第65話 葵、一人でバケモノに立ち向かう

文字数 3,054文字

 一人での駆除は初めてだった。

 というより、これまで一人で駆除に出た課員は皆無だ。基本は二人一組が規則であり、今回は緊急対応である。課としても、葵としても初めてのことで、どう転ぶかわからない。

 これまでのような大したことのない妖物ならば、一人でも不安はなかった。

 けれど弱い方が少ない今、いかに優れた能力と武術を持つ葵と言えど、いつもの何倍もの緊張は嫌でも強いられる。

「蓮さんでもいいから、誰か来るかな…」

 葵に嫌味を言う蓮の手ですら借りたい。それでも今は、一人で行かねばならない。葵はメガネを外し、日本刀を手に車を降りた。

◇◇◇◇◇

 到着した東南地域の山間には、「弱くはなさそう」な妖物が待っていた。

 2トンはありそうな、巨体の豚型だ。前足が異様に太くぼこぼこしたイボが体中にはびこっている。そして耳と尻尾がない。

 葵に気付いた豚は、のそりと彼に正対した。

 どちらも間合いを図り、動き出しは慎重になっている。葵の足元で小枝がぱき、っと折れる音がした。

 その音に気を取られた瞬間、豚が葵をめがけて走って来た。そのまま切れる、と袈裟懸けに刀を振るも、豚は寸ででひらりと避け、葵を飛び越えて背後に周った。大きさのわりに身のこなしが軽い。

 急いで豚の方に向き直り、間合いを取り直すも、豚はまた襲ってきた。葵は近くの木に急いで登った。

 豚はがりがりと幹を掻く。木には登れないらしく、途中から諦め下から仰ぎ見ている。

「このまま降りれば…突けるか?」

 呟いた時、豚は巨体を木にぶつけてきた。激しく揺れる枝から振り落とされないよう、葵は踏ん張った。

 妖物がまた体当たりの姿勢に入ったところで、葵は刀を下に向けて飛び降りた。

 敵は意外にも判断力に優れ、さっと移動する。葵は飛び降りるだけになってしまった。急いで刀を持ち直し、豚がいる方向とは逆に走り出した。もちろん、豚は追いかけてくる。

「っはあ、逃げてるだけじゃ、埒が…!!」

 走りながら、ポケットの中の小袋を思い出した。小袋を取り出し、葵は急停止して振り返った。

 そして、迫る妖物の前に「お守り」を突き出した。

 やはり豚は止まった。止まる、というより手足を動かしてもこれ以上進めない、そういう風であった。

 左手でお守りを突き出しつつ、葵は右手で豚の喉に日本刀を突き刺した。閃光とともに、豚は溶けていった。

「…これは」

 溶けていく様子と左手の小袋を交互にみる。お守りマークの部分だけ、穴が開いていた。

「有術だ…」 

 葵は確信すると同時に、感じたことのないほどの緊張と不安から解放された。

「なんなんだ、橘平君!」

 その場にしばらく座り込んだ。

◇◇◇◇◇

 退勤時間10分前に葵は役場の玄関をくぐった。

 そこから課に戻るまでの間、妙に多くの視線を感じた。すれ違う人や窓口の職員、用事があって来ている村民-すべての人が葵を見てくる。

 もしかしたら、作業着の土汚れがひどいとか、顔が汚れているとか、もしかしたら妖物から飛び散った何かが付着しているのだろうか。そう思い葵は一旦お手洗いに寄ってみるも、作業着と顔に多少、泥や砂が付いているくらい。特別視線を集めるような汚れはなかった。

 よくわからないまま課に戻ると、唐揚げ課長と樹が「良かったー!!生きてるー!!」と飛びついて来た。

 向日葵の兄だけあり、骨が軋むほどの力で抱き着く樹。厚い体のせいか暑苦しい。

 一応、武道家で、なかなかの腕力を持つ課長。しかも、油っぽい腹と腕と顔が密着してくる。

 逃げたくても逃げられない葵は、息も絶え絶えで訴える。

「か、簡単、には、し、死にませんから!は、離して、ください、くるし…」 

「わーん、ごめん」ぱっと樹は手を離した。

 課長も「すまんすまん」と言いながら離れ、「はー、良かった~定時で帰れる~。あ、報告書は書いてから帰ってネ」時間でさっさと退勤してしまった。

 唐揚げって登録しようか、ぼんやり考えた葵だった。

 席についた葵は、さっそく報告書に取り掛かった。いつもより顔が軽い感じがしたけれど、気にせずパソコンへ向かう。

 実はこの時、葵はメガネをかけ忘れていた。彼は一族の中でも有術の才能が抜群である。それゆえに、能力が勝手に溢れてしまうのであった。手にするものすべてが武器になるのは危険なため、特殊なメガネで有術を抑えている。一人での駆除という初めてのことで心身ともに使い切ってしまい、メガネことを失念していた。それに、有術を抑える必要もないほどに、彼は心身の力を使い果たしていた。

 ゆえに、妙に多くの視線を集めすぎてしまったのだ。素顔の葵を見かけてしまった女子は狂気し、男性陣の目も惹いていた。メガネには顔のきらめきを抑えておく役割もあったらしい。

 他部署だけでなく、駆除で見慣れているはずの環境部も同様だった。緊張感が走る仕事中と、落ち着いた室内では、葵の顔は違って見えたのだ。

 ただ、退勤することしか頭にない課長はそんなことに気づきもしない。

 誰よりも素顔を見慣れている向日葵は、今さら何も思わなかった。帰るついでに「メガネかけ忘れてる」そう言おうとした。

 ところが、最近配属された職員の一宮あさひが「アオイくん、メ・ガ・ネ」と先に指摘してしまった。

「あ、車だ。まあいいや」葵はそのまま報告書の作成を続けた。

「結構うっかりさんだよね」あさひが葵の両肩に手を置く。「また明日」息をたっぷりに耳元でささやいたが、葵は無視した。

「アオちゃん」

 カバンを手にした樹が声をかけた。

「子供の頃も思ってたけど、女の子のアオイちゃんも見てみたかったナ…」

 樹はそっと葵を抱きしめ、帰っていった。

「は?女の子の俺?意味が分からん」

 現在も中性的な顔立ちで、幼少期に「女の子みたいだ」と言われたことがあった葵。大人になってから、また似たようなことを言われるとは意外だった。

「……このナリで女の子って」

「それだけおキレイなお顔って意味よ。メガネってけっこー顔変わるから。じゃあね」と桔梗は去っていった。

 子供のころ、水泳だけは仕方なくメガネを外していた葵。その時の違和感もメガネの有無だったのかと、今になって納得したのだった。

◇◇◇◇◇

 環境部の前を通った八神幸次は、一人残業に励む葵を見つけ、声をかけた。

「葵君、午前中は助けてくれてありがとう」言いながら、葵の机に近づく。

「いえ、そんなお礼を言われるほどのことは」

「おりょ、君、メガネどうした?」

「車に置いてきてしまって」

「無くても見えるの?」

「…まあ、近視用ではないんで」

「ふーん、パソコンメガネか何かかな」

 幸次はメガネを外し、葵の顔を至近距離でじろじろ眺める。

 知り合い程度の人に顔を近づけられ、葵は変な緊張を感じた。

「素顔、予想以上にかっこいいねえ。きっとあのアクセサリーも似合うな」

「…向日葵から受け取りました、ありがとうございます」

 幸次は葵の顔から離れ、メガネをかけ直した。

「あれね、某高級ブランドの男女兼用デザインでさあ。シンプルだからさりげなく付けられそうと思って、お土産に渡してもらったんだよ」

「そうでしたか」

「うん。じゃあ残業頑張ってね。それじゃあ」

 入口に足を向けた幸次だが、ふと思い出したように言った。

「そういや、向日葵ちゃんもあれと同じデザインの色違い持ってったねえ。あの子がゴールド、君シルバー。じゃあ、帰るね」

 幸次はそう言い残し、帰っていった。

「…向日葵とおそろい…」

 葵はしばらく、幸次の立ち去った先をぼーっとみつめていた。
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