第42話 感情
文字数 3,247文字
「君は友達かペットみたいに側にいるけど君だってそいつの危険性を知ってる。つまり何か悪いことに使ったことがあるはずなんだ」
「違う。私はフーに悪いことはさせない。偽善だったことは今日初めて気づいたけどそれでも人を救いたかった。だけどあなたは・・・・・・」
「悪を知った上で悪をなすって感じかな。君は自分の中を直視できる? 俺はできるよ。ねえ君は? 人は悪を意識するとみんな生きていられないはずなんだ。なのにみんな生きている。それが可能なのは直視しないからだよ。俺は直視してる。そして、それと共存してる」
誰だって人間である限り悪の部分はある。でも、それを故意に表に出そうとして何になるのだろう。
「あなたは間違ってる。だって、あなたは人を殺した」
「それは何を基準に間違ってるなんて簡単に言うの。基準なんて社会の規範とか、そういった他人の受け売りでしかない。自分って意志がない。
生まれたときから周囲に散らばるルールに縛られてる。もちろんルールなしじゃ社会が壊れるから。でも壊れる壊れないって意識させるのも社会だから。結局はそういうものに捕らわれてる」
「だとしても、人としてはどうなの?」
私が言いたかったのは痛みのことだ。心のことだ。この人はただ狂ったとかそういった類を演じようとしているのではないという危機感が私の声を張り上がらせる。
「俺の場合は醜く生きることを選んだんだ。ただ誤解がないように補足すると悪を直視することは罪を意識するってことと違うから」
この人は悪意を振りかざす生き方を選んでしまったんだ。そこまでして生に固執する人は見たことがない。
でもこの人の冷えきった目を見ていると口元は優しく微笑みかけているのに、何か欠けているといった感じで、とても必死には見えない。よく闘病生活の果てに自身の生き方を変える人がいるが、それは有限を学ぶからだ。
だけど、この人は限りがあることを知りながら、他人の生の時間を早めてしまう。そして自分は白い仮面でも被った顔をしている。考えすぎだろうか。本質のことを語るときでさえ、「笑い」しかない。この殺人鬼は悲しみでさえ笑いですますのだろうか。仮面の下はきっと笑みなんてないはずだ。死人と同じなんだ。
「かわいそうな人」
少しも驚いたそぶりは見せず心外だという非難の眼差しが返った。
「確かに幸せじゃないけどそれが不幸ってことにはならない。不幸に見られるのは間違いで、ここにあるのは静寂だけ。鼓動は何かに揺らめいてリズムを乱すことがないってこと」
自分のことですら他人扱いをしている悪七は二重人格というわけではないが、一人の身体で二人分の意識が内在しているみたいだった。虚しい胸が痛み出して、次第に私の声は肩から震えた。
「あなたって心から笑ったことあるの?」
呆れた顔で悪七は吐息を吐いたが、冗談は聞きたくないといった顔で、二歩ほど横に歩いた。
「誰でもあるよ。人間なんだからさ。もしかして、今のは作り笑いかって? 俺が微笑むのは君達の浅ましさに会釈してるからだよ。いい加減、愚問はやめたらどうかな。まあ、俺も喋りすぎたから、今度は黙って君の意見を聞こうか」
人をどこまでも馬鹿にして、やっぱり愉快犯の域を出ない。こんなやつがミカエリなんて持っているからいけないんだ。
フーに目くばせをした。フーでどうにかなるか分からないが相手は今無防備だ。といってもミカエリが見えないだけでどこかにいる。フーもさすがに警戒して、なかなか動かない。
「いつものあれよ」
得意の吸引で、フーは大きく息を吸う。狙うはナイフだ。だが、ナイフより先に氷の針が山ほど飛んできた。
フーはハリセンボンみたいになって、もちろんこっちも針だらけになった。あちこちから糸のように血が流れる。フーは血が出なかったが、割れなかったのが奇跡で、浮いているのがやっとというように丸い顔を歪めている。
「来ないの?」
もっと楽しませてよという響きがあった。
思い切って飛び出す。その瞬間、視界が冷気と閉ざされた。氷の壁だ。天井まで届く。厚さも水族館のアクリル板みたいになって、フーが半分氷づけになった。
「フー!」
ミカエリが死ぬのか分からないが、フーは目を閉じて動かない。口にあたる部分は完全に氷に埋まっている。
「ミカエリはミカエリで殺せるんだ。まあ小型だから元々、寿命百年は厳しかったんじゃないかな」
氷の壁が砕けた。フーも一緒に。血の変わりに白い砂みたいになってかき消えた。空気に溶けてしまった。あっけなかった。突然のことで涙も出ない。
悪七がゆっくりと近づいてくる。距離はなくなった。私も逃げなかった。フーもいなくなった。私はフーのことをペットみたいに思ってたのかな。友達? 何だったんだろう。私はフーをものみたいに扱っていただけなのかも。
悪七は私が涙目になっても、決して零れ落ちない雫に興味を持ってほころびそうになる口元から笑みを消した。それから何やら考えごとをして目を細める。どこまでもふざけている。
これからどう料理しようかと思案する悪人面ならいくらでも罵倒してやるのに澄みきった空を写すかの瞳で、ものごとは全て儚いとでも言わんばかりの静かなため息でもって馬鹿にするから、私の怒りは今にも対象を失って爆発しそうだ。
「笑ってみなさいよ! できない? ちゃんと心ってのを使いなさいよ! 理屈ばっかで人は生きられないんだからね! あなたは寂しい殺人鬼よ! 醜く生きるのも結構だけどね。生きるなら最低限笑ったり泣いたりできる心を握っときなさい」
悪七の蔑む視線が私を射抜いた。その刹那、今のはなかったことにしてねという、退屈そうな声を出した。
「汗臭い感情は嫌いなんだ。だから君みたいに訴えられると疲れるよ。でも、それは君が悪いんじゃないよ。君の考えは『普通』の考え方だし、『普通』の責め方だから。間違いじゃない」
何なのこいつ。どこまでも馬鹿にして、悔しさでついに涙は落ちた。それもただ悔しかったからじゃない。この殺人鬼は馴れ馴れしくもそっと、肩に腕を回してきた。
「そうそう、まるで俺は無感情の殺人マシンみたいな話になってるけど、俺は感情を押し殺しはしないし感じないわけでもない。
今こうして君を殺す瞬間なんかは快楽だしね。自分を理想の自分まで高めているときのカタルシスは何度舐めても甘美だよ」
殺されるという感覚はあったがそこに恐怖は感じないつもりだった。全てが仕組まれている恋人同士みたいに抱きとめられた。
振りほどこうとした瞬間背中に痛みが突き上がる。背中から突き刺されたナイフが熱く胸まで血潮を押し上げる。そっと唇に重なる味気ない唇。余計に息が苦しい。死の恐怖よりも、耐え難い羞恥を感じる。
悪七の顔はヤマに戻っていた。彼のミカエリがそうさせたのかもしれない。その荒れた肌を見ていると、まだ残る軟らかい感触が急にざらざらしたものに変わった。
こういうつまらない手法でもって人を辱しめるんだ。痛みとともに視界が霞むにつれ鳴りやまない自分の脈を呪った。目と鼻の先の男は世界でただ一人、自分一人しか愛していないくせに偽りの優しさを笑顔で振りまく。倒れかかっているのだから離してくれたらあっさり死ねるのに。
お母さんやお父さんのことを考える余裕もない。血。私の血ばかり。ヤマの顔ばかり。無力の二文字が浮かんだら消えていった。断片的な考え。ふと春の遠足のことなんて浮かんだけれど、なかったことのように部屋の蛍光灯が私の顔を照らす。
意外にも死にたどり着くまでの時間は長く心の隅で今か今かと身構えている。だから口から血を吐いたときだって苦しみを除けば当然の事象だった。だけど私は残った刹那叫び声を上げようとして動かない唇が嗚咽だけ上げる。
重い瞼が最後に拾った残像。ヤマから悪七に戻り、君みたいなくだらない女とこの俺がかりそめの茶番を演じてやったという傲慢な笑み。悔しさも悲しみも絶望も瞼が落ちて深淵に沈んだ。
「違う。私はフーに悪いことはさせない。偽善だったことは今日初めて気づいたけどそれでも人を救いたかった。だけどあなたは・・・・・・」
「悪を知った上で悪をなすって感じかな。君は自分の中を直視できる? 俺はできるよ。ねえ君は? 人は悪を意識するとみんな生きていられないはずなんだ。なのにみんな生きている。それが可能なのは直視しないからだよ。俺は直視してる。そして、それと共存してる」
誰だって人間である限り悪の部分はある。でも、それを故意に表に出そうとして何になるのだろう。
「あなたは間違ってる。だって、あなたは人を殺した」
「それは何を基準に間違ってるなんて簡単に言うの。基準なんて社会の規範とか、そういった他人の受け売りでしかない。自分って意志がない。
生まれたときから周囲に散らばるルールに縛られてる。もちろんルールなしじゃ社会が壊れるから。でも壊れる壊れないって意識させるのも社会だから。結局はそういうものに捕らわれてる」
「だとしても、人としてはどうなの?」
私が言いたかったのは痛みのことだ。心のことだ。この人はただ狂ったとかそういった類を演じようとしているのではないという危機感が私の声を張り上がらせる。
「俺の場合は醜く生きることを選んだんだ。ただ誤解がないように補足すると悪を直視することは罪を意識するってことと違うから」
この人は悪意を振りかざす生き方を選んでしまったんだ。そこまでして生に固執する人は見たことがない。
でもこの人の冷えきった目を見ていると口元は優しく微笑みかけているのに、何か欠けているといった感じで、とても必死には見えない。よく闘病生活の果てに自身の生き方を変える人がいるが、それは有限を学ぶからだ。
だけど、この人は限りがあることを知りながら、他人の生の時間を早めてしまう。そして自分は白い仮面でも被った顔をしている。考えすぎだろうか。本質のことを語るときでさえ、「笑い」しかない。この殺人鬼は悲しみでさえ笑いですますのだろうか。仮面の下はきっと笑みなんてないはずだ。死人と同じなんだ。
「かわいそうな人」
少しも驚いたそぶりは見せず心外だという非難の眼差しが返った。
「確かに幸せじゃないけどそれが不幸ってことにはならない。不幸に見られるのは間違いで、ここにあるのは静寂だけ。鼓動は何かに揺らめいてリズムを乱すことがないってこと」
自分のことですら他人扱いをしている悪七は二重人格というわけではないが、一人の身体で二人分の意識が内在しているみたいだった。虚しい胸が痛み出して、次第に私の声は肩から震えた。
「あなたって心から笑ったことあるの?」
呆れた顔で悪七は吐息を吐いたが、冗談は聞きたくないといった顔で、二歩ほど横に歩いた。
「誰でもあるよ。人間なんだからさ。もしかして、今のは作り笑いかって? 俺が微笑むのは君達の浅ましさに会釈してるからだよ。いい加減、愚問はやめたらどうかな。まあ、俺も喋りすぎたから、今度は黙って君の意見を聞こうか」
人をどこまでも馬鹿にして、やっぱり愉快犯の域を出ない。こんなやつがミカエリなんて持っているからいけないんだ。
フーに目くばせをした。フーでどうにかなるか分からないが相手は今無防備だ。といってもミカエリが見えないだけでどこかにいる。フーもさすがに警戒して、なかなか動かない。
「いつものあれよ」
得意の吸引で、フーは大きく息を吸う。狙うはナイフだ。だが、ナイフより先に氷の針が山ほど飛んできた。
フーはハリセンボンみたいになって、もちろんこっちも針だらけになった。あちこちから糸のように血が流れる。フーは血が出なかったが、割れなかったのが奇跡で、浮いているのがやっとというように丸い顔を歪めている。
「来ないの?」
もっと楽しませてよという響きがあった。
思い切って飛び出す。その瞬間、視界が冷気と閉ざされた。氷の壁だ。天井まで届く。厚さも水族館のアクリル板みたいになって、フーが半分氷づけになった。
「フー!」
ミカエリが死ぬのか分からないが、フーは目を閉じて動かない。口にあたる部分は完全に氷に埋まっている。
「ミカエリはミカエリで殺せるんだ。まあ小型だから元々、寿命百年は厳しかったんじゃないかな」
氷の壁が砕けた。フーも一緒に。血の変わりに白い砂みたいになってかき消えた。空気に溶けてしまった。あっけなかった。突然のことで涙も出ない。
悪七がゆっくりと近づいてくる。距離はなくなった。私も逃げなかった。フーもいなくなった。私はフーのことをペットみたいに思ってたのかな。友達? 何だったんだろう。私はフーをものみたいに扱っていただけなのかも。
悪七は私が涙目になっても、決して零れ落ちない雫に興味を持ってほころびそうになる口元から笑みを消した。それから何やら考えごとをして目を細める。どこまでもふざけている。
これからどう料理しようかと思案する悪人面ならいくらでも罵倒してやるのに澄みきった空を写すかの瞳で、ものごとは全て儚いとでも言わんばかりの静かなため息でもって馬鹿にするから、私の怒りは今にも対象を失って爆発しそうだ。
「笑ってみなさいよ! できない? ちゃんと心ってのを使いなさいよ! 理屈ばっかで人は生きられないんだからね! あなたは寂しい殺人鬼よ! 醜く生きるのも結構だけどね。生きるなら最低限笑ったり泣いたりできる心を握っときなさい」
悪七の蔑む視線が私を射抜いた。その刹那、今のはなかったことにしてねという、退屈そうな声を出した。
「汗臭い感情は嫌いなんだ。だから君みたいに訴えられると疲れるよ。でも、それは君が悪いんじゃないよ。君の考えは『普通』の考え方だし、『普通』の責め方だから。間違いじゃない」
何なのこいつ。どこまでも馬鹿にして、悔しさでついに涙は落ちた。それもただ悔しかったからじゃない。この殺人鬼は馴れ馴れしくもそっと、肩に腕を回してきた。
「そうそう、まるで俺は無感情の殺人マシンみたいな話になってるけど、俺は感情を押し殺しはしないし感じないわけでもない。
今こうして君を殺す瞬間なんかは快楽だしね。自分を理想の自分まで高めているときのカタルシスは何度舐めても甘美だよ」
殺されるという感覚はあったがそこに恐怖は感じないつもりだった。全てが仕組まれている恋人同士みたいに抱きとめられた。
振りほどこうとした瞬間背中に痛みが突き上がる。背中から突き刺されたナイフが熱く胸まで血潮を押し上げる。そっと唇に重なる味気ない唇。余計に息が苦しい。死の恐怖よりも、耐え難い羞恥を感じる。
悪七の顔はヤマに戻っていた。彼のミカエリがそうさせたのかもしれない。その荒れた肌を見ていると、まだ残る軟らかい感触が急にざらざらしたものに変わった。
こういうつまらない手法でもって人を辱しめるんだ。痛みとともに視界が霞むにつれ鳴りやまない自分の脈を呪った。目と鼻の先の男は世界でただ一人、自分一人しか愛していないくせに偽りの優しさを笑顔で振りまく。倒れかかっているのだから離してくれたらあっさり死ねるのに。
お母さんやお父さんのことを考える余裕もない。血。私の血ばかり。ヤマの顔ばかり。無力の二文字が浮かんだら消えていった。断片的な考え。ふと春の遠足のことなんて浮かんだけれど、なかったことのように部屋の蛍光灯が私の顔を照らす。
意外にも死にたどり着くまでの時間は長く心の隅で今か今かと身構えている。だから口から血を吐いたときだって苦しみを除けば当然の事象だった。だけど私は残った刹那叫び声を上げようとして動かない唇が嗚咽だけ上げる。
重い瞼が最後に拾った残像。ヤマから悪七に戻り、君みたいなくだらない女とこの俺がかりそめの茶番を演じてやったという傲慢な笑み。悔しさも悲しみも絶望も瞼が落ちて深淵に沈んだ。