第43話 ただいま

文字数 2,425文字

「ただいま」

 家に帰った時に使うべきこの言葉は、今しがた大量殺人を行ってきた悪七の声で聞くと、違和感がないから恐ろしい。血まみれのシャツに、ナイフ一本だけ持って、近所を散歩してきたような顔だから。といってもこいつは無駄な散歩はしない。


 モニターの向こうの静寂がこちら側まで伝わってくる。みんな死んだのに平気で見ている俺は何なんだろう。


 俺が難しい顔をしていたからだろう、悪七は俺が怒っていると感じたのか、それともただ気分が悪くなっているとでも思われたのか「ごめんね」と呟いた。


 火照った様子でどうっと隣の椅子に腰掛けて同じくモニターを覗き見た。


 二階に設けた机と椅子。ゲームの監視用の小型テレビも一つある。悪七はナイフをティッシュで拭って、机に置いた。手袋をしていないから指紋もついているだろう。

「指紋は? 拭かなくていいのか?」


 悪七は一仕事終えて疲れたというより、美味しくいただきましたという愉快な表情でため息をついた。頬についた血も気づいているのに拭こうとしなかった。手はティッシュで拭いて、几帳面に折りたたんだかと思うと、それを床にばらまいた。


「一緒だよ。これが初めてじゃないから。ルミノール反応だって出るだろうし。死体は、狐のあいつが溶かしてくれてる。ナイフは肌身離さず持ってる。捕まるときでも離さないと思うよ」


 俺は戦慄を禁じえなかった。明らかに過去にも誰かを殺めているという事実と、警察を怖れていない大胆さに加え、最後まで抵抗するという決意には狂気じみたところがあった。


「ミカエリは上級クラスまで育つと、一つ一つの指示に対していちいち何かを求めたりしなくなるから、結構簡単だったでしょ? 俺は中にいて普通にプレイしてきた。リョウはモニターを見ながら、カムに命令するだけ」


 悪七に目だった外傷がないのも何となく分かった気がした。ミカエリの成長過程がどうなっているのかもっと聞いてみようと思ったら、悪七は俺の後ろの棚を指差した。


「さっき持ってきただろ?」

「ああ。そうだった」


 レモンケーキを持ってきたことを、俺はゲームに夢中ですっかり忘れていた。夜食に持っていくということだったが、まさか人を殺した後に喉を通るものだろうかとあのときは半信半疑だった。


 レモンケーキの存在すら忘れていたほどだ。悪七はずっとそれが食べたくて仕方がなかったというように早速フォークを生地に斜めに下ろした。俺は興奮冷めぬまま腰掛けている。


 ときどきカムも興奮気味に笑った。カムは元々笑った顔をしているが、今はそれが目が輝いているせいか、悪七に共感している顔で笑みをたたえている。


「服。着替えないのか?」

 白いシャツは赤がよく染み渡っている。胸からへそ辺りまで血まみれだ。

「質問が多いよ。俺の好きにさせてよ」


 自ら手を下してさぞ満足という顔ではないし、本人だって着替えたいのではないだろうか。いや、俺がいるから着替えられないと思うのは気のせいだろうか。女々しいとまでは言わないが悪七は憂鬱そうな顔をするので俺のことを鬱陶しく思っているに違いなかった。

「装置は解体して、裏の海に捨てようと思ってる。それぐらい手伝えるよね?」


 俺は少しむっと怒りを顔に出して見せた。悪七は無表情で俺を見返してきたが、そこに不満はないと見えてレモンケーキを食べる手を休めなかった。突然、まじめに話すのが馬鹿らしくなった調子で微笑んだ。


「リョウはそうやって怒るんだ」

「何だよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」

「いや、ちょっと思い出し笑いだよ」


 十分知っているはずであろう死体の数々に目を走らせて、興味のないそっけない声で言う。

「俺はいつもこの光景を見てるよ」

「何でお前は平気なんだよ」

「平穏の方が俺には毒だよ」


 確かに日常には刺激が必要だが、俺にはミカエリで十分だ。悪七は生まれたときからミカエリといっしょにいるのが普通だから。それが普通になってしまったが故に何かに不足を感じているのか。


 いや、それだけじゃないだろう。平穏というからには、そこにはもっと反義語的な不穏という何かが必要ということだ。俺が深刻な顔をしているのを知ってか知らずか、やんわりと励まされた。


「大丈夫。リョウの好きなゲームと同じさ」


「お前と違って俺は執行達が憎くて憎くてたまらない。奴らにやられた俺が許せない。ゲーム感覚で見てたと思うか? 俺は奴らの中に巣くう嘲笑が許せない。俺の中の手の震えるようなどす黒い怒りは奴等を放っておけない」


 言葉にしてみると怒涛のごとく溢れ出た。俺はずっと不快にモニターを眺めていたが、それは悪七の残虐さに目を見張ったからではなかった。裁かれた執行を見て、なお、許せないでいた。


「分かるか。俺はな、誰かじゃなく奴らを消したいんだ。かつてのことでやり返したんだ。正当防衛じゃないことぐらい分かってる。だけど見てて、吐き気がしてたんだ。奴ら平気な顔で息しやがって」


「分かってるよ。彼はもう死んだ」

 ああそうだ。だけどもの足りなかった。虚しいっていうのじゃない。よく刑事ドラマでは犯人はうな垂れて復讐の虚しさを知るみたいだけど、全然物足りない。俺は本当どうしてこうなってしまったんだろう。狂ってる。


 ただ、無関係なひいらや他の人のことはさすがに困った。しかし今回のゲームで明らかに変わった人間がいるのも事実だ。川口はゲームで変わった。執行みたいな連中は野放しにしていられないが、同時に川口のようにいい方向に転じてくれる人もいる。それが同時に見られるゲームこそ至高だ。


「不満みたいだね。嫌ならリョウが俺を殺してくれる?」

「意味分かんねぇ」

 どこからが本心か分からない。


「一度取り出したナイフはね。相手に刺すしかないんだ。刺さらなかったらその切っ先はどこに向うと思う? 自分に刺すしかなくなるだろ。痛みや感情や根源も全部、元から断つしかない。ここまで来たら、リョウだって引き返せないでしょ?」
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