第37話 命の計り

文字数 2,552文字

 次の部屋が開けたとき、出し抜けに川口が吹き飛んだ。私達も押されて将棋倒しになった。川口を殴り飛ばしたのは他でもない執行だった。床に倒れたところを今度は髪をつかんで床に叩きつける。何やら、シャブがどうとか、注射器をよこせとか喚いている。

「やめて」


 必死に腕をつかんだが簡単にふりほどかれた。執行(しぎょう)は馬乗りになって執拗に川口を殴る。鼻血とつばを吐いて川口の意識が飛ぶと懐をまさぐり出した。川口の注射器を探してるんだ。麻薬常習犯だったのか。腕にうっすらと針の後が見えた。


「注射器ならこっち」朝月がちらつかせる。いつの間に注射器を手に入れたんだろう。川口から盗んだのか。執拗が恍惚とした目を向けると、朝月は注射器を投げた。執拗が追うより早く後ろからヤマが押し倒す。ヤマが執行を殴る間、川口がしがみつく。


 執行も負けずヤマを殴り返して川口を蹴り飛ばした。床に転がった注射器を取るなり肩で息をしながら叫んだ。

「もっと早く気づけばよかったぜ。こんな手紙なんか見せられなくてもよ」


 手には紙切れが握りつぶされている。犯人からの手紙か。汗だくになってぜえぜえ言いながら、嬉しそうに注射する。

「本当にドラッグかどうかなんて分からないんだ。ドラッグだったとしても身体を壊すのは君だよ」朝月は呆れ顔で言った。


 ドラッグの効果か分からない。執行の憤りは増して、川口にどろどろと濁った目を向け、ポケットから取り出したナイフを突き出す。


「最初、お前みたいなクズが俺を名指しで呼んだよな。てめーみたいなやつが何でこのゲームに選ばれてるのか分かんねぇな。俺が参加させられた意味は分かったぞ。


 ここは俺が好きに暴れていい空間だってな。生きる意志のねーやつが、真っ先に死ぬべきだって思うぜ」


 そう言うなり、かなりて手ひどくやられていた川口を鷲づかみにして引き立てていく。

「てめーから逝かしてやるよ。ちょうどここに処刑台がある。俺は一人連れて行けばここから出してもらえるんだ」


 自分の目を疑った。あながち執行は嘘はついてない。大きなプレス機をほうふつさせる四角く真っ黒な石。釣鐘より大きい。


 チェーンで吊り下げられていて、赤いボタンを押せば巻かれて張り詰めているチェーンがジャラジャラ音を立てて重厚な石を落とす仕組み。


 その石が落ちる真下には、人一人が石の下に立てるだけのスペースを残して、周りを剣山が囲んでいる。そこにあっけなく投げ入れられた川口は、ただ、愕然としている。


 隙間なく剣に囲まれている。何度か無謀にも手を伸ばしたり身体をねじ込んだようで、血まみれの身体が見え隠れする。ときどき嗚咽にも似た声を出して痛みを訴える。


「川口君を出しなさいよ」

 私のことは鬱陶しいハエ程度にしか見られていない。

「うるせぇ。俺は一人殺せばここから出られるんだ! お前がスイッチを押せ」


 自分の手は汚さないんだ。なんて汚いやつ。そこまでしてここから出たいのか。みんな出たいのは一緒なのに、誰かを犠牲にして出るなんてできない。


「そんなんやらせたらあかんわ。どうせやらすんなら、うちがやる」

 執行がヤマに向けたナイフを扇みたいに煽って挑発する。

「誰だっていい。早く押しやがれ!」


 ヤマはひるまずに私の傍に来て、そっと呟いた。ほとんど声になっていない震えた消え入る声。確かに口元はごめんやで。と動いた。

「だめだよ。川口君がどうなるか」


「せやけど、このままやったらあんさんが押すはめになる。どっちみちこいつは自分で押すやろな」


 執行は何度も怒鳴る。耳の奥で脈がじんじんと速くなるのが分かる。ああ、フーどうしよう。フーなんとかして執行を止めて。フーは首を傾げた。何で言うことを聞いてくれないの?

「人ヲ救ウニハ、ソレナリノ代償ヲ」


 フーが喋った。何が必要なの。この際何だっていい。何でもあげるからこの状況を何とかして。心の中の叫びはフーに届いた。だけど、フーも私の心に訴えかけてくる。

「命ニハ命ヲ」


 私は一瞬、息を吐いて凍りついていた。フーは何でも私に協力的だと思っていた。血さえあげれば何とかなると思っていた。今までは小さな願いだったから? 


 私は瞬時に、自分の命と川口の命とを計ってしまった。重さの天秤にかけてしまった。それは必然的に。私は彼をどうしても救いたいと切に願うことができるだろうか。私はみんな仲良くここを出ることに必死だった。だけど、それと誰かを救うことは別だった。


 私の思考が濃厚に漂っているわずか数秒の間に、ことは進行していた。ヤマがボタンを押した。噛み締めるように、目はどこまでも伏せて、猫背になって川口にただただ謝って土下座せんばかりで、ついには泣き崩れて。執行が歓声を上げる。


 スローモーションにさえ見えた石の落下。思った以上の振動。トラックが道路を横断したときに感じる揺れに似ている。音はもっと大きかった。血肉がここまで飛び散って、頭からかぶった。石が重すぎたせいなのか、骨が砕けた音はなかった。


 川口が死に、同時にヤマもいなくなった。恐るべきことに、ボタンを押した人間の足元もすっぽりと穴が開いた。落とし穴。ヤマの叫び声は悲鳴ではなく人を殺してしまったことに対しての悲痛な泣き声だった。


「やったぜ。一気に二人。しかしこりゃ危なかったな、自分で押してたら俺が落ちてた」

「最低よ!」


 叫び声はほとんどかすれた。驚きで涙が出る余裕もない。手の振るえも止まらない。さっきまでそこにいた人が一度に二人も死んでしまうなんて。私の自己犠牲で救えたかもしれない。迷っている間に二人は死んでしまった。

「俺は出るぞ! ここから出るぞ!」


 活気づいて走り出す執行。次の部屋に入るなり、鋭い音がした。壁中から飛び出した針に全身を貫かれ、蜂の巣になった。息が詰まるのも何度目だろう。充血した目から、もう涙は零れ落ちるのも鈍っている。


 当然の結果だと心の隅で思ったけど、それを心に長く留めて置くことは嫌だった。まだ川口とヤマのこと、それを見捨てざるを得ない自分とを交互に思考が行ったり来たりする。佇んでいたのは、心が折れたからではない。


 無性に悲しみとどうしようもないやるせなさに襲われた。輪千も息を潜めたまま泣いている。ただ一人、朝月は暗い顔して、行こうと言った。
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