第39話 君の主観から見た世界は

文字数 2,887文字

 目が覚めたとき、倦怠感とまた朝が始まったのかという絶望感に襲われた。ところがいつもとは違う、冷え冷えとした空気と、埃っぽい臭いがここは家のベッドではないことを告げている。


 この感覚はそういえば、今日、二回目だと思い当たって、ゲームの記憶を紐解いた。確かに押しつぶされた瞬間、目をつぶった。


 現在の視界は暗闇一色で、床の冷たさとこっぴどくやられた顔や腹が痛んでいる。言うなれば、また死を逃れた。べっとりしたものが頭から背中まで染みついていて、トマトかスイカの生臭い臭いもしていた。


 かすかに光が漏れてきたとき、はじめて自分の手についているものに気づいた。剣山で切れた血に混じっているが、自分の血とは別の血糊が全身にこびりついている。死んだと思ったのは、自分だけでなく、これでは、はたから見ても死んだと思われただろう。


 それよりも気がかりなのは、何より死んでいないこと。いつもなら、幾らかその事実が辛い。死ぬことばかり夢見るくせに、実際に死ぬには色々な手順を踏まなければならなくて、それを考えるのも億劫で、結局手つかずのままはびこって。


 それが更に自己嫌悪になって襲うものだが、今は状況把握に努めた。僕はまだ生きていて、殺人ゲームから抜け出せているのか、いないのか。かすかな光は天井から四角い線になって漏れている。


 天井に扉がある。立ち上がろうとして、膝の打撲に気づいた。プレスされると同時に床が開いてここに落とされたらしい。


 近くに人の気配を感じた。姿は見えないが冷ややかな視線を感じる。監視カメラではない。息を潜めて身構えたが、一向に相手は姿を見せようとしない。ずっとこちらを窺っているのは間違いない。次第に暗闇に自分の全身も溶け込んでしまう錯覚に襲われる。


 思い切って話しかけてみようかと思った。虫かごに入れた昆虫をじっと観察するときは、みんな黙ったままのはずだ。そういう静かな視線を感じて、ほぼ確信が持てた。どんな相手なのか分からないが、こんな自分でも罵ることができるところを見せておこう。


「君って害虫だ。観てるんだろ」

 呼びかけに応じたのは少年の声。聞き覚えはなかった。

「そこまで卑しい存在だとしても俺は生きていたいと思うよ。川口くん。君みたいに死にたいなんて思ったことはないしね」


 僕を皮肉るように平然と語られた。

「僕は他人を殺すぐらいなら自ら死を選ぶ」


 かっこつけるつもりはなく、ただ本音を言っただけだが、犯人にはそれで十分伝わった。


「それは優しさのつもり? それとも寛大さ? 死ねないよ。その程度じゃ。それ消去法でしょ。この世に居られないから、他人と暮らせないから君達は居場所を変える。まあ死後なんてどうなるか分からないけどね」


 よく通る説得力のある声で、とても猟奇的な殺人者とは思えない好人物の印象を受けたから、自分が言い出したことなのに赤面しそうになる。だが、やっていることが間違っているのはそっちだ。口では幾らでも言える。


「恥ずかしくないの、みんな必死で生きようとしてる人を君は殺す。例えそれが死の恐怖のせいだとしても、君がもてあそんでいいはずがない。神にでもなったつもりなの?」

「まさか。そこまで思い上がってないよ」


「でも実際は、ただの愉快犯と言われて死刑になって終わりだ」

 決して学のない人間ではないはずだから、そのくらいのこと分かるだろうと思う。


「いいんだよ。無益なことに思えるけど有益だからさ」

「そんなの何も残らないよ」


 僕がこれほど必死に何かを訴えたのは随分久しい気がする。こんな奴と話すことになるなんて思いもよらなかった。不思議なのは、唐突な会話がお互いに理解し合えるということ。


 しかし、彼は自殺志願者ではない。彼は死を望んでいないし、生も望んでいない。自分自身でさえ、チェスの駒として扱っている人間なのかもしれない。じゃあそのチェスをつまむ指は彼のどこにあるのだろうか。


「じゃあ、俺からも聞くけど、君は何を残したの?」

 何かを残して消え入ることができることこそ最高だろう。でも、僕にはまだその大切な何かは見つからない。ふと思い浮かんだのは――。

「あの人」


 善見ひいら。誰かを守りたいとか考えたことはないが、僕の濁った声がはじめて自信を持って響いた瞬間だった。この少年には疎ましい雑音に聞こえたかもしれない。光に反射してナイフが一歩、近づいてきた。


「顔ぐらい見せてから殺したら」


 ナイフの光が絶えて、近づいて来た少年の腕が天井の光に当たる。そして首から顔に順に光が映る。そして知っている顔が見えた。

「まさか、そんな。君だったなんて」


 声を変えられるのか。はたまた顔だって本物かどうか怪しい。とても穏やかな表情を浮かべて、少し物憂げに見えるその道化っぷりときたら言葉に詰まるほどだ。


 少年のナイフが喉元に当てられる。すぐにはかき切ろうとしない。何を待つ必要がある。不毛な会話を期待しているのだろうか。こんな奴には唾だって吐きかけるべきなのだろうけど、そういう気力はない。


 ただ少し、自分の寿命が早まったことに残念賞をあげたい。頬を熱い涙が伝う。こんなにも熱いとは思わなかった。


「君は通らなかった? 自分の居場所が地獄だと認めた時、人は死にたくなるよ。こんなゲームをはじめようと思うきっかけがあったときに」


 親にだってこんな台詞は言えるものじゃない。ましてこんな奴に。暗闇が匿名性を増して、擬似的に掲示板上を彷彿させた。ネット上での生活がこんなところにまでシフトして、お互いに何も知らないからこそ話せてしまうこともある。


「俺はそんな自問自答しないよ。客観的に見ると世界は世界だから。大地は俺が滅んだ後も存在し続ける。


 コンクリートで舗装して高層ビルが建ち並び、サラリーマンが通勤する風景が未来に失われたとしても。移り変わるのも世界だよ。だから居場所なんて固執するものじゃない」


 小難しい奴だと思ったが、本当によく話を理解してくれる。いつしか、喉元にある恐怖も薄れ、こういう形でなければもっとじっくり話し合いたいと思った。


「それじゃあ君の主観から見た世界は?」

 それには答えることなく、ナイフが喉に突きたてられる。喉を滑って裂いていく。脈が聞こえる。たくさん零れ落ちる。


 噴き出すことはなく、だらだらとだらしなく服を伝う。ボダンやベルトの部分でせき止められる。それが溢れる――なんて一連のことを観察して、自分の身に起きているだるい浮遊感が、やんわりと死ぬのか、なんて考えさせた。


 過去の後悔や優しい友達のことを一人ずつ思い起こそうとしたときには融通のきかない身体が前に倒れる。犯人の服にもべっとりとペンキよろしく血がついた。


 少年は抱きとめるでもなく、もたれかかる僕を鬱陶しそうに眺めて僕の髪を引っつかむ。視界が霞んで表情はもう窺えない。


 穴の開いた喉から漏れる自分の息が、隙間風の音を出す。不思議なことに鮮烈な痛みとともに眼前に思い描いたのは、善見ひいら。こいつの魔の手が善見ひいらにも届く――。そう思うと、僕はここで死ぬことを少し残念に思う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み