第63話 電話
文字数 2,294文字
真奈美はそれ以上先を見せなかった。顔のパズルが順に剥がれていく。肝心なところを見せないのがミカエリのやり方だ。
「ええ加減にしてほしいわ。自力で探すわ」
さっきの少年の飛び降りた橋なら見たことがある。今ならまだ間に合うかもしれない。
橋には人だかりも何もなかった。数人が携帯で救急車に通報していたが、ただそれだけでこんな暗い川を誰が血眼になって探せるだろうか。
「俺が行くしかあらへんな」
真奈美の顔のパズルが再び完成を目指して回り始めた。
「ええって。自力で探すから」
そう言って零士は飛び込む準備をはじめたが、真奈美の唇が完成し、音声アナウンスのように感情のない声で呟いた。
「もう手遅れ。死んでる」
「ほんま、勘弁してーや。どこらへんで死んでんねんな」
「もう流されて枝に引っかかってる」
「溺れたんかいな」
それ以上真奈美は話さない。確かにいつもより情報を多く聞き過ぎた。
脱ぎかけた服をきちんと着なおして、靴ひもを結び直して真奈美を見上げると、完成した、真奈美の顔が優しく微笑みかけていた。
「なんや。いらんことはできたら言わんといてーや」
代償タイムだ。嫌でも聞いておかなければならない。しかも、こういうときに限って優しい、人間の、それこそ本物の真奈美の感情を持って語りかけてくる。声も音声アナウンスから本人のそれに変わる。
「お兄ちゃんは何でそんなに頑張り屋さんなの」
「おだてたって何も出ーへんで」
真奈美は川面を見下ろして、橋の手すりに腕を乗せる。
「お兄ちゃんがいてくれなかったらあのとき私、死んでたよ」
脱線事故のことだ。真奈美の顔に炎がちらつく。ミカエリの中に真奈美がいたとしたら、真奈美はこの脱線事故の記憶を何度も眼前にちらつかされていることになる。そんなことってあるのだろうか。
「なあ、真奈美、俺は零士やけど、零士やあらへんで。前も言ったけどな。ただ、それはお前には謝らなあかんとずっと思ってる。
ライなんかはどうだってええけど、お前にだけは謝らなあかんねんよな。ほんま、こんなん言ってても上辺だけでしゃーないんやけど」
言葉尻が濁ってしまって、靴ひもが立て結びになってしまった。まあええけど。
真奈美が泣いている。ミカエリの見せる演技なのか、本物の涙なのか。
「お兄ちゃん、そんな顔しないで。逆転しちゃったね。ずっとお兄ちゃんがいなくて寂しかったけど、今はお兄ちゃんが生きてる。お兄ちゃんの第二の人生だから」
零士は自分がどんなしわを寄せているのか分からなかった。誰かが呼んだ救急車がようやく到着してもその音に気づかなかった。
翌日ニュースにもなった投身自殺。ところが、自殺というのは零士の思い込みだった。少年は溺死ではなく刺し傷が致命傷だった。少年の携帯電話は水没して通信記録は分からない。
所持品の中から遺書らしき紙も発見されたが、こちらも水でかなり解析が難しいらしい。だが、警察は他殺の可能性で捜査を進めているという。
「橋から飛び降りた後に刺されてんねんよな。あんなんできんのはやっぱライしかおらんわな」
ライの屋敷の場所は知っているが、おそらくライは一人暮らしだろう。ライのお袋さんが厄介なのは零士も知っている。
ライの友達というだけで誕生日にバレンタインチョコ顔負けのでかいハート型のチョコを送りつけてくる。ライだって逃げたくなるだろう。それに、ライはいくつも事件を起こしているから必ずいつでも逃げられる準備をしているだろう。
食器を洗っていると祖母が、突然ダンボールいっぱいの箱を運んできた。
「なんや。重そうやん。置いときや」
「あんたのんやんか。捨てんと置いてたんやけど。埃はかぶってるわ、整理もできんとそのまんまなんやで」
そこでおいおい涙ぐまれたので、零士は水道を止めて、ダンボールを部屋に運んだ。ゆっくり見たらいいと言われたが、どれが何なのか鮮明に覚えていた。標本。星座の図鑑。地球儀。田舎の裏山で拾った花崗岩。アリの巣観察セット。アンモナイトの化石。掘り進めるとざくざく出てくる宝の山だ。
合間に自由研究ノート。といってもほとんど日記みたいなもので、きれいやった。ほんますごいとか感嘆ばかり書き込んでいる。
手帳が出てきた。住所録も載っている。今更誰に電話しようとも思わなかったが、ライにかけてみたくなった。出るか出ないか。
携帯電話の番号ほど信用できないものはない。二年前の番号だし、用意周到なライが電話番号を変えていないわけがない。
それでもかけてみたくなるのは、親友の絆の強さを試してみたくなったからかもしれない。ただ、朝はいけないと思った。ライは表向きは優等生だから学校でまじめな顔して過ごしているはずだ。零士は夜間の学校なので一日休むことにした。
繋がるかどうかもわからない電話をかけるために学校を休んだことで、零士は自分が生前の零士もこうしたであろうことに思い当って驚いた。
ライが真奈美を殺していなかったら、ライと親友になれたかもしれない。今でこそ天体観測に興味はないが、ライなら何を誘ってもついてくるだろう。
「でもあんなやつやで」
電話番号を押しながら零士はぶつくさ言った。真奈美は砂利の上に佇んでいる。電話をかけるためだけにやってきたのは、街灯も届かない鉄橋の下の大きな川。
人気も少なく、波打つ音が心地いい。岩の上であぐらをかいて、月を探すには生憎の曇り空。電車が通る度、明りが急ぎ足に落ちていく。電話がコールする。番号は変わっていなかった。だが、出る気配はない。足元をフナムシがじりじりと横断していく。諦めかけたそのとき、電話が繋がった。
「ええ加減にしてほしいわ。自力で探すわ」
さっきの少年の飛び降りた橋なら見たことがある。今ならまだ間に合うかもしれない。
橋には人だかりも何もなかった。数人が携帯で救急車に通報していたが、ただそれだけでこんな暗い川を誰が血眼になって探せるだろうか。
「俺が行くしかあらへんな」
真奈美の顔のパズルが再び完成を目指して回り始めた。
「ええって。自力で探すから」
そう言って零士は飛び込む準備をはじめたが、真奈美の唇が完成し、音声アナウンスのように感情のない声で呟いた。
「もう手遅れ。死んでる」
「ほんま、勘弁してーや。どこらへんで死んでんねんな」
「もう流されて枝に引っかかってる」
「溺れたんかいな」
それ以上真奈美は話さない。確かにいつもより情報を多く聞き過ぎた。
脱ぎかけた服をきちんと着なおして、靴ひもを結び直して真奈美を見上げると、完成した、真奈美の顔が優しく微笑みかけていた。
「なんや。いらんことはできたら言わんといてーや」
代償タイムだ。嫌でも聞いておかなければならない。しかも、こういうときに限って優しい、人間の、それこそ本物の真奈美の感情を持って語りかけてくる。声も音声アナウンスから本人のそれに変わる。
「お兄ちゃんは何でそんなに頑張り屋さんなの」
「おだてたって何も出ーへんで」
真奈美は川面を見下ろして、橋の手すりに腕を乗せる。
「お兄ちゃんがいてくれなかったらあのとき私、死んでたよ」
脱線事故のことだ。真奈美の顔に炎がちらつく。ミカエリの中に真奈美がいたとしたら、真奈美はこの脱線事故の記憶を何度も眼前にちらつかされていることになる。そんなことってあるのだろうか。
「なあ、真奈美、俺は零士やけど、零士やあらへんで。前も言ったけどな。ただ、それはお前には謝らなあかんとずっと思ってる。
ライなんかはどうだってええけど、お前にだけは謝らなあかんねんよな。ほんま、こんなん言ってても上辺だけでしゃーないんやけど」
言葉尻が濁ってしまって、靴ひもが立て結びになってしまった。まあええけど。
真奈美が泣いている。ミカエリの見せる演技なのか、本物の涙なのか。
「お兄ちゃん、そんな顔しないで。逆転しちゃったね。ずっとお兄ちゃんがいなくて寂しかったけど、今はお兄ちゃんが生きてる。お兄ちゃんの第二の人生だから」
零士は自分がどんなしわを寄せているのか分からなかった。誰かが呼んだ救急車がようやく到着してもその音に気づかなかった。
翌日ニュースにもなった投身自殺。ところが、自殺というのは零士の思い込みだった。少年は溺死ではなく刺し傷が致命傷だった。少年の携帯電話は水没して通信記録は分からない。
所持品の中から遺書らしき紙も発見されたが、こちらも水でかなり解析が難しいらしい。だが、警察は他殺の可能性で捜査を進めているという。
「橋から飛び降りた後に刺されてんねんよな。あんなんできんのはやっぱライしかおらんわな」
ライの屋敷の場所は知っているが、おそらくライは一人暮らしだろう。ライのお袋さんが厄介なのは零士も知っている。
ライの友達というだけで誕生日にバレンタインチョコ顔負けのでかいハート型のチョコを送りつけてくる。ライだって逃げたくなるだろう。それに、ライはいくつも事件を起こしているから必ずいつでも逃げられる準備をしているだろう。
食器を洗っていると祖母が、突然ダンボールいっぱいの箱を運んできた。
「なんや。重そうやん。置いときや」
「あんたのんやんか。捨てんと置いてたんやけど。埃はかぶってるわ、整理もできんとそのまんまなんやで」
そこでおいおい涙ぐまれたので、零士は水道を止めて、ダンボールを部屋に運んだ。ゆっくり見たらいいと言われたが、どれが何なのか鮮明に覚えていた。標本。星座の図鑑。地球儀。田舎の裏山で拾った花崗岩。アリの巣観察セット。アンモナイトの化石。掘り進めるとざくざく出てくる宝の山だ。
合間に自由研究ノート。といってもほとんど日記みたいなもので、きれいやった。ほんますごいとか感嘆ばかり書き込んでいる。
手帳が出てきた。住所録も載っている。今更誰に電話しようとも思わなかったが、ライにかけてみたくなった。出るか出ないか。
携帯電話の番号ほど信用できないものはない。二年前の番号だし、用意周到なライが電話番号を変えていないわけがない。
それでもかけてみたくなるのは、親友の絆の強さを試してみたくなったからかもしれない。ただ、朝はいけないと思った。ライは表向きは優等生だから学校でまじめな顔して過ごしているはずだ。零士は夜間の学校なので一日休むことにした。
繋がるかどうかもわからない電話をかけるために学校を休んだことで、零士は自分が生前の零士もこうしたであろうことに思い当って驚いた。
ライが真奈美を殺していなかったら、ライと親友になれたかもしれない。今でこそ天体観測に興味はないが、ライなら何を誘ってもついてくるだろう。
「でもあんなやつやで」
電話番号を押しながら零士はぶつくさ言った。真奈美は砂利の上に佇んでいる。電話をかけるためだけにやってきたのは、街灯も届かない鉄橋の下の大きな川。
人気も少なく、波打つ音が心地いい。岩の上であぐらをかいて、月を探すには生憎の曇り空。電車が通る度、明りが急ぎ足に落ちていく。電話がコールする。番号は変わっていなかった。だが、出る気配はない。足元をフナムシがじりじりと横断していく。諦めかけたそのとき、電話が繋がった。