第85話 葵、無理矢理ビールを飲まされる

文字数 3,736文字

 古民家に戻った葵は風呂に入って汗を流した。

 さっぱりすると、空腹を感じた。朝に炊きっぱなしだったご飯で不格好な塩むすびを作り、ソファに座ってむしゃりとかぶりつく。海苔なんて気の利いた食材はない。米のままむさぼる。

 握り飯を腹におさめた葵は、テーブルの上にあるスマホを前に、電話をかけようか、それともメッセージを送るかで悩み始めた。相手は向日葵である。

 なんと声をかければいいかもわからないけれど、向日葵と一言でいいから言葉を交わしたいのだ。「おやすみなさい」の一言だっていい。

 橘平に「互角」と言い張ってきたのは、「負ける」と言うのが少し恥ずかしかったからだ。圧倒的に負けるわけでもないから、そう間違いでもなかった。

 しかし実際勝ってみると、彼女のアイデンティティを奪ってしまったような気持ちになってきた。剣と有術で圧勝な葵、それが体術まで。二人の関係のバランスが崩れたりすることはないか心配になった。

「俺が安心したいだけなんだよな……」

 突如、ごんごん、と玄関を叩く音がした。こんな時間に誰だろうと開けると、向日葵が北欧柄の買い物袋を提げて立っていた。「あがるよっ」そのままソファのある部屋に直行する。

 葵は向日葵の不意の訪問に困惑した。予測不能の行動に「何の用だ?」と呼び掛けるも、彼女は無視して居間に入っていった。

 向日葵は椅子をどかしてカーペットにどかっと座り、葵にも隣に座るよう敷物をバンバンと叩く。葵はとりあえず、促されるままに座った。

 テーブルに買い物袋を載せ、向日葵が取り出したのは500mlのビール缶二本。

「おい、なんで酒なんか」

「飲まなきゃ!」

 向日葵は缶を手にする。

「飲まなきゃあ話せない気がするから!だって今話せないもん!!すっごく話したいのに!!」

「ぶっ倒れるだけだろ!!」

 葵がビール缶を奪おうとすると、向日葵が両手に抱いてダンゴムシになり阻止する。

「ぶっ倒れたら兄貴呼べ」

「何時だと思ってるんだ」

「ヤツは来る。大丈夫」

 兄を嫌いだという癖に、妙に信頼し、結局甘えている向日葵。ビール缶を二本ともあけ、一本を無理矢理、葵に飲ませた。樹から聞いた話と同じ手法だ。

 持てる力を振り絞って怪力の向日葵の手を払うも、いきなり飲まされ、葵は悪酔いしそうだった。

 向日葵も一気飲みした。

「あ!! 飲むなって!!」

 顔が真っ赤を超えたところで、向日葵は大きくげっぷをし、力の限り葵に抱き着いた。

「いっ!」

「嬉しかった!!!」興奮した声で叫ぶ。

「な、なにが、だ……い、痛いから離せ!!」

 葵の訴えは無視され、向日葵は抱きしめ続ける。

「葵が素手で私に勝ってくれて、すっごく嬉しかったのお!」

「はあ?」

「だって、葵はいつも何かに頼ってたから。有術とか刀とか。優れてるのは自分じゃない、生まれつきの能力。俺はダメだ、何もできない、だからモノに頼る」

 抱きしめる力が柔らかくなる。

「本当はできる奴なのに、自分にとことん自信がない。自分の力を信じられない。そこがね、私はずーっっっとやきもきしてたのさ。だから、素手じゃ私に勝てなかったの」

 ハリのある声から、空気を含んだささやきに変わった。

「私は分かってたのよ。本当は私に余裕で勝てる力があるのに、最後の最後で自分の力が信じられなくなっちゃって、負けるの。あとあれか、遠慮もしてたかな」くすぐるような小さな笑い声が葵の耳に入ってきた。可愛らしく、心地よい声だ。「有術は、刀は、自分じゃないから。一人じゃないから自信がある。でも自分一人、頼れるものがなくなると……葵は葵に負けてた」

 向日葵は体を離し、葵の首の後ろで両手を組んだ。

 光を反射しないほど真っ黒な彼の瞳をじっと見つめる。

「これでもう大丈夫だね。葵は葵に自信が持てた。良かった。『なゐ』とも戦える。私の分までぶっ殺して。ああ、そうきっとこれは」

 へへへー、と気の抜けた顔になった彼女はあの名を呼ぶ。

「橘平ちゃんのおかげだ~」そう言い、葵を優しく抱きしめた。

 また橘平か。

 葵は心の中でぽつり言う。

 でも今では葵も、その名が出ることに疑問は湧かなかった。

 葵が向日葵を抱きしめ返そうとすると、彼女は爆発したようにきゃはは、ぎゃははと高い声で笑い始めた。葵は両耳に指を突っ込む。

 彼女はジャージのポケットからスマホを取り出した。テーブルの上で電話帳を検索し、かけた相手は〈舎弟のきっぺい〉。

「おい、また舎弟に電話って」

 橘平はすぐ電話に出た。

『なんですか~ひまわりさ~ん。もう寝るんすけどぉ』

 その声を聞くと向日葵は大声で笑いながら、「わー、きーちゃんこんばんは~あのねー、わたしはあれよ、酒の力に頼らないと、言いたいことが言えない、さいてーのにんげんなの~あはははは!!!」

 橘平が声というより「はぁ……」二酸化炭素を吐き出して答えると、ふっと向日葵は陰のある表情を見せ、憂いのある声で心の内を吐き出した。

「お酒にも、橘平ちゃんにも頼らないで、本音を言えるようになりたいな……」

 向日葵はしばらく沈黙した。葵も、おそらく電話の向こうにいる橘平も今、向日葵に対して同じ気持ちを感じているだろう。

 葵は「向日葵」と小声で呼びかけ、肩に手を置いた。

 とたん、彼女は笑い袋のように高い声で爆笑しはじめ、今度は「とんでもない昔話」を始めた。電話越しの橘平はばっちり目が覚めてしまったことだろう。葵も血の気が引いた。

「お、おいそれ…!!」自身の尊厳にかかわりそうだったので、向日葵からスマホを奪い取ろうとする。

 向日葵は身軽にくねくねと逃げまくる。ふらついたところで葵は手首を強く握り、電話を手から剝がしとった。そして、即、少年との通話を切った。

 直後、「ふうう、うう…うあーん!!」彼女は泣き出し、座り込んだ。

「ええ、だ、大丈夫か?」

 葵も座ると、彼女が抱きついてきた。

「えーん、きもちわるいよお……」

「あ……!!」

 葵は察すも時すでに遅し。向日葵は彼に抱きついたまま大量に嘔吐し、抱きついたまま気を失ってしまった。

「また……俺って吐きやすいのか?」

 泣きたいのはこっちだという気持ちだが、とりあえず葵は向日葵を横にした。

 葵はまず自身の黒の寝間着を上下とも脱ぎ、風呂場に放り投げた。バスタオル1枚、そして浴用タオル1枚と雑巾を水で絞り、居間に戻った。

 向日葵もジャージ上下ともに吐瀉物が付いてしまっったので、バスタオルで汚物を軽く取り除いた。浴用タオルでは口まわりを拭く。顔はメイクが濃いためにそのままにしておいた。

 次にカーペットの上に落ちてしまったそれらも雑巾である程度ぬぐう。後で、洗濯するつもりだ。 

 そこまで終え、葵は樹に連絡した。「もしもし、樹ちゃん? 実は…」向日葵が酒を飲んで吐いて倒れたことを伝えた。

『ええ!?ちょー、ひまちゃん!?ってかなんで葵ちゃんとこでええ??』

 葵に話に来たとは言えず、「……分からない。突然のうちに来て、それで……俺も飲まされた」

『おん…あおちゃんも被害者に』

「迎えに来てもらえると助かるんだが」

『ホントゴメン、妹がご迷惑を…でもねえ、僕もよう子ちゃんもお酒飲んじゃってさあ。運転できなくて。公務員だから法を破るわけには……』

「それは公務員じゃなくても守らないとな」

『うむむ、桔梗様にお電話しようかしら』

 悪い人ではないけれど、どういう経緯か粘り強く吐かせそうな人選だった。

「親戚とはいえ、上司に私生活で面倒をかけるのは。向日葵も後で気まずいだろうし」

『そうかあ、じゃあどうしよう……またゴメンねなんだけど、一晩そこに泊めてくれるかしら?明日、朝イチでうかがうわ』

 妹が知人の男性の家に一晩泊まる。字面にすれば兄として警戒すべきことだけれど、相手は幼少時から兄妹ともに仲良く過ごしてきた葵だ。樹は葵なら大丈夫という絶対の信頼を寄せていた。

 桔梗が迎えに来るよりは何万倍もマシだと思った葵は「……わかった。じゃあ明日よろしく」向日葵を一晩泊めることにした。

 樹との通話を終え、カーペットの上でいびきをかき始めた向日葵を見下ろす。

「ジャージ臭うよなあ。どうしよ。このまま寝かせるわけにも……」

 葵は向日葵のジャージを脱がすことに決めた。良からぬ気が起こりそうな行為だが、対象が悪臭のため、下心は一切生じなかった。葵は淡々と脱がせた。

 一応、下着だけになった彼女の臭いをくん、と嗅いだ。

「くさいのはジャージだけだな」

 念のため、自身の臭いも確認する。大丈夫そうだった。

 葵は彼女を寝室まで連れていき、自分の黒のジャージを着せ、ついでに自身もモスグリーンのスウェットに着替えた。

 そして布団を二組くっつけて敷き、片方に向日葵を寝かせた。くっつけたのはせめてもの「抵抗」である。

 いびきはおさまり、気持ちよさそうな寝息をたてている向日葵の寝顔。顔にかかかっている髪をどけてやりながら、葵は先ほどの彼女の言葉を思い出していた。

―有術は、刀は、自分じゃないから。一人じゃないから自信がある。でも自分一人、頼れるものがなくなると……葵は葵に負けてた。

「よく知ってんな、俺のこと」

 そう言い、葵はタオルやジャージの洗濯のために寝室を出ていった。
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