第72話 勝敗

文字数 3,994文字

 少なくとも零士は、針の雨がやんだことだけありがたく思った。針を全部抜いている暇はないし、指もそこまで器用じゃない。


 何やらリョウは殺せ殺せとカムに命じているが、カムは白い歯を見せているだけだった。


「カム、俺達は生き残るんだ。何が何でも。だから、少しは協力しろ。俺達のことは世間に知られる。ミカエリのことも追い追い知られるに決まってる。


 だけどな、それよりも早く、今日が最初で最後の戦線で俺達が負けるわけにはいかない。ああ、そうだ。俺だってみんな憎いんだ。無差別にじゃない。みんながみんな憎い人間と重なって見えるんだ」


 大方、腕や頭の針を抜いた零士は一息ついた。背中までは手が届かなかった。膝関節も、恐る恐る抜いていった。

「独り言の多いやっちゃな」


 真奈美は真奈美で自分の顔のパーツを集め終えて、零士の隣に歩み寄り、零士の背中の針を抜いていった。気がきくというか、何がミカエリに求められるのかと不思議に思いながら、真奈美に任せていると、リョウがせかせかとがれきを蹴散らして歩いてきた。ときどきふらりとよろけているが、大声を出す。


「これから悪七より醜悪なゲームをする」

 リョウが、輸血をしていない方の腕を一本横に突き出した。手の甲から力みすぎて血管が浮き上がっている。


 リョウの真横に控えたカムが縦に伸び、腕にまとわりついた。リョウのつんざく叫び。ぎゅりゅぎゅると、ローラーカッターにまきこまれたかのように、カムが離れたリョウの腕は骨もやたらめったら砕けて肉から突出し、皮膚はずり落ちかろうじて筋らしきものが残るだけだ。


 顔面蒼白にしながら、眼を見開く。口元は痛みで歪む、あえぐを繰り返す。時折ひきつり浮かぶ笑み。腕を抑えて、よろけて膝をつくリョウが見えたときには、視界は赤く霞んだ。


「自分の腕犠牲にしよって」


 苦々しくつぶやいたときには、リョウの姿は完全に赤い霧に消えた。血でできた霧とでもいうのか、足元の雪と赤の空のコントラストがまさに、尋常じゃない空気を生み出している。ここが今日まで夏の終わりの日本だったのかと疑う。


「真奈美?」

 真奈美の姿も見えなくなった。存在は確かに感じるが、どこにいるのか見当がつかない。それに、息をすると口の中で血の味が広がる。軽く目をこすると、赤黒い血が爪の隙間にこびりついた。


 次第に、零士は胸焼けするような怒りを覚えた。なんだというのか、今まで感じたことのない胸くその悪さだ。だれかにたった今罵倒されたような気分だ。霧の向こうでリョウの声がかすかに聞こえる。耳も悪くなったのか、それともこの血の霧が隔てているのか。


「カムは狂気を司るミカエリだ。触れた相手を狂わせる」

 じゃあ、もう狂気に飲み込まれたということか。血を空気中にまいて、それを介して触れたということになる。

「ほとんどチートってやつやないか」


 狂気の映像でも流れ込んでくるのかと思ったら、もっとたちが悪い。眼前には赤い霧しか見えないのに、胸の動悸が高鳴って苛々とする感情を覚える。誰かが憎い。


 その誰が憎いのかは、分からないが、とにかく俺は誰かを憎んでいる。周りに誰もいないことがなお、この苛立ちを増大させる。


「俺は、誰かを殺したいんやろか」


 自分の言葉なのか、正確には分からなかった。そもそも、なぜ、こんなところで一人でいるのだろうか。俺は誰かを憎んでいて、そいつらをめった刺しにしたい。


 ただ、この感情は誰もが持っている強烈な思いのはずだった。頭では分かっている。だが、俺は今それを実行に移したくてうずうずしている。


 ふと、誰ともつかぬ声が聞こえた。

「俺はいつも、どんなに成績優秀でも虐げられたような目で見られてきた。羨望なんて無縁だった。誰かを殺したい。それは、俺を馬鹿にしている人間全てだ。


 お前らは、虐げられたことのない連中には、怒りってのが足りないんだ。だから分けてやったんだよ。お前が勝てるか見ててやる」


 思い出した。リョウの声だ。今何をすべきか忘れかけていた。リョウの声を耳に焼きつけた。だが、鼻をつく血の臭いが、余計なことを連想される。


 今日、氷漬けにされて腕が砕けた人。血。リョウの血。輸血、まだ、刺さって抜けない多数の針。背中がじくじくと霧に沁みて痛い。


 顔、人の顔。通信学校の友達の顔。いや、あれはそもそも自分の友達だろうか。だって、あれは生前の零士の友達じゃないのか? あいつらは、すんなり俺を受け入れたが、腹の底では別人だと疑っていないか? いや、違う。あれは生まれ変わってから作った新しい友達だ。


 うちは一体誰なんや。

 鼻から血の臭いが充満して、悲しくなってきた。今度は悲しい! 俺は悲しいんや。生きていることが虚しい。新しい人生? いや、生前の零士の殻から抜けられない。


 別人だと説明もできないし、証明もできない。この容姿は借り物。うちはうちであって、零士やない。きっとほかの名前があるはずや。


「少しは受け入れたらどうなんだよ。俺はこの感情をすべての人間に知らしめてやりたい。味わったことのある人間もいるだろうけど、大半がへらへら笑ってごまかすんだ」


 怒りとは、無縁だったはずがぼんやりと凝らしていた目に、たまってきたのは怒りだった。見えない一点を睨んでいる。怒ることはあったが、憎むことはなかった。


 俺には誰もが許せた。ライでさえ、間違っていることを止めることができたら許したかった。ライなんてどうでもええ。あいつは、うちを零士やない言うとる。その通りや。うちは、誰なんかわからへん。


 そんなん、墓場から無理やり連れてこられただけや。うちは母親からも生まれてへんねや、よく考えたら。


 ぽつりぽつりと、人が歩いてくる。顔はない。黒い影。明らかな幻覚だと自分でも納得ができるほどの空間演出。このままここから出られないことを考えると余計に腹が煮えくり返る思いだった。ここから出るためなら何でもする。


 影が操り人形みたいに滑稽に歩いてくる。あいつらを殺したる。手のひらに冷たい感触がある。見るとナイフを握っている。これも幻覚だろうか。


 思えば、先ほどから、全身に刺さったままの針も消えたように思う。足取りも軽い。影にあっという間に対峙する。


 顔は渦を巻いている。宇宙のようにぽっかり空いた顔。ここに好きな人間の顔を当てはめて殺すことを考えろというのか。不思議と、そうしていた。まず、浮かんだのは不思議と真奈美の顔だった。


「ちゃう。真奈美やない」

 真奈美は重荷や。脳裏でこだまする自分の声。

「ちゃう。真奈美は妹や」

「生前の零士のや」


 どちらも自分の声だったことに、息が詰まった。殺せと叫ぶ。自分の声。影が真奈美の顔になる。やめいと叫ぶ自分もいた。どちらが自分で、どちらも自分。


 ナイフは真奈美の顔を裂いた。続いて、ほかの影が塾の友達の顔になる。斬る。裂く。なぎ倒す。全てかき消えた。夢。夢か。


 霧が収まった。足元にナイフが転がっていた。血がついている。幻覚はまだ続いているのか?

 リョウの高笑いが聞こえた。空は重い雲が流れている。赤い世界は終わった。


「誰を殺したんだ? 零士」

「誰って」

 真奈美が横たわっている。そんなばかな。幻覚だって、あれは幻覚だと自分でも分かっていた。


 笑い声を押し殺してリョウが立ち上がった。カムでミキサーにされた腕は服で縛ってある。


「一番の醜悪なゲームって、俺が思うにたぶん、ゲームだと思ってたこどが、ゲームじゃなかったときじゃないか? こんな簡単で分かりやすかったゲームなのに、ダメだな、お前。見ろよ。お前だって人を殺せる。てめえも、自分の生い立ちや、世界が憎いんだ」


 真奈美は額から血を流している。なんで? 真奈美はミカエリじゃないのか? ミカエリに血なんかない。真奈美は死ぬわけがない。ミカエリは死ぬのではなく消える。


 指が動いた。まだ、息がある。額の血をそっとぬぐう。手に痛みが走った。幻覚が解けて全身の針の痛みが戻ってきた。いや、針は消えている。いつ自分で抜いたんだろうか。


「殺し損ねたのかよ」


 リョウもあまり動けない状態らしい。真奈美に頼るのはもうやめだ。こうなったら、自分の手でけりをつける、

「あんさん、うちを本気にさせたで。あんさん、ミカエリ使えてないやないか。腕一本でわずか数分の幻覚て、腕切り落とすぐらいの根性見せてーや」


 リョウの顔が憤怒で歪む。だが、何か言い返そうと大きく口を開いて、思い当たって口をつぐんだ。


 ミカエリは本人の望む通りにしか動かない。少しでもためらったり、自分の意思が揺らぐとミカエリは言うことを聞かないし、本人の望む通りにしか結果に反映されない。


 リョウは覆った腕をほどきはじめる。まだ出血の止まらない腕からだらだらと血が落ちる。

「やめとき、今さら斬り落としても、うちも拾ってくっつけたる気あらへんから」


 リョウの腕を蹴り倒した。あっけなくリョウは倒れて、馬鹿みたいに泣き叫ぶ。


「患者は病院でも行っとけや」

 輸血パックを踏みつぶす。散々な目にあったリョウは、あえぎながら上体を起こして、カムに殺せと叫ぶ。

「あげる血なんてもうあらへんやろ」


 一発顔面を殴ると、あっけなくリョウは伸びてしまった。カムが恨めしそうにこちらを見ている。

「エサはご主人様が完治してからやろなぁ。まあ、いうても、もう食べられへんわ」


 カムの黒い身体を拳で貫いた。不思議とそうしていた。カムは二股の尾をだらしと垂らした。


 カムの離れていた目が珍しく中心に寄る。人型の口がだらだらと開いたと思ったら呪縛でもかけるように早口に呪いともつかぬ言葉をまくしたてたが、声にはならずシューシュー泡立つような音を立てただけだった。


 歯がぼろぼろと落ち、どろどろの身体が、水たまりになって溶けていく。リョウの目覚めるときには、もうカムはいない。

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