第40話 勧誘
文字数 2,924文字
「朝月君いる?」
二人の息づかいが離れてしまった気がした。右に目を凝らしても、左に目を凝らしても、広がるのは闇ばかり。
朝月の声が数メートル先で聞こえた。近寄ろうとしたら、自分の足音とは別の足音がする。
「輪千 さん?」
私の呼びかけには答えないが、すぐ近くに気配を感じた。
「あの気配がする」
輪千の言う気配とはミカエリのことだとすぐに分かったのは、部屋の温度が極端に下がったからだ。灯りがあれば吐く息が白くなっているのが見えると思う。誰かの後ずさる足が、床をざらざらと磨る。真冬並みの温度だから床に霜が立っているのかもしれない。
そのもつれた足がぴたりと止まったのは、氷を踏み潰した音がしたからだ。私の足元もいつ滑ってもおかしくない状態になった。目視できないが、つま先に力を入れただけで、靴がきゅっと鳴ったから、凍った湖の上のようになっているのは間違いない。
しばらく何の音もしない。朝月に呼びかけようとしたとき彼の口から意外にも落ち着き払った声が聞こえた。
「俺が怖いのはお前じゃない」
朝月がごく至近距離で誰かと話している。その相手の少年の声に聞き覚えはない。言い放つには優しすぎるくらいの声だ。
「それぐらい分かるよ。別に俺は君を脅すつもりはないからね」
あやふやな記憶しかないが狩集リョウの声ではなさそうだ。第三者の登場だが、そのどこか不適な声は穏やかさと裏腹に危険をはらんでいる。
「ねぇ。君は今、このゲームの狩られる側にいるけれど、狩る側に来ない?」
そんな囁き声も冷えた空間には十分はっきりと響いた。朝月は身動きが取れない状態にでもなっているのか、ときどき氷が軋む音を立てる。
「まさか勧誘されるとは思ってなかったな。だって君が今ここに出て来たってことは、俺のこと殺すつもりだよね」
朝月の声が少し震えたのは静かな怒りのせいだ。
「君は俺とはよく似てるから、もしかしたらと思ってね。その言い方だと不満そうだね」
「殺人鬼と一緒にしてもらうなんて酷い話だよ。俺は確かに掲示板で大法螺を吹いたよ。天皇暗殺なんて実行に移す気はない。テロが起こるかどうかっていうことも正直どうでもいいんだ。俺は考えてみただけだよ。考えるのは自由だけど、君みたいに実行するのは違う」
沈黙の駆け引きとでもいうのか二人の声がふと途切れた。否定された犯人はまるで気にも止めず、生徒に諭す先生のように考察する。
「その境界線が君との大きな違いかもしれないね。今分かったよ。天皇どころか猫も殺せない臆病者がゲーム内では探偵役かな。人は誰でも矛盾した二面性を持つけど結局は君も匿名性に守られて悪意をさらけ出したかったってことかな」
「何で猫のこと」
「公園の野良猫を狙ったんでしょ。頭の中ちょっと覗いちゃった」
友達のような口調で言葉が転がる。朝月が黙りこくるのも無理はない。ミカエリの力でそんなこともできるなんて私も今知った。
朝月の震えが完全に収まって声が沈んだのは、少年を厳しく批判するためだ。
「君は酔ってるんでしょ。どうやって俺のこと調べたのか知らない。ゲームの構造も知らないけど、君は自分がこれだけのことをしてるってことに酔ってるよ」
「酔う、ね。そうなれたらいいんだけど、そうなるには形から入らないといけないね。例えば」
何かを押しつけられたように息を飲んで朝月が押し黙る。おそらくナイフを押し当てられたのかもしれない。
「こうして君に選択肢を与えるとか。生か死か。どっちを選ぶ? 俺は君の命乞いをするところが見たいから待ってあげるよ」
朝月がそれに応じないのはすぐに察したが、二人とも声を噛み殺して笑っているのかと思う。この瞬間、私にできることはないだろうか。そう思って一歩踏み出したが、足元の氷が割れる音で、刺すような少年の視線を感じた。足元にじわりと冷気が寄って来る。
「動いたら駄目だよ。君は知ってるよね。ミカエリのこと」
「あんた何よ! 電気つけなさいよ」
ずっと我慢していただけに怒鳴ってしまった。輪千が口を挟む。
「や、やめた方がいいよ。暗闇でも分かるわ。気配が尋常じゃないわ。あんなの化け物よ」
「化け物ね。よく覚えとくよ」
気に入ったみたいな調子で、含み笑いが漏れた。ところがその笑いの中に朝月の笑みも混じっていた。
「君って、おかしいね。君は何がきっかけで復讐掲示板なんて見たのさ。俺を見つけるなんて相当いかれてるよ。自分でもそう思わない? 君なら今、自分がいかに馬鹿げたことをしているか分かるはずだよ」
朝月の話すことに察しがついていたらしく自嘲気味な笑いが漏れた。
「確かに復讐掲示板なんて、故意に検索しないとたどり着けないね。でも案外、悪意ってのは転がっているものだからね。たまたま目に入るってこともある。君だって不満があるから書き込んだんでしょ。実行に移さないなんてもったいないと思うよ。現に君はテロができる日本人を探してる」
「書き込みなんて戯言だよ。あんなのに本気で書き込んだら馬鹿だよ」
「その礎が大切なんじゃないかな。そもそも復讐掲示板に書き込みするぐらいだから。書いて煽ったり、炎上させたり、本当はみんな自分の意見を表明してるつもりがいつの間にか反論を待ってるんだ。荒らすことに意味を見つけるんだよ。
君は荒らす代わりに天皇暗殺を唱えた。何人かは食いつく話題でしょ。俺が真っ先に君をここに連れてきたけど。実行には移さないけど不満があるよね? 社会に対してあるよね? 天皇暗殺以外にも選択肢があるわけだし、君もこだわりはない。
こんなゲームでも内心興味はあるんでしょ。何で認めないの? 捕まるのが嫌ってことないよね? 実行にこそ意義があるよ」
「それは踏み越えたらいけない。君にもそれぐらいのこと分かるはずだけど」
「それは誰が決めた倫理? そういうルールが嫌だから掲示板に不満をぶつけるんじゃないのかな。君の方が矛盾するよ。口先だけってことだよ。実行に移せない理由でもあるの? 資金不足? 人手不足?」
「君の方こそ。君がそこまでしないといけない理由は何? 捕まってもいいってことは自分のことはどうだっていいってことだよね」
「違うよ。俺は自分のことで精一杯だし自分がかわいいときもあるよ。だから逮捕されるっていう悲劇に見舞われるのも、見る分にはおもしろいでしょ」
自分のことを第三者の視点で見る。そんなことってあるのだろうか。
「俺が思うのは、まず境界線なんてないってこと。ルールもない。警察だって結局社会のルール上で優待された組織でしかない。そんなもの俺には関係ないから。
それに被害者に恨まれたってそれも関係ない。恨まれようが、逮捕されようが、構わないっていったら? 社会は必死で俺を裁きたがるだろうね。でもそれだって無意味さ。規範も、法律や裁きも人が決めたものだから。
この世界ってのは人が存在しなければそもそも何もないんだから。君だって分かってるくせに。本当に俺みたいなのが出て来たから君は怖いんだよ。だから俺を否定する。テロじゃないけどね。俺を認めなよ。一緒に狩ることができないなら、今ここで殺してあげる」
返事はなかった。水の滴る音がする。
「フー灯りを!」
二人の息づかいが離れてしまった気がした。右に目を凝らしても、左に目を凝らしても、広がるのは闇ばかり。
朝月の声が数メートル先で聞こえた。近寄ろうとしたら、自分の足音とは別の足音がする。
「
私の呼びかけには答えないが、すぐ近くに気配を感じた。
「あの気配がする」
輪千の言う気配とはミカエリのことだとすぐに分かったのは、部屋の温度が極端に下がったからだ。灯りがあれば吐く息が白くなっているのが見えると思う。誰かの後ずさる足が、床をざらざらと磨る。真冬並みの温度だから床に霜が立っているのかもしれない。
そのもつれた足がぴたりと止まったのは、氷を踏み潰した音がしたからだ。私の足元もいつ滑ってもおかしくない状態になった。目視できないが、つま先に力を入れただけで、靴がきゅっと鳴ったから、凍った湖の上のようになっているのは間違いない。
しばらく何の音もしない。朝月に呼びかけようとしたとき彼の口から意外にも落ち着き払った声が聞こえた。
「俺が怖いのはお前じゃない」
朝月がごく至近距離で誰かと話している。その相手の少年の声に聞き覚えはない。言い放つには優しすぎるくらいの声だ。
「それぐらい分かるよ。別に俺は君を脅すつもりはないからね」
あやふやな記憶しかないが狩集リョウの声ではなさそうだ。第三者の登場だが、そのどこか不適な声は穏やかさと裏腹に危険をはらんでいる。
「ねぇ。君は今、このゲームの狩られる側にいるけれど、狩る側に来ない?」
そんな囁き声も冷えた空間には十分はっきりと響いた。朝月は身動きが取れない状態にでもなっているのか、ときどき氷が軋む音を立てる。
「まさか勧誘されるとは思ってなかったな。だって君が今ここに出て来たってことは、俺のこと殺すつもりだよね」
朝月の声が少し震えたのは静かな怒りのせいだ。
「君は俺とはよく似てるから、もしかしたらと思ってね。その言い方だと不満そうだね」
「殺人鬼と一緒にしてもらうなんて酷い話だよ。俺は確かに掲示板で大法螺を吹いたよ。天皇暗殺なんて実行に移す気はない。テロが起こるかどうかっていうことも正直どうでもいいんだ。俺は考えてみただけだよ。考えるのは自由だけど、君みたいに実行するのは違う」
沈黙の駆け引きとでもいうのか二人の声がふと途切れた。否定された犯人はまるで気にも止めず、生徒に諭す先生のように考察する。
「その境界線が君との大きな違いかもしれないね。今分かったよ。天皇どころか猫も殺せない臆病者がゲーム内では探偵役かな。人は誰でも矛盾した二面性を持つけど結局は君も匿名性に守られて悪意をさらけ出したかったってことかな」
「何で猫のこと」
「公園の野良猫を狙ったんでしょ。頭の中ちょっと覗いちゃった」
友達のような口調で言葉が転がる。朝月が黙りこくるのも無理はない。ミカエリの力でそんなこともできるなんて私も今知った。
朝月の震えが完全に収まって声が沈んだのは、少年を厳しく批判するためだ。
「君は酔ってるんでしょ。どうやって俺のこと調べたのか知らない。ゲームの構造も知らないけど、君は自分がこれだけのことをしてるってことに酔ってるよ」
「酔う、ね。そうなれたらいいんだけど、そうなるには形から入らないといけないね。例えば」
何かを押しつけられたように息を飲んで朝月が押し黙る。おそらくナイフを押し当てられたのかもしれない。
「こうして君に選択肢を与えるとか。生か死か。どっちを選ぶ? 俺は君の命乞いをするところが見たいから待ってあげるよ」
朝月がそれに応じないのはすぐに察したが、二人とも声を噛み殺して笑っているのかと思う。この瞬間、私にできることはないだろうか。そう思って一歩踏み出したが、足元の氷が割れる音で、刺すような少年の視線を感じた。足元にじわりと冷気が寄って来る。
「動いたら駄目だよ。君は知ってるよね。ミカエリのこと」
「あんた何よ! 電気つけなさいよ」
ずっと我慢していただけに怒鳴ってしまった。輪千が口を挟む。
「や、やめた方がいいよ。暗闇でも分かるわ。気配が尋常じゃないわ。あんなの化け物よ」
「化け物ね。よく覚えとくよ」
気に入ったみたいな調子で、含み笑いが漏れた。ところがその笑いの中に朝月の笑みも混じっていた。
「君って、おかしいね。君は何がきっかけで復讐掲示板なんて見たのさ。俺を見つけるなんて相当いかれてるよ。自分でもそう思わない? 君なら今、自分がいかに馬鹿げたことをしているか分かるはずだよ」
朝月の話すことに察しがついていたらしく自嘲気味な笑いが漏れた。
「確かに復讐掲示板なんて、故意に検索しないとたどり着けないね。でも案外、悪意ってのは転がっているものだからね。たまたま目に入るってこともある。君だって不満があるから書き込んだんでしょ。実行に移さないなんてもったいないと思うよ。現に君はテロができる日本人を探してる」
「書き込みなんて戯言だよ。あんなのに本気で書き込んだら馬鹿だよ」
「その礎が大切なんじゃないかな。そもそも復讐掲示板に書き込みするぐらいだから。書いて煽ったり、炎上させたり、本当はみんな自分の意見を表明してるつもりがいつの間にか反論を待ってるんだ。荒らすことに意味を見つけるんだよ。
君は荒らす代わりに天皇暗殺を唱えた。何人かは食いつく話題でしょ。俺が真っ先に君をここに連れてきたけど。実行には移さないけど不満があるよね? 社会に対してあるよね? 天皇暗殺以外にも選択肢があるわけだし、君もこだわりはない。
こんなゲームでも内心興味はあるんでしょ。何で認めないの? 捕まるのが嫌ってことないよね? 実行にこそ意義があるよ」
「それは踏み越えたらいけない。君にもそれぐらいのこと分かるはずだけど」
「それは誰が決めた倫理? そういうルールが嫌だから掲示板に不満をぶつけるんじゃないのかな。君の方が矛盾するよ。口先だけってことだよ。実行に移せない理由でもあるの? 資金不足? 人手不足?」
「君の方こそ。君がそこまでしないといけない理由は何? 捕まってもいいってことは自分のことはどうだっていいってことだよね」
「違うよ。俺は自分のことで精一杯だし自分がかわいいときもあるよ。だから逮捕されるっていう悲劇に見舞われるのも、見る分にはおもしろいでしょ」
自分のことを第三者の視点で見る。そんなことってあるのだろうか。
「俺が思うのは、まず境界線なんてないってこと。ルールもない。警察だって結局社会のルール上で優待された組織でしかない。そんなもの俺には関係ないから。
それに被害者に恨まれたってそれも関係ない。恨まれようが、逮捕されようが、構わないっていったら? 社会は必死で俺を裁きたがるだろうね。でもそれだって無意味さ。規範も、法律や裁きも人が決めたものだから。
この世界ってのは人が存在しなければそもそも何もないんだから。君だって分かってるくせに。本当に俺みたいなのが出て来たから君は怖いんだよ。だから俺を否定する。テロじゃないけどね。俺を認めなよ。一緒に狩ることができないなら、今ここで殺してあげる」
返事はなかった。水の滴る音がする。
「フー灯りを!」