第81話 世界は滅んでなんかいない

文字数 2,366文字

 そこで幻覚は途切れた。カムは、狂気のミカエリだ、代償としてとうとう俺にも幻を見せてきた。いや、それとも俺が、望んだことなのかもしれない。悪七が氷づけのほうがいくらか、ましだったからだ。狐はどこにもいない。街中の氷は、とうの昔に溶けきってしまっている。


 もちろん、タワーの中も。悪七の氷は、冷凍保存するような棺ですらない。実際の悪七は、逆さまになって張りつけになっていた。


 赤く染まった有刺鉄線状の氷が、両足に巻きついて天井から、吊るされて、長い髪が逆さまになって揺れている。顎もだらしなく、伸びきって、顔の半分がえぐられて、剥がれた残りの皮膚が、額にかかっている。


 えぐられた目の穴から脳髄みたいな灰色のかすが、こびりついている。俺の方を見ている唯一残っていた眼球は、魂を剥奪された希有なガラス玉で、死者よりも多くのものを語ろうとして、口封じされたままだ。


 逆さまの張りつけとは、キリストの真似にしては、奇抜だし、なにより趣味も悪い。一番無気味なのは、身体は、火をつけられたように赤らんでいて、服は、凍っていて死因は凍傷のようだったのに、抵抗した形跡がまるでないこと。


 震えもせず、逆さまになっても指先はそろえられて上をむいている。悪七の氷も溶けはじめて、水が顎から、鼻へと伝っている。乱れた髪は、ばらばらと水音を立てている。カム。俺はどうすればいい。


 俺の手を握った柔らかい感触。今までカムの手は冷たい爬虫類でしかなかった。今更体温を有して弁解のつもりか。血の報酬なんてやる義理もない。お前も、幻覚とはいえ俺の最大のものを壊した。ぎゅっと握り返す感触は、人の指のそれだった。どういうつもりなのか、俺は憤ってカムに叫んだ。


「何だよ!」

「リョウ」

 悪七の声が聞こえた。振り返ってもカムしかいない。カムをまじまじと見つめていると、その白い歯茎から、はにかんだ笑い声が漏れた。まさか――。身体は、黒いままだが、指は人の指になっている。


「もう分かってるんでしょ」


 日陰から出てきたようにカムの姿が真っ黒なかたまりから、人間悪七に変わった。度肝を抜かれたと同時に、少しばかり望んでいたことが叶ってよかったと思った。

「生きてたのか」


「リョウ、そこまで馬鹿じゃないでしょ。ちゃんとリョウは俺の死体を確認してる」


 そう、悪七の死体はずっとそこに無残に揚げられた魚みたいに垂れ下がったままだ。死体は黒い髪のままだが、今カムから生まれ変わった悪七は元の栗色の髪に戻っている。


「俺はミカエリになりたかったんだよ」


 悪七そうだったのか。そもそもそうだったかもしれない。俺の頭の中で、違う、違うそうじゃないと首を振った。俺は、恐れた。悪七が本当に死んでどこか黄泉とか輪廻とか訳のわからない循環をたどるのを。命はサイクルなんかしていない。俺達は一回きりの命だからこそ、危機感を持って復讐していた。


 それなのに、悪七だけ先に死なせるわけがない。俺達は一回きりの人生を永遠に繰り返し続けたい。


「悪七、悪い。俺、少しミカエリを使ったのかもしれない。無意識に」


 うまく言葉で説明できないのが辛かった。悪七の起こした脱線事故が悪七の無意識上の願いで起きたことであるように、今の俺にも同じことが起きたに違いなかった。


「俺は悪七を救いたいって願わなかったんだ。悪七が永遠に存在することを願ったんだ」


 カム、いや悪七はいつも以上に無表情で穏やかに微笑んだ。

「俺も死ぬことは分かってたし、リョウがこう望むことも何となくわかってたよ。これからは、もうリョウは何も失うものはない。もちろん、俺も死ぬことはない」


 悪七はそう言いつつも既に人ではない超越した存在であることは、すぐに分かった。目の奥の怪しい光は血を欲するだけではなさそうだ。こいつは俺の精神だって喰いつくすかもしれない。だけど、俺はそれでもいいし、悪七がいる崩壊した世界の方が居心地がいい。


「でも、カムはどこ行ったんだろうな。死んだか」

 もうカムなんてどうでもよかった。あんなまがいもの、最初からペットでもなんでもない。


「カムは俺だよ。ミカエリの姿と中身はイコールじゃないって分かったでしょ? 今の俺もそう。ミカエリは融合する。ミカエリをたくさん集めて一つにすると、より優秀なミカエリになる。例えば、俺の狐も、もう俺と同じものになったよ」


「あれは、結局何だったんだ。見かけと中身がイコールじゃないって?」

「狐は父だよ」

「狐は生まれたときからいっしょにいるんじゃないのか」

「最初は狐だったよ。でも」


 悪七の周りにあのゲームの参加者が、ふたば、執行、朝月、川口、そしてひいらがほの暗く光りながら現れ歩み寄った。悪七の中に全て吸い込まれて消えた。悪七という上位のミカエリになってしまったのか。


「俺は父よりも、狐の方が父だと思ってたし、父の目を奪ってからは、父の恨みも買い父もミカエリになりやすい体質になったから、殺しちゃったんだ。でも学生生活とかするなら、保護者がいた方が何かと便利だし、ミカエリに父を演じさせてたんだ」


 ほんとここまでくると愉快な奴だ。家族や親戚なんていなくても好きなように生きていけるじゃないか。羨ましい限りだ。

「なあ、一つ聞いてもいいか。俺は何を払う? もう血はごめんだ。カムより話が通じそうだから助かるけどな」

「まさか、俺はリョウからは何も取らないよ」


 ミカエリになりたかったってさっき言ってたよな。

「強いて言うなら、ゲームを続けようよ。リョウは俺を永遠の存在に望んだ。ってことはつきあってくれるってことだよね?」


 俺の身体が凍り始めた。何をする気か? だが、そう考えたときには息が詰まった。俺は死ぬ。氷漬けになって死ぬ。遠くでヘリコプターが飛んでいるのが見える。なんだよ。世界は滅んでなんかいない。
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