第88話 葵、あったかくなる
文字数 2,765文字
クリームイエローのストレートパンツとボーダーニットのオフィスカジュアルに着替えた向日葵は、さっそく朝ご飯作りにとりかかった。メイクはそれなりの時を要するのですっぴんだ。
やっぱり隣には葵がいて、手際よく卵を割っている。
「タマゴさんはキレイに割れるのね」
「知ってんだろ。よく卵かけごはん食ってたの」
「そうでした」向日葵は手際よく卵をかき混ぜた。
朝ご飯は厚めに切ったバターを載せた6枚切りトースト、スクランブルエッグ、野菜炒め、味噌汁。居間のローテーブルに運ぶ。
「大したものではありませんが、お召し上がりください!」
「美味しいんだから大したもんだよ。いただきます」
パンには洋風スープが定番だが、向日葵は「酒を洗い流してくれそう」な味噌汁を飲みたい気分だったという。「味噌煮込みうどんあるしな。同じ小麦だ」と葵は言った。
味噌汁をすすりながら、葵はふと「あったかい気持ち」になったと気づいた。
橘平のお守りは効く。
不思議な有術である。もしかしたら魔法だろうか。そう感じた葵だった。
「なんでニコニコしてるの?」
「…そこに朝グモがいたから」
「ふーん。そーいやさ、私、自分でジャージに着替えたの?」
スクランブルエッグを口にしながら葵は「俺が着替えさせた。気絶してたからな」
向日葵は半分食べたスクランブルエッグの上に箸を落とした。
真っ赤になっていいのか青ざめていいのか。感情が混乱し、どんな表情をすべきか顔の収まりがつかない。
「何にもしてないから安心しろ」
それは体の状態をみればわかるし、葵が何かするはずはないという信頼はある。
嘔吐の処理してくれただけではない。洗濯、そして着替えまでしてくれたという。子供のころから一緒、お互い、情けない姿や恥ずかしい失敗は嫌というほど知っているし見てきている。
今回は今まで以上の醜態をさらしてしまった。それでも向日葵を怒らない、恨まない、いつも通りに接する。
自分は葵の行為に腹を立て、無視したりしたというのにだ。葵の事を子供っぽいと感じることもあったけれど、実は自身の方が子供で心が狭かった。彼の誠実さに感謝しつつも、向日葵は自分の愚かさに嫌気がさした。
葵は彼女が落とした箸を拾い、台所で洗ってまた持ってきた。
「早く食って仕事行くぞ。化粧の時間もあるだろ」
「ありがとう」箸を受け取り、食事を再開した。
◇◇◇◇◇
朝食後、向日葵はいつもの倍の速さでメイクを終えて葵より先に出勤した。
職場には、すでに樹がいた。
いつもなら無視をする向日葵だが、今日は「…おはよう」と声をかけた。樹は役場を破壊するほどの大声で狂喜したという。
こういった兄の大げさな反応が苦手で、心の中で「嫌いだ」と叫ぶ向日葵であったが、その日を境に、樹に挨拶するようになった。そう感じるものの、向日葵自身も似たような性格なのである。
「なんだよ朝から大声で」蓮が出勤してきた。
「ああん、ごめんねえ。超嬉しいことあったからさあ」
「おはよう蓮君。兄がご迷惑を」
「別にいいけど。そういやひまちゃん、昨日、具合悪かった?」
「元気だったけど…」
「ホントに?アレに負けるなんておかしいでしょ」
アレ、とは葵の事。昨夜の躰道の稽古で、向日葵が今まで勝ってきた相手に負けてしまったのだった。
「油断、ですかね~たまにはそーいうこともありますっ!次は負けない!」
「珍しいね。油断ってさ、足でもすべった?最後の蹴りの時に」
「え、あー、そうなのかなあ…」
「記憶にない?」
「ないです」
「じゃあ何、素顔に見惚れたとか、そんな俗な事?」
向日葵は、急に体温が下がったように「やめてくださいよ…ちっこい時から見てるあの顔、メガネ有りでも無しでも、何も感じませんから…キモイです、その質問」と蓮に半目で返す。
「そうだね、ごめん。僕らはあの見てくれがマネキンだと知ってる二宮同士だったな。昨日は疲れてたんだろうね。でも、次は本当に勝ってくれないと困るよ。アレの負ける姿が見たいのに」
「はあ……最善を尽くします……」
その話題が始まる直前に、葵は席に着いていた。
「あれ、君いたのか」
本当は気づいていた蓮だが、わざと無視して向日葵に話題を振っていた。
「…おはようございます」
その後、「オレを見かけたらすぐ挨拶しろ」「存在感出せ」などと、朝から蓮にねちねち言われた葵だった。
◇◇◇◇◇
お昼を食べ終え、向日葵は人気の少ない役場の裏で、しゃがんで空を眺めていた。いい意味で言えば歴史を感じる建物の壁にもたれかかる。
穏やかな空とは裏腹に、彼女の心は曇っていた。葵のせいで心を乱されっぱなしであったが、今回はすべて自分の落ち度。なぜ酒に頼ってしまったのか自分でも自分の気持ちがよく分からなかった。
「言いたい事、全部言えたのかなあ……」
葵に尋ねたいけれど、失態の事が頭に浮かぶ。「きっと伝えた。そんな気がする」中へ戻ろうと立ち上がると、作業服のポケットから音が聞こえた。スマホを取りだすと桜からの電話だった。
「もしもし、どしたの」
『今お昼ご飯の時間だよね?ちょっといい?』
「うん。なあに?」
『日曜日に4人で会えたらって。八神さんちの神社の写真撮ったから見せたいし、あと今、私が家でしてることとか』
「うん、わかった」
『あとそう、ひま姉さんに野宿のことも相談したいの。葵兄さんにもこれから連絡するね。じゃあ日曜日』桜は通話を切った。
「野宿?」
日曜に聞けばいいだろうと、向日葵は電話をポケットに戻した。
席に戻りパソコンの電源をつけると、スマホの振動を感じた。
次は目の前に座る葵からのメッセージである。ちらと葵の方をみやる。彼の方は下を向いていた。
〈ジャージ、今日には乾くと思うけど〉
〈ありがと。日曜に受け取るよ〉
〈日曜?〉
〈さっちゃんから連絡来たっしょ?〉
〈二人がいるのに渡していいの?〉
目の前でジャージの受け渡しが行われた場合のシーンを想像した。なぜかと、桜はたちは尋ねるかもしれない。
嘔吐がバレる、飲酒がバレる、泊ったのがバレる、かもしれない。それに囚われて嘘を考えるとか、早めに行くとか、他のアイデアを考える余裕のない向日葵は大混乱した。飲酒はすでに橘平には筒抜けであるが、向日葵は気づいていない。
向日葵はスマホを手に立ち上がって「だめー!」思わず声を上げていた。
隣席の蓮が驚いて問う。
「な、なにが?どうしたの?」
「あ、あああご、ごめんなさい、ちょ、と、友達が変なコト言い始めてえ~なはは」
隣の課の人間まで向日葵を見ていた。「お騒がせしましたぁ…」と小さな声であやまり、ゆっくりと椅子に座った。
〈じゃあ今日の夜か土曜に取りに来いよ〉
〈りょ!〉
まんまと葵に誘導される向日葵だった。ちなみに職場での受け渡しが論外であるのは、葵も分かっている。
やっぱり隣には葵がいて、手際よく卵を割っている。
「タマゴさんはキレイに割れるのね」
「知ってんだろ。よく卵かけごはん食ってたの」
「そうでした」向日葵は手際よく卵をかき混ぜた。
朝ご飯は厚めに切ったバターを載せた6枚切りトースト、スクランブルエッグ、野菜炒め、味噌汁。居間のローテーブルに運ぶ。
「大したものではありませんが、お召し上がりください!」
「美味しいんだから大したもんだよ。いただきます」
パンには洋風スープが定番だが、向日葵は「酒を洗い流してくれそう」な味噌汁を飲みたい気分だったという。「味噌煮込みうどんあるしな。同じ小麦だ」と葵は言った。
味噌汁をすすりながら、葵はふと「あったかい気持ち」になったと気づいた。
橘平のお守りは効く。
不思議な有術である。もしかしたら魔法だろうか。そう感じた葵だった。
「なんでニコニコしてるの?」
「…そこに朝グモがいたから」
「ふーん。そーいやさ、私、自分でジャージに着替えたの?」
スクランブルエッグを口にしながら葵は「俺が着替えさせた。気絶してたからな」
向日葵は半分食べたスクランブルエッグの上に箸を落とした。
真っ赤になっていいのか青ざめていいのか。感情が混乱し、どんな表情をすべきか顔の収まりがつかない。
「何にもしてないから安心しろ」
それは体の状態をみればわかるし、葵が何かするはずはないという信頼はある。
嘔吐の処理してくれただけではない。洗濯、そして着替えまでしてくれたという。子供のころから一緒、お互い、情けない姿や恥ずかしい失敗は嫌というほど知っているし見てきている。
今回は今まで以上の醜態をさらしてしまった。それでも向日葵を怒らない、恨まない、いつも通りに接する。
自分は葵の行為に腹を立て、無視したりしたというのにだ。葵の事を子供っぽいと感じることもあったけれど、実は自身の方が子供で心が狭かった。彼の誠実さに感謝しつつも、向日葵は自分の愚かさに嫌気がさした。
葵は彼女が落とした箸を拾い、台所で洗ってまた持ってきた。
「早く食って仕事行くぞ。化粧の時間もあるだろ」
「ありがとう」箸を受け取り、食事を再開した。
◇◇◇◇◇
朝食後、向日葵はいつもの倍の速さでメイクを終えて葵より先に出勤した。
職場には、すでに樹がいた。
いつもなら無視をする向日葵だが、今日は「…おはよう」と声をかけた。樹は役場を破壊するほどの大声で狂喜したという。
こういった兄の大げさな反応が苦手で、心の中で「嫌いだ」と叫ぶ向日葵であったが、その日を境に、樹に挨拶するようになった。そう感じるものの、向日葵自身も似たような性格なのである。
「なんだよ朝から大声で」蓮が出勤してきた。
「ああん、ごめんねえ。超嬉しいことあったからさあ」
「おはよう蓮君。兄がご迷惑を」
「別にいいけど。そういやひまちゃん、昨日、具合悪かった?」
「元気だったけど…」
「ホントに?アレに負けるなんておかしいでしょ」
アレ、とは葵の事。昨夜の躰道の稽古で、向日葵が今まで勝ってきた相手に負けてしまったのだった。
「油断、ですかね~たまにはそーいうこともありますっ!次は負けない!」
「珍しいね。油断ってさ、足でもすべった?最後の蹴りの時に」
「え、あー、そうなのかなあ…」
「記憶にない?」
「ないです」
「じゃあ何、素顔に見惚れたとか、そんな俗な事?」
向日葵は、急に体温が下がったように「やめてくださいよ…ちっこい時から見てるあの顔、メガネ有りでも無しでも、何も感じませんから…キモイです、その質問」と蓮に半目で返す。
「そうだね、ごめん。僕らはあの見てくれがマネキンだと知ってる二宮同士だったな。昨日は疲れてたんだろうね。でも、次は本当に勝ってくれないと困るよ。アレの負ける姿が見たいのに」
「はあ……最善を尽くします……」
その話題が始まる直前に、葵は席に着いていた。
「あれ、君いたのか」
本当は気づいていた蓮だが、わざと無視して向日葵に話題を振っていた。
「…おはようございます」
その後、「オレを見かけたらすぐ挨拶しろ」「存在感出せ」などと、朝から蓮にねちねち言われた葵だった。
◇◇◇◇◇
お昼を食べ終え、向日葵は人気の少ない役場の裏で、しゃがんで空を眺めていた。いい意味で言えば歴史を感じる建物の壁にもたれかかる。
穏やかな空とは裏腹に、彼女の心は曇っていた。葵のせいで心を乱されっぱなしであったが、今回はすべて自分の落ち度。なぜ酒に頼ってしまったのか自分でも自分の気持ちがよく分からなかった。
「言いたい事、全部言えたのかなあ……」
葵に尋ねたいけれど、失態の事が頭に浮かぶ。「きっと伝えた。そんな気がする」中へ戻ろうと立ち上がると、作業服のポケットから音が聞こえた。スマホを取りだすと桜からの電話だった。
「もしもし、どしたの」
『今お昼ご飯の時間だよね?ちょっといい?』
「うん。なあに?」
『日曜日に4人で会えたらって。八神さんちの神社の写真撮ったから見せたいし、あと今、私が家でしてることとか』
「うん、わかった」
『あとそう、ひま姉さんに野宿のことも相談したいの。葵兄さんにもこれから連絡するね。じゃあ日曜日』桜は通話を切った。
「野宿?」
日曜に聞けばいいだろうと、向日葵は電話をポケットに戻した。
席に戻りパソコンの電源をつけると、スマホの振動を感じた。
次は目の前に座る葵からのメッセージである。ちらと葵の方をみやる。彼の方は下を向いていた。
〈ジャージ、今日には乾くと思うけど〉
〈ありがと。日曜に受け取るよ〉
〈日曜?〉
〈さっちゃんから連絡来たっしょ?〉
〈二人がいるのに渡していいの?〉
目の前でジャージの受け渡しが行われた場合のシーンを想像した。なぜかと、桜はたちは尋ねるかもしれない。
嘔吐がバレる、飲酒がバレる、泊ったのがバレる、かもしれない。それに囚われて嘘を考えるとか、早めに行くとか、他のアイデアを考える余裕のない向日葵は大混乱した。飲酒はすでに橘平には筒抜けであるが、向日葵は気づいていない。
向日葵はスマホを手に立ち上がって「だめー!」思わず声を上げていた。
隣席の蓮が驚いて問う。
「な、なにが?どうしたの?」
「あ、あああご、ごめんなさい、ちょ、と、友達が変なコト言い始めてえ~なはは」
隣の課の人間まで向日葵を見ていた。「お騒がせしましたぁ…」と小さな声であやまり、ゆっくりと椅子に座った。
〈じゃあ今日の夜か土曜に取りに来いよ〉
〈りょ!〉
まんまと葵に誘導される向日葵だった。ちなみに職場での受け渡しが論外であるのは、葵も分かっている。