第1話 今日の悪夢は極上

文字数 2,190文字

 骨つきのフライドチキンをコンビニで、無性に買おうと思い立ったのは夜風の肌寒さのせいではない。俺の背にはのっぴきならない忌々しいものがしがみついているからだ。

 ぶっきらぼうに店員にフライドチキンを注文する。金を払うなり包みから取り出してかぶりつく。肩にいる黒い影が俺の腕まで滑り降りる。脇腹をさすったりして、しつこくねだったとき、昨日風呂に入る前に自分の姿を鏡で見たときのことを思い出した。

 俺ときたら削り取られたように腹はやせ細り、内臓が本当に入っているのか疑わしかった。ついでに目も覗きこんだときには見慣れてはいるのに、どんよりくぐもった光沢のない漆黒の瞳に出会う。

 俺のことを何からなにまで知っているくせに。

 不快にさせられた腹いせに骨までしゃぶっていると、白い街灯に照らされて鳥肌から一本生え残っている鳥の毛が見えてむしゃくしゃした。

 毛を摘もうとしても油でべとべとになった手はたった一本の毛も上手く抜くことができない。癇癪を起こしかねないとき、まとわりつく影が鋭い切っ先でフライドチキンをえぐった。別に満足というわけでもなかった。当然だった。何かにつけて余分なものは排除したい衝動に駆られていた。これはよくあることだ。

 例えばこんなことがあった。塵とりがいっぱいだったらゴミ箱に捨てる。俺の場合それがゴミでない場合でも起こった。

 その不思議な衝動は、とにかく溢れ返っているものに対して抱く感情で、あるときは部室で買いだめにされた新品の鉛筆なんかを、見るに見かねてゴミ箱に投げ込んだ。
 それが突発的な無意識でやったことなので、すぐにゴミ箱から拾い出せばいいことだったのに、そのときはそのまますぐにゴミ袋をとじて証拠隠滅まで図った。

 あのときよりも状況は最悪だった。肩にぶつかった赤の他人を手当たりしだいに殴りたい衝動と言うのがそれに近いが、決して殴りはしなかった。

 俺の肩の影は全身真っ黒で、水に濡れたような、ぶよぶよして、黒い目玉が随分離れたウーパールーパーといったいでたちで、とても男のペットとしてはどうにもおさまりきらない可愛さときている。もっとこいつが野獣じみていたら、出会い頭の人間を次々に殴っていただろうに。

 人々には一切姿が見えないこの黒い生き物は、生き物と呼べるかも曖昧だが、カムと名づけている。というのも、こいつは、ちょっとやばい代物で、俺の飼っていた猫のカムパネルラを殺した張本人だからな。

 カムがまだちゃんと開きもしないどろどろの口を開けて俺の腕を狂おしそうに舐め回した。

「昨日喰ったばっかだろう」

 独り言のように聞こえるだけなので、小声で話しかけた。カムは子供のような手で、指は針のように尖っていてその指で幾度となく俺の腕にひっかくようなそぶりを見せる。 

 それでも、俺が無視し続けると、首まで這い上がって、うなじを何度も短い尾でなでつけた。忌々しいくも、狂おしい、ぞっとする感覚がもうやみつきになっていた。こうなると立ち止まるか、家に帰るかして人前から消え去って、この快感を自分一人のものにしたくなる。人前にいると青ざめてしまって困る。

 遠回りしようか。そう思い立って脇道へそれると、隣のクラスの男子が酔って騒いでいるのが目に入った。俺の嫌っている一人だった。そう、いつかは消してやりたいと思ってやまない男だ。彼女と酔ったままゲーセンに入ろうとしている。

 何とかして彼女から引き剥がしてやりたい衝動に駆られた。いじめられたからやり返すような単純な感情からじゃない。衝動ってのは、結局つまらないいさかいが積み重なって、糸が切れる瞬間のことを言うのだと思う。

 すでにカムが動いた。肩からそっと離れ、ふわふわと彼女の肩まで飛んでいく。彼女の肩にその手が触れた瞬間、彼女はぎょっとして全身が凍るような感覚を覚えたことだろう。そして、悲鳴を上げて逃げ帰った。

「おい、カム。姿を見せたな」

 ときどきこういう間抜けなまねをしてみせるのがカムの欠点だ。俺がイラつくと思ってわざとやっているに違いなかった。

 彼女が逃げ帰ったことで、面食らった男は彼女の後を追い、一瞬俺に目を止めて、「狩集(かりあつめ)?」と俺の名字を口にしたが、確認している暇はないとばかりに目を反らした。

 このわずか一秒たらずの視線は、激しい憎悪をかき出させた。このまま行かせない。俺を無視することなんて学校だけで十分だ。

 カムが、足を捉える。正確には影を踏んだのだ。カムに影を踏まれた人間はその場から動けない。そして、触れられた人間は寒気を催し、精神が蝕まれていく。そうだカム。
 そいつを廃人に変えろ。今日は特に怒りを込めてそう念じた。

 カムの鋭い指は男の喉に食い込んで、カムのつぶらな瞳は煌々と輝いて見える。男は口をぽっかり開けて、呻き始めた。

 今日の悪夢は極上の味だろう。わずか一瞬で人を廃人に変える力は想像を絶する。道端で声を張り上げ、頭を抱えて喘いでは、カムのいる首の後ろ辺りを自分の指でかきむしったときは最高傑作だった。

 行き交う人々は近くのパチンコ屋の音でまだ誰も気づかない。男のちょうど向かいに歩いてきた男性が異変に気づいたが、おぞましい光景を目にした男性も寒気を催した。そして、ついにもがき苦しむときは終わり、紙くずや、広告のチラシのゴミの上にどうっと倒れ込んだときには何人か悲鳴を上げた。
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