第31話 まだ小一時間の付き合い

文字数 1,432文字

 輪千(わち)越しにミカエリに目をやったときだった、箱が開くような軽い音。川口が落ちる。一瞬の出来事でマジックのようだった。悲鳴も上がらない。落ちる川口の襟首をつかんだ。ひきずられる。ヤマが落ちそうになる私の手首を引っ張る。指一本で繋がっている状態だ。とても重いなんてレベルじゃない。人ってこんなに重いんだ。川口は声を上げなかった。


 足下にウニのような黒い針が無数に広がっているのに。うろたえているのはヤマの方だ。鋭利な瞳で睨まれたように、下を見ることができず汗だくになる。


「アカン。頼むわ。うち、ウニ嫌いやねん。昔刺されたから」

 目も背けるようにしてまともに力が入っていない。

「お願い。絶対離さないで」


 私一人では到底無理だった。後ろから朝月が片手で引く。針がぞわぞわと動く。まるで生き物のように棘が上にせり上がってくる。棘と棘の間で二つの目が瞬きした。針そのものがミカエリだ。悪戦苦闘しながらやっと引き上げられた。


 川口も冷や汗をかいていたがそれは恐怖からではない。恐ろしい葛藤を終え、今しがた息を吹き返したように、海面に上がって息を吸うように息をしていた。


 決して大きくは吐き出さず、自分の中で整えられた息は、どこかに影を潜めて平常の心拍数に戻る。目だけが潤って、私の顔を見たときには悲しげな笑みさえ浮かんでいた。だけど、言葉に詰まって、私も何も言えない。彼は今、死んでいたかもしれない。


 傍にあった紙切れをつかんで川口が驚いて周りを見回した。

「誰がこれを置いたの? さっきまでなかった」



《このゲームから離脱する簡単な方法は自らを断つ事》



 手紙は川口に宛てられたものだった。これは自殺を迫るものだ。しかも、今このどさくさにまぎれて落ちたのかもしれなかった。


「裏切り者がいるんだ」

諦めたように言う。


「誰も信用できない。一人にさせて」

「ちょっと待って。注射器持ってるのは君だよね?」


 朝月の指摘に川口は押し黙って口を閉ざした。まさか、注射器を持ち出していたのが川口だなんて。しかも、反論しないところ図星のようだ。朝月は何でこの瞬間にこんなことを言うのだろう。知的だがデリカシーがない。


「俺達を信用しないのは仕方ないけどさ。注射器は信用するんだ。中身だって分かったものじゃないよ。犯人は君が自殺志願者だって知ってるんだから。からかってるだけかもしれないよ。現に俺は暗い場所で一人で閉じ込められてたし」

「少しだけ時間をくれよ」


「まあ、止めはしないよ」

 朝月のそっけない態度に腹が立った。

「何で止めないのよ。ほんとに自殺しちゃったらどうすんの」


「言っても聞かないよ。ああいうタイプは。ほら、もう俺達のことなんて見てない。離れて歩いてるだけだよ。あの薬の中身に疑問を抱いただけでも進歩じゃないかな」


 そうだけど心配だった。私の不安を怪訝そうな顔で冷ややかに笑い飛ばして朝月は告げる。


「そういう君は彼を止めて責任取れるの? 彼には彼の悩みがあって、それは彼が解決しないといけない。君に何ができる? 生きるか死ぬかって、大きな問題だよ。


 後数分でけりをつけた方が楽かもしれないって考えたとき、日常の小さなことは全部どうでもよくなるんだ。本当に二択さ。明日のことも見えない。目先には生か死かしかないんだから。初対面の君に、彼は救えない」


 どん底に突き落とされたような気分だった。朝月はまともなことを言っているのかもしれない。あくまで私達は赤の他人で、まだ小一時間の付き合いなのだから。
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