#63 最高のパートナー <祥子視点>

文字数 6,089文字

エリックと私がシドに呼ばれた。

「何かあったのかしら?」
「さぁ。なんだろうね」

シドの部屋を叩いて中に入る。机で紙を読んでたシドが顔を上げる。

「待ってましたよ。どうぞ掛けて」
「「 はい 」」

シドの前の椅子に座ると、シドが私とエリックに紙を渡す。眼を通す。

「アメリカで公演ですね。でも、これ」

私がシドにそう言ったら、シドが笑ってペンを差し出した。

「いい話でしょう。サインする価値ありますよ」

ペンを受け取ったはいいけど、サインをしていいのかエリックを見る。エリックも驚いて読み返してから私を見た。

「シド、これは俺達の…」
「大丈夫ですよ。お二人のスポンサーにも了解を得ています。だから大手を振って演奏出来ますよ」
「なら、祥子、サインしよう」
「うん」

アメリカ大手の企業が私とエリックを招いての公演依頼。アメリカでクラッシックって不釣合(ふつりあ)いな気がする。クラッシックはヨーロッパってイメージがあったから。

「祥子にはいい機会ですよ。世界に祥子の音を響かせましょう」

(世界はまだ広いんだ)

サインする手が震えた。日本からウィーンに来て世界に出たと思っていたのは間違い。ウィーンはその一歩だった。エリックだってこの一歩を越えて来てる。私だって越えていい筈だ。
ペンをエリックに渡すと、エリックは笑って頷いた。

「お二人で移動するのは初めてですね」
「「 はい 」」
「少し羽を伸ばしてもいいですよ」
「シドったら」
「気兼ねなく二人で楽しんできますよ」

赤くなった私を見てエリックは笑った。
シドから日程表と楽譜を貰って、部屋を出た。

「アメリカなんて初めてだわ」
「俺がエスコートするから安心していいよ」
「うん」
「アメリカで成功したら、オーストラリア、そして、祥子の国、日本や中国、アジアだ。アフリカだって周らなきゃ」
「エリック。今からプレッシャーかけないで。今は目先のアメリカに集中しなきゃ」
「大丈夫さ。何たって、俺とデュオが入ってる。誰にも邪魔されずに堂々と演奏出来る」

曲目を指さしてエリックが私を見る。

「そうね。うん。それはとても楽しみだわ。だけど」
「今から緊張かい?」
「…えぇ」
「なら、今度の休みにとっておきの場所に連れていくから」
「とっておきの場所?」
「そうさ。楽しみにしてて。じゃ、また後で」
「うん。 ? 」

その後もエリックの言う「とっておきの場所」がどこだか聞き出そうとしたが、上手くはぐらかされてしまう。

そして、休みがやってくる。



朝早くに呼び鈴が鳴って、エリックが迎えに来た。

「祥子、もう出かけられるかい? あ、そうそう。フルートを持って来るんだよ」
「フルート?」
「そうさ。それがなきゃ駄目なんだよ」
「分かったわ」

フルートケースを持ってアパートを出ると、エリックが車の前に立っている。

「あら、車?」
「そうさ。俺だって運転位出来るさ。今は乗る暇がないから、久々の運転になるけど」
「そういうのをサンデードライバーって言うのよ。お休みの日しか運転しない、少し危なかしい運転手って意味なのよ」

エリックが助手席のドアを開けて私を車に乗せると、もう逃げられないようにドアを閉めた。

「俺、学生の時は毎日運転してたから大丈夫さ。でも、まぁ、安全運転するよ」
「そう頼むわ」

エリックが運転席に乗り込んで、隣で緊張してる私の顔を見て、笑いながら言った。
車はウィーン郊外に向かっている。

「エリック。そろそろ教えて。どこに行くの?」
「着けば分かるさ。とてもいい所さ」
「私を驚かせるつもりね」
「驚くよりも感動するさ」
「感動するの?」
「あぁ、そうさ。祥子なら感動出来る」
「期待に沿えるよう頑張るわ」

そう答えたらエリックに笑われてしまった。
そこから、目的地に着くまでは、アメリカ公演の話でもちきりだった。私には初めてでも、エリックは何度か行っているから、街や、会場の事を話してくれた。

「俺、最初は冷やかし程度の客しか来ないって思ってたんだよ」
「私もそう思ってるのよ。アメリカってジャズやソウルが原点って思ってて」
「俺もそう思ってた。だけど、演奏する会場に入って実感したんだ。クラッシックにこの会場を使わせてくれる国。アメリカでもクラッシックは歓迎されているんだって」
「そんなに凄い会場なの?」
「そうさ。俺達も初日にそこで演奏するよ。祥子だって分かるさ」
「分かるといいけど」
「それよりも、俺、凄く楽しみなんだ」
「どうして?」
「仕事だけど、祥子と一緒だ。ちょっとしたバカンスみたいでね」
「あ、そうね」

婚前旅行。そんな単語が頭を過ぎって大慌てになった。

「祥子、どうした? 頭振って」
「ん? 何でも無い。無いから。あっ、どこに行くか分かった」

無意識に頭を振ってたのを誤魔化すのに外を見たら、一面に森が広がってるのに気づく。どこに向かってるのかが分かった。

「ウィーンの森。初めてだろ?」
「初めてよ」
「祥子を連れて来たかったんだ。案内するよ」

車を降りて森の探索だ。時折、静かな中に鳥の声が響き渡る。
エリックは人溜まりを避ける様に私を連れて行く。お陰でフラッシュの光は届かない。ゆっくりと手を繋いで歩いていけた。

「ここは広いからね。今日はここまでだな」
「随分歩いたわね。お腹空いちゃった」
「じゃ、車に戻ろう。お昼用意してきたんだ」
「あら」
「簡単な物さ。買ってきたんだ」

来た道ではなく、寄り道してる様に車迄戻った。

「日当たりのいい所で食べよう」

エリックがパンとチーズやサラダを取り出して並べていく。こういう食事にも慣れた。その場で自分の好きな物を挟んで食べればいい。

「祥子」
「何?」
「俺、祥子と暮らす家の事考えてるんだ」
「あら。気が早いわよ。今はまだ」
「そうだけど。今は恋人の時間を楽しみたいけど、その先で必要だろ?」
「そりゃ、いつかは必要だけど…」

エリックが楽しそうに、パンの包み紙を開いてペンで描き始める。

「小さくても庭があって、日当たりがいい家だな」
「暖かい家がいいわ」
「玄関を入ると暖かいリビングとキッチンが有るんだ」
「いつでも練習出来る部屋も必要よ」
「地下に作ろう。でも、陽が差し込むのがいいね」
「そうね」
「二階に寝室だね」
「自分専用のスペースが欲しいわ。一部屋の半分でいいの。机とちょっとした事が出来る場所」
「そうだね。じゃ、部屋を半分にして祥子と俺で使おう。仕切れる様にして」
「普段は開け放しておくの。あと、逃げ込める部屋も必要よ」
「どうして?」
「ケンカした時に(こも)るのよ。本とかCDとか置いておくの。二人のお気に入りを置いておくの」
「ケンカするつもりなのかい?」
「もしかしたらって場合よ。趣味の部屋って事でいいのよ」
「オーケー。なら、その部屋を地下にしよう。練習部屋は1階にして」

どんどん家の間取りが描かれていく。

「二階に小さい部屋をふたつ位必要だね」
「ゲストルーム?」
「ここは子供部屋さ」
「あら」

お二人希望ですか。エリックが私を見て笑うから、私は赤くなっている。

「ゲストルームとしても活躍する部屋なんだ」
「うん」

そればかりは「神のみぞ知る」。エリックも自然任せとして流してくれた。

「あと、階段下にコーダの部屋が欲しいな」
「コーダが一緒だと一人でも寂しくないわ。でも、演奏会で留守にする時が可哀想だわ」
「その時は実家に預けていこう。そうすればコーダも寂しくない」
「そうね」

コーダも一緒の家。実現するのも遠い話じゃないだろう。
パンの包み紙に描かれた私達の家の間取り。エリックが嬉しそうに見直してから畳んだ。

長めのお昼を終えて、また森の中を探索していく。観光客の集団が居る。

「あら、日本語だわ」
(つう)の人達用に周遊バスがあるんだよ」
「私も仲間入りできるのね」
「こら。祥子には俺というガイドが居るだろ」
「そうでした」

エリックに手を引っ張られて、観光客から離された。

夕暮れが近づいてきて、車で向かった先は展望台だった。

「ここでこれが必要なんだ。はい」
「ここで?」
「そうだよ」

フルートケースが渡された。私にフルートケースを渡したエリックはバイオリンケースを持って車に鍵をかけた。

「バイオリン?」
「そうさ。今日はバイオリン。チェロじゃなくて悪いけど」
「どこかで演奏会?」
「似た様なものかな」
「 ? 」
「こっちこっち」

エリックが私を引っ張っていく。
目の前に森が広がる。

「凄い。これがウィーンの森」
「その一部だけどね」
「空気が()んでいるのね。木の香りもする」
「この時間帯は冷えるけど」
「ううん。気持ちいい」
「祥子、ここで、フルートを吹いてごらん」
「ここで?」
「そうさ。ここで」

このウィーンの森を見ながら…。モーツアルトやベートーベン…。そんな由縁(ゆえん)のある場所を見下ろしながら、フルートを吹く?! クラッシックの大御所(おおごしょ)に聞かせるようなものじゃないか。

「そんな事…出来ないわ」
「吹いてごらん」
「ここで出来ないわ」
「吹いてごらん」
「…でも…な、何を?」
「祥子が好きな曲」
「無理よ。ここじゃ駄目よ」

星に願いを…は、ここで吹いてはいけない気がした。

「祥子。このウィーンの森に聴いて貰うと分かる。自分の音が分かる」
「自分の音が分かるの?」
「そうだよ。今の言葉はガド爺が昔、言ったんだ。俺がバイオリンからチェロに変えたのは、ここでチェロを弾いたからだった。今日はバイオリンだけど、俺が先に弾こう」

エリックがバイオリンケースを開けてバイオリンを取り出した。軽く音を出してから、眼を閉じて静かに深呼吸をした。弓が動く。

メンデルスゾーン バイオリン協奏曲 第1楽章

弓がしなる度にエリックの音が広がっていく。森全体に広がっていく。音が果てしなく広がっていく。

(情景が…無い?)

エリックの音は譜面通りだ。なのにその音は深く響いてくる。森の木がエリックを中心に音に共鳴して震えていく。そんな広がりがあった。
森から視線をエリックに向ける。エリックは森の果てに視線を向けていた。その先にある何かを見つめている。そのエリックから眼が離せなかった。エリックが何かと対話している。音で会話している。そんな感じを受けていた。自分の音を愛しているんだ。どこでも自分の音を出せる人なんだ。

羨ましくもあり、悔しくもあった。

私はエリックに促されて躊躇(ちゅうちょ)した。自分の音に自信が無かったから吹けなかったんだ。自分の音を愛する事をしてこなかったんだ。吹きながら自分の音を聞いているのに聴いてこなかったんだ。聴いていたつもりになっていたんだ。

「祥子?」

エリックの声と、周りからの拍手で我に返った。エリックがバイオリンを下ろして私を見ている。

「エリック。最高よ。エリックの音がこの森のずっと、ずっと向こうのどこかまで広がってくのが分かった。そして、エリックがどれだけ自分の音を愛して、大切にしてるのかも。私…自分が悔しい。情けない程悔しい。私、自分の音に責任は持てても愛するなんて思って来なかった。今迄、私…何してきたんだろう」

私は持ってるフルートケースの取っ手を痛い位に握り締めていた。
エリックの手が、取っ手を握り締めてる私の手に触れる。

「祥子、君は自分で気づいてないだけだよ。祥子の音は君にちゃんと愛されているよ」
「そんなはず無い。だって、今、気づいたんだもの」
「祥子、君はフルートを吹いていて「この音を響かせたい。この音を皆に聴いて貰いたい」って思ってるだろ?」
「…うん」
「自分の音が好きだからだよ。自信を持っていいんだよ。祥子の音は俺と同じ音だよ」
「同じ?」
「そうだよ。…もう吹けるかな?」
「…うん。でも…一緒に」
「いいよ」

フルートケースを開く。周りに何人も人が居たのに気づく。私がフルートケースを開けたから、移動しようとしていた人達が立ち止まっている。
その視線にさらされながら、フルートを組み立てる。周りを見ないようにしてエリックの隣に立った。

 ヨハン・シュトラウス 美しく青きドナウ 作品314

エリックの音に合わせていく。今は譜面に忠実に。森の木に。この森全体に広がる様に丁寧に音を出す。

(音が聴こえる)

フルートの音だ。森の木々が静かに聴き入ってる錯覚に陥っている。
もしかすると…自分の音に聴き()れているのかもしれない。
エリックの音も聴き取れている。この音も好きだ。チェロ同様に、私の音を壊さずに包んでくれる。

「エリック、ありがとう。今度は一人で吹いてみる」

エリックが笑ってバイオリンをケースに置いた。今度は一人で。フルートの音だけを、このウィーンの森に響かせて…聴かせたい。

さっきのエリックの様に、眼を閉じた。ゆっくり深呼吸をして眼を開け、静かに息を吸ってフルートに吹き込んでいく。

 シューベルト 「アヴェ・マリア」

フルートの音だけが森に広がっていく。音の波が広がっていくのが見える気がする。広がっていくその先には…森の果てには…何があるのだろう。
吹きながら私は驚いている。
(おごそ)かに森の隅々迄広がっていったと思ったら、上へ昇っていった。音の響きが上へ上へと昇っていった。大聖堂で演奏した時に似た感じを受けたが、(さえぎ)る物がない空間に私の音が何処までも昇っていく。
こんな感触は初めてだ。ゾクゾクしてくる最高な気分。

私の音はまだ行く先があるんだ。

ゆっくり最後の一音を消していく。そして最後の一曲。

 ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 新世界より 第2楽章「家路」

情景は載せない。今は私の音だけを響かせる。この曲を奏でた音がガド爺を捕まえたって聞いた。この曲から私は始まったんだ。

私はここで吹いていく。エリックという最高の音を奏でるパートナーと共に。

音が()んで拍手が耳に入る。拍手よりもエリックのほうが気になった。
エリックは嬉しそうに眼を細めて一言くれる。

「最高だ」
「ありがとう。ガド爺の言葉の意味、分かったわ」
「さて、退散しようか。かなり写真撮られてるからね」
「あら」

集まっていた人達が拍手をくれて、その間にフラッシュも光っていた。
エリックと二人で頭を下げてから退散する。



車の中に入って、エンジンが掛かる。追い駆けてきた人達を振り切る様に車が走った。
その車が途中で止まる。

「エリック、どうしたの?」
「祥子…俺」

いきなり私の腕が引っ張られてキスされた。強引なキスで驚いてる私の顔を見て、エリックが口を開く。

「祥子…俺、祥子を…」
「…」

エリックの表情から察しがついた。何も言わない私にもう一度キスしてから、車がモーテルに入る。

エリックが私に触れて一瞬止まる。

種の保存…私達は罪を犯そうとしている。お互いにそう思ったのかもしれない。だけど、人の種としては罪じゃない。私はエリックを愛してるし、エリックも私を愛してくれている。

「Ich liebe Sie (愛してる)」
「Ich liebe Sie auch (私も愛してる)」

ゆっくりと唇が重なった。


- DUO FIN -

祥子が奏でる「アヴェ・マリア」を聴いて俺は驚く。
祥子の音は神に祝福されている。そんな音を創りだしてきた。
その音に(こた)えたい。主旋律ではなく伴奏で応えたい。そう俺は思っていた。


これにて終焉となります。お付き合いいただきありがとうございました。
 木葉

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