第78話 許したらあかんやつ

文字数 2,057文字

 そのとき、キリキリと密度の高まる音と共に輪千の氷が音を立てた。ごとりと肉片となって崩れ落ちた。床に叩きつけられた肉片は、氷の粒の白煙をあげて弾けた。ばらばらと崩壊していく肉片。


 上半身よりも、指や腕から不安定な順番に剥がれ落ちていく。真奈美の目が、ずっとこちらを見開いたまま、凝視している。薄く開いた唇からは、最期まで言葉は発せられず、顔の半分が縦にひび割れる。皮、骨、脳髄と、順に灰色に光ながら、重力の思うままに落ちていった。


 それを止める方法は、自然界にはないように思えた。単純に死として平然と受け入れられるのは、自分がミカエリだからか、冷えた背中から、内側にかけてじんわりと広がった汗とも、嘆きともつかぬ、生暖かさは人としての悲しみと呼べるのだろうか。足は文字通り氷の床に張りついている。


 ぽつりと真奈美の名を呼んでみても、返事をする口や顔は、崩壊してしまっている。かっと昇った血とは、裏腹に自分の唇から色が失せたことが自覚できた。


 まだ自分でも怒りをコントロールできるうちであることが、腹立たしかった。もっと誰かに煽られてそれを、人殺し悪七ライにぶつけたい。


「真奈美! あかんて! うちを一人にせんといてや」


 駆け寄って見るもグロテスクな姿になった真奈美の凍った腕に触れる。指から伝わった体温で真奈美の凍った血が広がった。葬儀で、死者の顔を見ているととても生きていたと思えないことがある。まさに真奈美はもう死後一日ほど経過したように青くなっていた。


 人間性を失い人形のようだ。恐ろしくてとても顔には触れられない。涙も、まぶたが怒りでひくひく痙攣しだしても頬に広がって上手く流れ落ちない。


 ライは、奇妙に歪んだ薄ら笑いを浮かべている。先程叫んだ言葉に対して一人になるのって辛いでしょとでも言いたいのか。

「まだや」


 そんな言葉がついて出た。真奈美が死んだ。

「ミカエリは宿主なしでは、消滅するか、一定期間以内にほかの宿主を見つけなければいけないよ。個人差はあるけど、怨み辛みがなければ、留まっていられる時間は限られるから、もって数分かな」


「先に言っとくわ。あんさんに憑く気は毛頭ないで。いや、あんさんには、憑く価値もあらへんで」


 白く早く流れる雲で室内が陰った。ライの瞳が淀んで瞬きをしなくなった。泣きたいのはこっちだと言ってやりたい。青ざめた唇から僅かに身震いしたのが見てとれた。だが、少なからず屈辱を加えられたようだ。


「真奈美は、あんたの姉さんやった。うちの妹の姿いうても、うちかて紛い物や、せやけどなあ、うちはこの短期間の間で真奈美のことが大切になったんや。あんさんは、守りたいものなんてなんもないんや。ほんまに生き返らせたいものがないんや。見せたる。ミカエリができることを」


 こちらが熱く語るほどにライは、安らかでさえある笑顔を見せたが、氷の瞳が湖面を割るように見開かれる。堪えきれずに口は閉まりなく音を立てず笑いだした。ライの計算通りだとでもいうのか。


 そうだ、真奈美を生き返らせることはライと同じことになるのか。殺され、蘇らせ、またむざむざと殺される。それではライがやろうとしたことと全く同じ。そして、俺も同じ穴のムジナに変わりがない。なら、もう、リセットは必要ない。人生はゲームじゃない。


 たった一回きりだから。だから、辛い。ライはそれを認めない。なら、うちは、認めなあかんのとちゃうか。


 零士は、怒りを込めて唇を閉じた。そこには、自分がこの世に留まることを諦めたような笑みは皆無だった。ただ、ライの、まねをしてみたつもりだった。


 ライは、なぜいつも微笑むのか。そこには、全てを思い通りに運びたい思惑と、必ず思い通りにことを運ぶ自信と、一抹の悲哀がある。他人に対してのではなく、自分自身についてのだ。


「あんさんらは、怒りを植えつけたいんやろ? 自分が空虚やからやろ」


 余裕のあったライの笑みが風に吹き消されたように消えた。静かに瞬きをして、ライは顔を青ざめた。それは、言葉の力というより、同じ顔で二人、向かい合っていたからだろう。だが、不思議と声は震えることなく淡々と告げることができた。


「うちは消滅を選ぶ。これが、ほんまの最期や。短い間やったけどそれなりに謳歌できたわ」


 一瞬だが、ライの顔が歪んだように見えたが、瞬きをすると平然と突っ立っている。あのライが、魂が抜けたようにただ立っている。立つだけで絵になるような男がこのざまか。なにか一言ぐらい期待したが、返答はない。時間もない。


 とうとうライはうつむいた。自分の身体が透けていく。消滅するんや。


 ため息のような息が聞こえた。慌てて眼を向けたが、視線は合うことはなかった。


 「命は一つなんやで」と、言ったつもりが最期の言葉に音はつかなかった。だから、うつむいたままのライには聞こえなかった。いや、笑っている。こいつ、垂らした長い前髪の間から瞳をぎらつかせて――。


 消える。うちは、消える。馬鹿を残して。やっぱ許したあかんやつはおるんや――。
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