第43話 桜、橘平の切ない一面を知る

文字数 2,736文字

 橘平は手のひらにお守りを描く。

 桜を守りたい。その気持ちを強く込めて。

 橘平は桜を抱き上げた。そして自分が走れる究極の速さで、その場から逃げた。

「おい!逃げんなよ!足はえーな!」

 柏が追いかけようとしたところで、背後から葵が現れた。

「再開するぞ、柏。大声出してなんかあったのか。野良犬?」

「後輩がいたんですよ。しかも女の子と一緒!あんなぱっとしない奴にすら彼女いるのに、なんで俺は」

 柏は橘平が走り去った方を睨む。葵も同じ方向を見てため息をついた。

「夜の学校でなにやってんだ。なんてヤツ?」

「八神のきっぺー。知ってます?」

 葵はさきほどまで呆れた気持ちだったが、橘平と聞いて逆に感心してしまった。

 一緒だった女子とは、きっと車で話していたAちゃん。やはり自分の話だったのだ、と。

 葵はふっと笑う。

「学校でからかうなよ」

「…はい」

 からかうな、は、からかえ。柏はそういうタイプである。



◇◇◇◇◇



 バイクと自転車を放置したところまで、橘平は全速力で走った。着いたのは学校から100mほど離れた原っぱ。草が生い茂る地面の中に、ぼつぼつと土肌が見える地面が混じっている。その中にある大きな木の下に、乗り物が置いてある。

 橘平は木の近くで桜を降ろした。そして膝に両手を置き、「っ…はあああーやばかったああああ」と詰めていた呼吸と言葉を一気に吐き出す。

「大丈夫?ごめんね、また担がせちゃって…」

「はあ…いやいや、全然…っはあ、軽いから全然…」

 タイムを計ればきっと、地方大会の記録を更新したであろう。橘平の足は限界を迎え、そのまま座り込んでしまった。

 ごめんね、と桜はまた小さく小さく呟く。

「で、でもさ、こーいうトラブルあったほうが面白いから、うん。楽しかった!」

 もう「ごめんね」と言わせないよう、精一杯明るく、楽し気に橘平は話しかけた。

 桜は弱く笑い、「さっきの、もしかして柏君?」声の主について尋ねた。

「そう。そっか、三宮の人だから知ってるのか」

「…学校で何か聞かれるかもしれないけど、絶対、私だってばれないようにしてもらえると助かる…」

「そりゃもちろん」

「本当にばれないように…絶対…お願いします!!」

 ポニーテールが橘平にぶつかるほどの速度で桜は頭を下げた。彼女に言われなくとも、橘平はそのつもりだ。

 しかし、この頼み事には何か切羽詰まったものを感じた。

「うん、絶対言わない。約束する」

「…ありがとう」

 ありがとうとは言うけれど、本当の意味はごめんなさい。そう聞こえた。

「桜さん、今何時?」

 桜は左腕に着けているデジタル式の腕時計を確認する。

「8時」

「まだ時間あるね」

 橘平は立ち上がって、草が多く生えている地面に移動した。桜に隣に座るよう促すと、彼女はちょこんと座った。

 見上げると、頭上には多くの星が瞬いている。

「星座わかる?」

「ちょっとね」 

 桜は「あれがオリオン座」と指す。

「他は?」

「わかんない」

「ほんとにちょっとじゃん!」

 くすくすと二人は笑いあう。

 星座がわからない二人は、あれは何に見える、これに見えると、オリジナルの星座を創り上げていった。

「夜ってこんな遊びがあったのね。楽しい」

「俺も、こんな遊びは初めてだけどさ。星に興味なんてなかったし」

 桜は使い捨てカイロをもみながら「世の中には、まだまだ、楽しいことがいっぱいあるんだろうなあ」と零した。

「じゃあ、楽しいこといっぱいやろうよ」

 ゆっくりと、桜は隣の少年に視線を移す。

「俺、桜さんの初めての友達だし、それに年下なんだから。やりたいこと何でも言ってよ。いつでも付き合うから」

「…いいの?」

「いいよ!俺もさ、いろんなことやってみたいよ。そんなこと思うようになったの、桜さんに出会ってからかもしれない」 

 桜はまたカイロをもみ始めた。無言だったが、にまにまとした笑顔を浮かべていた。

「そーいやさ、期末テスト返ってきたんだ」

「私もだ。橘平さんって勉強できるの?」

「別にー。いつも可もなく不可もなーく。今回もそんな感じ」

 橘平の成績は常に平凡。今回も良くも悪くもなく、すべてが70点台だった。

「すごい」

「どこが?70だよ」

「赤点がないから」

「…あるの?」

 桜の顔が徐々にうつむき「…ある」と呟くも、勢いよく顔を橘平に向け「けど、1つだから、1つだけ!他はだいたい70点以上取ってるから!」と訴える。

「ふーん。赤点、何の教科?」

「せいぶつ。私、いつも理科だけ悪くて。橘平さんは不得意な教科ないんだね」 

「得意もないんだけどね。ってかさ、いつも惜しいんだよ。78とか79とか、80点は絶対いかないんだ」

「そこまで取れれば80点も夢じゃないのに」

「なんかさ、『ここまででいいかな』って思っちゃうんだよね。これ以上頑張る必要ある?って。勉強だけじゃなくて、スポーツでもなんでも」

 橘平は足元の草をぷつぷつ、とむしる。

「ハマる、っていうのかな、好きなるっていうのかな。そういうことができないんだよね…」

 素直で明るく、面白くて良い人。桜が橘平に抱いていた印象だ。

 しかし、今、目の前にいる彼は儚く、靄のように薄い印象だった。指で触れただけでも、消えてしまいそうだ。

「一生懸命になれるものがある人が羨ましい」

 桜は橘平の手を握り「さっき、一生懸命に私を守ってくれたよ」と笑顔を向けた。

 始めはきょとん、とした顔の橘平だったが、桜の笑顔に惹かれ、儚い顔からゆっくりとほほえみに変わる。

 そのまま二人は、しばらく心地よい沈黙を過ごした。

「……桜さんさ、理科苦手って言うけど、誰かに勉強教われないの?親戚とか」

「いとこに教わってたこともあるんだけどねえ。なんか遠慮しちゃって、すぐやめちゃった」

「向日葵さんは」

 勉学は得意そうに見えないが、橘平は一応、その名を挙げてみた。

「勉強ができる方では…」

「おお、予想通り…あ、失言、内緒ね。葵さん、はもしかして」

「うん、実は勉強を教えるのも下手…知り合いの中で一番勉強できる人なのになぁ…」

「かっこよくて、勉強もできて、モテて、妖怪も倒せるのに、料理できないし、教えるの下手だし、なんかズレてるし」向日葵を振り回すし、という言葉は飲み込み「…葵さんって、意外とできないことあるね」

 それを聞いた桜は、体を小刻みに振るわせ始めた。振動は次第に大きくなり、我慢できなくなったのか、一気にあははと笑い始めた。

「きっとそれが、葵兄さんのいいところよ!」

 桜はメガネをとり、笑い涙をぬぐった。

「あーおかしい!ほんと、橘平さん面白い!」

「笑いすぎー」

 二人はその後もしばらく、星空を眺めていた。

「あ、あれ唐揚げの星座に見えない?」

「見えないよ。橘平さん、ずいぶん楽しみにしてるのね。唐揚げ作るの」
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