したりするんじゃないの?同じじゃない?」
「ご、ごもっとも…」
みな上手に、そして強く見えるけれど、向日葵が別格であることは橘平の素人目でもよくわかった。男性陣が誰も歯が立たないのである。身のこなしが軽く、まろやかでしなやか曲線的な動きが、対戦者たちを翻弄させる。
加えて男性以上の力持ち。他の人たちが手を抜いているとも思えず、やっぱり素手では葵も勝てないのかもしれない。今日の稽古を通して、向日葵の言葉に真実味が増した橘平だった。
約二時間の稽古が終わった。きっと明日の朝、橘平の太ももは悲鳴をあげていることだろう。
向日葵に挨拶をしようと橘平が近づいていくと、ジャージに着替えた彼女の方からも走ってきてくれた。
「来てくれてありがと~!どうだった?」
「難しかったっす。武道ってかっこいいなあ、とは思ってたけど、走るより大変」
「いやいや、走るのも大変よ~陸上部だから体力あるね。まあ興味あったらまた来なよ」
「ありがとうございます。あの、父さんから聞いたんですけど」
「小さいころ来てたんでしょ?職場で聞いたよ~うんめーの出会い果たしてたのねえ。ごめんね、あんま覚えてないわ!」
「俺も全然覚えてないんで。小さかったし」
父と自分の知人が知り合いというのは、相変わらずむず痒い。向日葵と父が職場で会話するシーンが、いまいち思い描けない橘平だった。
「そういえば、二人の解読は進んだんすかね」
「進んだんじゃない?日曜に教えてくれるよ」
じゃあ日曜ねん、と向日葵はひらひら手を振り、ピンク軽のほうへ向かっていた。
◇◇◇◇◇
橘平は暗い夜道を、自転車を漕ぎながらつぶやく。
「走れるだけじゃあダメだよな。でも『なゐ』に明日出会うかもしれない、間に合わない、習っても仕方ない気もするけど、何もしないよりましだし…」と本格的に習うかどうか迷っていた。
帰宅してスマホを確認すると、桜からメッセージが来ていた。
〈お疲れ様、どうだった?〉
〈すっごい疲れたけど楽しかったよ。向日葵さんかっこよかった。そっちは?〉
〈あともう少し。土曜日に一気読みして、日曜日に分かったこと教えるね〉
〈明日は読まないの?〉
〈明日は葵兄さんの剣術の日だから〉
橘平の手が止まる。それはちょっと興味がある。
〈葵さんも先生?〉
〈たまに教えることもあるみたいだけど、教えるのめちゃくちゃ下手なんだって。親戚の人から聞いたんだけど。教えないほうがいいくらい〉
下手そうなのはなんとなく想像がついて、橘平はおかしくなってきた。
強いイコール教えるのもうまい、とは限らないのだ。その点、向日葵は相手のレベルや状況をよく汲んで、的確な指導を行っていた。
〈今、電話してもいい?ってか今どこ?家?〉
〈うん、家だよ。電話していいよ〉
そのメッセージを見てすぐ電話を掛けた。1コール目で桜は電話に出た。
『はい桜です』
「夜にごめん。いやさ、今日の向日葵さんがめっちゃかっこよくてさ。葵さんもきっとかっこいいのかな~ってちょっと興味があって。その、もし明日、桜さんが時間あったらいいんだけど、剣道?剣術?覗きに行きたいなって」
ここまで橘平は一気にまくし立ててから、心臓がどぎまぎしていることに気が付いた。
青年の剣に興味があるという目的を伝えているだけ。見学に行きたいだけ。
いままで、幼少からの顔見知りの人間しか遊びに誘ったことがなかった橘平は、友達になったばかりの人を初めて何かに誘うことが、意外に勇気のいることだと知った。
「そ、その、時間あったらね、で、その見学っていうんじゃなくて、ちらっと見たいだけで…」
桜からはまだ無言の電話しか聞こえない。「あれ、きもかったかな…」と怖くなってきた。
『うん!』
予想外に元気な返事が返って来た。
『覗きに行くんだよね?せっかくなら葵兄さんに絶対バレないようにしよう!ふふふ、スパイごっこみたい!黒い服できてね!』
予想外に楽しそうだった。
「は、はい」
「腰落として腰落として。『七減三加』って言ってね。体重を後ろ足に…」
橘平は今、夜の学校、それも柔道場に立っている。
隣にはど派手ファッション…ではなく、パリッとした道着を身に着けた向日葵。メイクだけは相変わらずで、髪は後ろで一つ結びしている。
「きっつ…」
橘平は初めての躰道を体験していた。
◇◇◇◇◇
今日の朝食時。橘平は納豆を混ぜながら、同じく納豆を混ぜている母親に何げなく報告した。
「今夜さ、学校でやってる躰道とかいう武道の体験行ってくる」
「どうしたのいきなり?」
「向日葵さんが子供たちに教えてるらしくて。来てみるかって」
「ああ、公英さんたちがやってる教室だね」
公英は野生動物対策課の二宮課長のこと。向日葵の親戚で上司である。
橘平が聞いた向日葵の話によると、躰道教室は二宮の親戚を中心に運営されている。門下の子供たちも一宮、二宮、三宮の親戚の子が多く通っているらしい。
なお、地域に開かれた教室なので、他の家の子や大人も一緒に汗を流しているということだ。
「父さん知ってるの?」
「きっぺー、ちっちゃいころ、一度だけお父さんと見学に行ってるのよ。でも大人たちの気合?試合?が迫力あって怖かったみたいで。それきり」
全く記憶にないことで、橘平は目をぱちぱちさせた。
母親が「子供に何か習い事をさせたい」ということで、いろいろ連れ回された思い出はぼんやりとあるが、躰道に行った記憶はなかった。隣町も含め連れ回された結果、親戚が開いている絵画教室が唯一、長く続いた。中3まで通った。
実花は親戚の教室に通わせることに、実は少し気持ち悪さがあった。義実家は隣、親戚もすべて近所に固まっている。一族に関わる必要のない部門は、積極的に別に頼りたかったのだ。息子が楽しく通っていたので習い事の件は飲み込んだ。橘平はふと、小さな村に絵画教室があるのは珍しいかもしれないと思った。
話は戻り、橘平は小さいころに躰道教室に見学へ行っていたという。そのころすでに、向日葵とは会っていた可能性がある。そう考えていたら、
「そうそう、その時橘平の面倒見てくれたの、向日葵ちゃんだったよ、確か。今とちょっとイメージ違うけど。何歳だったかなあ、中学生、小学校高学年…そのくらいだった。あの子別格にうまいらしくて、そのころから下の子の稽古見てたの」
その可能性しかなかったのだった。向日葵は覚えているかもしれないが、そのころは金髪ではなかっただろうから、橘平の記憶に残りにくかったのかもしれない。
弟の柑司は我関せずと、黙々と食べ続け、最初に食べ終わって席を立った。
「葵さんもいた?」
「いや、彼は剣道でしょ?居なかったんじゃないかな。覚えてないや」
やっぱり剣道か。サムライだもんな、と橘平は味噌汁をすする。
実花は「見たい…」と呟やいていた。俺は日本刀を振ってるの見たぜ、と心の中で自慢する息子だった。
「あでも、あの猫みたいなちっちゃい女の子、桜ちゃん?見たことあると思ってたけど、武道教室にいたよ。あの子だあの子!あの印象的な目!忘れられないよね」
桜は意外な面ばかりを持っている。驚かされてばかりの橘平だった。
◇◇◇◇◇
そんなわけで、橘平は今、向日葵から構え方や足運びを習っている。優しく一から丁寧に教えてくれるが、見慣れない動きで難しかった。
橘平は陸上部だ。運動は好きな方だし、走るのはそれなりに早いが、体の使い方が異なっていた。腰を落とすという、現代の日常生活にほとんどない態勢がまず、とてもきつい。
基本の構え方すら維持できず、きっと見られた姿ではないだろうと、橘平は恥ずかしくなった。通い続けている小学生たちのほうが立派なくらいだ。低い姿勢が保てず、徐々に浮き上がってきてしまう。ちびに「こしおとすんだよ」と声を掛けられてしまった。
小中高校と隣同士なため、小学生たちの顔をほぼ知っている、中高生たちはもっと知っている。この情けない姿を彼らに見られている。でも初心者なのだから、と割り切れたり、きれなかったりしていた。
黒帯たちの試合も見た。迫力があって、怪我をしそうで、橘平は終始はらはらした。当たり前のようにバク転したり、くねっと体を倒して攻撃を躱したり。スピードも目が追い付かないほどだ。
知り合いの小学5年生女子に「これ、危なくないの?」と橘平は尋ねた。
「そりゃ油断するとケガするけど。橘平くん部活は?」。
「陸上部」
「陸上だって油断すると、転んだり骨折したりするんじゃないの?同じじゃない?」
「ご、ごもっとも…」
みな上手に、そして強く見えるけれど、向日葵が別格であることは橘平の素人目でもよくわかった。男性陣が誰も歯が立たないのである。身のこなしが軽く、まろやかでしなやか曲線的な動きが、対戦者たちを翻弄させる。
加えて男性以上の力持ち。他の人たちが手を抜いているとも思えず、やっぱり素手では葵も勝てないのかもしれない。今日の稽古を通して、向日葵の言葉に真実味が増した橘平だった。
約二時間の稽古が終わった。きっと明日の朝、橘平の太ももは悲鳴をあげていることだろう。
向日葵に挨拶をしようと橘平が近づいていくと、ジャージに着替えた彼女の方からも走ってきてくれた。
「来てくれてありがと~!どうだった?」
「難しかったっす。武道ってかっこいいなあ、とは思ってたけど、走るより大変」
「いやいや、走るのも大変よ~陸上部だから体力あるね。まあ興味あったらまた来なよ」
「ありがとうございます。あの、父さんから聞いたんですけど」
「小さいころ来てたんでしょ?職場で聞いたよ~うんめーの出会い果たしてたのねえ。ごめんね、あんま覚えてないわ!」
「俺も全然覚えてないんで。小さかったし」
父と自分の知人が知り合いというのは、相変わらずむず痒い。向日葵と父が職場で会話するシーンが、いまいち思い描けない橘平だった。
「そういえば、二人の解読は進んだんすかね」
「進んだんじゃない?日曜に教えてくれるよ」
じゃあ日曜ねん、と向日葵はひらひら手を振り、ピンク軽のほうへ向かっていた。
◇◇◇◇◇
橘平は暗い夜道を、自転車を漕ぎながらつぶやく。
「走れるだけじゃあダメだよな。でも『なゐ』に明日出会うかもしれない、間に合わない、習っても仕方ない気もするけど、何もしないよりましだし…」と本格的に習うかどうか迷っていた。
帰宅してスマホを確認すると、桜からメッセージが来ていた。
〈お疲れ様、どうだった?〉
〈すっごい疲れたけど楽しかったよ。向日葵さんかっこよかった。そっちは?〉
〈あともう少し。土曜日に一気読みして、日曜日に分かったこと教えるね〉
〈明日は読まないの?〉
〈明日は葵兄さんの剣術の日だから〉
橘平の手が止まる。それはちょっと興味がある。
〈葵さんも先生?〉
〈たまに教えることもあるみたいだけど、教えるのめちゃくちゃ下手なんだって。親戚の人から聞いたんだけど。教えないほうがいいくらい〉
下手そうなのはなんとなく想像がついて、橘平はおかしくなってきた。
強いイコール教えるのもうまい、とは限らないのだ。その点、向日葵は相手のレベルや状況をよく汲んで、的確な指導を行っていた。
〈今、電話してもいい?ってか今どこ?家?〉
〈うん、家だよ。電話していいよ〉
そのメッセージを見てすぐ電話を掛けた。1コール目で桜は電話に出た。
『はい桜です』
「夜にごめん。いやさ、今日の向日葵さんがめっちゃかっこよくてさ。葵さんもきっとかっこいいのかな~ってちょっと興味があって。その、もし明日、桜さんが時間あったらいいんだけど、剣道?剣術?覗きに行きたいなって」
ここまで橘平は一気にまくし立ててから、心臓がどぎまぎしていることに気が付いた。
青年の剣に興味があるという目的を伝えているだけ。見学に行きたいだけ。
いままで、幼少からの顔見知りの人間しか遊びに誘ったことがなかった橘平は、友達になったばかりの人を初めて何かに誘うことが、意外に勇気のいることだと知った。
「そ、その、時間あったらね、で、その見学っていうんじゃなくて、ちらっと見たいだけで…」
桜からはまだ無言の電話しか聞こえない。「あれ、きもかったかな…」と怖くなってきた。
『うん!』
予想外に元気な返事が返って来た。
『覗きに行くんだよね?せっかくなら葵兄さんに絶対バレないようにしよう!ふふふ、スパイごっこみたい!黒い服できてね!』
予想外に楽しそうだった。