#63 最高のパートナー <祥子視点>
文字数 6,089文字
エリックと私がシドに呼ばれた。
「何かあったのかしら?」
「さぁ。なんだろうね」
シドの部屋を叩いて中に入る。机で紙を読んでたシドが顔を上げる。
「待ってましたよ。どうぞ掛けて」
「「 はい 」」
シドの前の椅子に座ると、シドが私とエリックに紙を渡す。眼を通す。
「アメリカで公演ですね。でも、これ」
私がシドにそう言ったら、シドが笑ってペンを差し出した。
「いい話でしょう。サインする価値ありますよ」
ペンを受け取ったはいいけど、サインをしていいのかエリックを見る。エリックも驚いて読み返してから私を見た。
「シド、これは俺達の…」
「大丈夫ですよ。お二人のスポンサーにも了解を得ています。だから大手を振って演奏出来ますよ」
「なら、祥子、サインしよう」
「うん」
アメリカ大手の企業が私とエリックを招いての公演依頼。アメリカでクラッシックって不釣合 いな気がする。クラッシックはヨーロッパってイメージがあったから。
「祥子にはいい機会ですよ。世界に祥子の音を響かせましょう」
(世界はまだ広いんだ)
サインする手が震えた。日本からウィーンに来て世界に出たと思っていたのは間違い。ウィーンはその一歩だった。エリックだってこの一歩を越えて来てる。私だって越えていい筈だ。
ペンをエリックに渡すと、エリックは笑って頷いた。
「お二人で移動するのは初めてですね」
「「 はい 」」
「少し羽を伸ばしてもいいですよ」
「シドったら」
「気兼ねなく二人で楽しんできますよ」
赤くなった私を見てエリックは笑った。
シドから日程表と楽譜を貰って、部屋を出た。
「アメリカなんて初めてだわ」
「俺がエスコートするから安心していいよ」
「うん」
「アメリカで成功したら、オーストラリア、そして、祥子の国、日本や中国、アジアだ。アフリカだって周らなきゃ」
「エリック。今からプレッシャーかけないで。今は目先のアメリカに集中しなきゃ」
「大丈夫さ。何たって、俺とデュオが入ってる。誰にも邪魔されずに堂々と演奏出来る」
曲目を指さしてエリックが私を見る。
「そうね。うん。それはとても楽しみだわ。だけど」
「今から緊張かい?」
「…えぇ」
「なら、今度の休みにとっておきの場所に連れていくから」
「とっておきの場所?」
「そうさ。楽しみにしてて。じゃ、また後で」
「うん。 ? 」
その後もエリックの言う「とっておきの場所」がどこだか聞き出そうとしたが、上手くはぐらかされてしまう。
そして、休みがやってくる。
☆
朝早くに呼び鈴が鳴って、エリックが迎えに来た。
「祥子、もう出かけられるかい? あ、そうそう。フルートを持って来るんだよ」
「フルート?」
「そうさ。それがなきゃ駄目なんだよ」
「分かったわ」
フルートケースを持ってアパートを出ると、エリックが車の前に立っている。
「あら、車?」
「そうさ。俺だって運転位出来るさ。今は乗る暇がないから、久々の運転になるけど」
「そういうのをサンデードライバーって言うのよ。お休みの日しか運転しない、少し危なかしい運転手って意味なのよ」
エリックが助手席のドアを開けて私を車に乗せると、もう逃げられないようにドアを閉めた。
「俺、学生の時は毎日運転してたから大丈夫さ。でも、まぁ、安全運転するよ」
「そう頼むわ」
エリックが運転席に乗り込んで、隣で緊張してる私の顔を見て、笑いながら言った。
車はウィーン郊外に向かっている。
「エリック。そろそろ教えて。どこに行くの?」
「着けば分かるさ。とてもいい所さ」
「私を驚かせるつもりね」
「驚くよりも感動するさ」
「感動するの?」
「あぁ、そうさ。祥子なら感動出来る」
「期待に沿えるよう頑張るわ」
そう答えたらエリックに笑われてしまった。
そこから、目的地に着くまでは、アメリカ公演の話でもちきりだった。私には初めてでも、エリックは何度か行っているから、街や、会場の事を話してくれた。
「俺、最初は冷やかし程度の客しか来ないって思ってたんだよ」
「私もそう思ってるのよ。アメリカってジャズやソウルが原点って思ってて」
「俺もそう思ってた。だけど、演奏する会場に入って実感したんだ。クラッシックにこの会場を使わせてくれる国。アメリカでもクラッシックは歓迎されているんだって」
「そんなに凄い会場なの?」
「そうさ。俺達も初日にそこで演奏するよ。祥子だって分かるさ」
「分かるといいけど」
「それよりも、俺、凄く楽しみなんだ」
「どうして?」
「仕事だけど、祥子と一緒だ。ちょっとしたバカンスみたいでね」
「あ、そうね」
婚前旅行。そんな単語が頭を過ぎって大慌てになった。
「祥子、どうした? 頭振って」
「ん? 何でも無い。無いから。あっ、どこに行くか分かった」
無意識に頭を振ってたのを誤魔化すのに外を見たら、一面に森が広がってるのに気づく。どこに向かってるのかが分かった。
「ウィーンの森。初めてだろ?」
「初めてよ」
「祥子を連れて来たかったんだ。案内するよ」
車を降りて森の探索だ。時折、静かな中に鳥の声が響き渡る。
エリックは人溜まりを避ける様に私を連れて行く。お陰でフラッシュの光は届かない。ゆっくりと手を繋いで歩いていけた。
「ここは広いからね。今日はここまでだな」
「随分歩いたわね。お腹空いちゃった」
「じゃ、車に戻ろう。お昼用意してきたんだ」
「あら」
「簡単な物さ。買ってきたんだ」
来た道ではなく、寄り道してる様に車迄戻った。
「日当たりのいい所で食べよう」
エリックがパンとチーズやサラダを取り出して並べていく。こういう食事にも慣れた。その場で自分の好きな物を挟んで食べればいい。
「祥子」
「何?」
「俺、祥子と暮らす家の事考えてるんだ」
「あら。気が早いわよ。今はまだ」
「そうだけど。今は恋人の時間を楽しみたいけど、その先で必要だろ?」
「そりゃ、いつかは必要だけど…」
エリックが楽しそうに、パンの包み紙を開いてペンで描き始める。
「小さくても庭があって、日当たりがいい家だな」
「暖かい家がいいわ」
「玄関を入ると暖かいリビングとキッチンが有るんだ」
「いつでも練習出来る部屋も必要よ」
「地下に作ろう。でも、陽が差し込むのがいいね」
「そうね」
「二階に寝室だね」
「自分専用のスペースが欲しいわ。一部屋の半分でいいの。机とちょっとした事が出来る場所」
「そうだね。じゃ、部屋を半分にして祥子と俺で使おう。仕切れる様にして」
「普段は開け放しておくの。あと、逃げ込める部屋も必要よ」
「どうして?」
「ケンカした時に籠 るのよ。本とかCDとか置いておくの。二人のお気に入りを置いておくの」
「ケンカするつもりなのかい?」
「もしかしたらって場合よ。趣味の部屋って事でいいのよ」
「オーケー。なら、その部屋を地下にしよう。練習部屋は1階にして」
どんどん家の間取りが描かれていく。
「二階に小さい部屋をふたつ位必要だね」
「ゲストルーム?」
「ここは子供部屋さ」
「あら」
お二人希望ですか。エリックが私を見て笑うから、私は赤くなっている。
「ゲストルームとしても活躍する部屋なんだ」
「うん」
そればかりは「神のみぞ知る」。エリックも自然任せとして流してくれた。
「あと、階段下にコーダの部屋が欲しいな」
「コーダが一緒だと一人でも寂しくないわ。でも、演奏会で留守にする時が可哀想だわ」
「その時は実家に預けていこう。そうすればコーダも寂しくない」
「そうね」
コーダも一緒の家。実現するのも遠い話じゃないだろう。
パンの包み紙に描かれた私達の家の間取り。エリックが嬉しそうに見直してから畳んだ。
長めのお昼を終えて、また森の中を探索していく。観光客の集団が居る。
「あら、日本語だわ」
「通 の人達用に周遊バスがあるんだよ」
「私も仲間入りできるのね」
「こら。祥子には俺というガイドが居るだろ」
「そうでした」
エリックに手を引っ張られて、観光客から離された。
夕暮れが近づいてきて、車で向かった先は展望台だった。
「ここでこれが必要なんだ。はい」
「ここで?」
「そうだよ」
フルートケースが渡された。私にフルートケースを渡したエリックはバイオリンケースを持って車に鍵をかけた。
「バイオリン?」
「そうさ。今日はバイオリン。チェロじゃなくて悪いけど」
「どこかで演奏会?」
「似た様なものかな」
「 ? 」
「こっちこっち」
エリックが私を引っ張っていく。
目の前に森が広がる。
「凄い。これがウィーンの森」
「その一部だけどね」
「空気が澄 んでいるのね。木の香りもする」
「この時間帯は冷えるけど」
「ううん。気持ちいい」
「祥子、ここで、フルートを吹いてごらん」
「ここで?」
「そうさ。ここで」
このウィーンの森を見ながら…。モーツアルトやベートーベン…。そんな由縁 のある場所を見下ろしながら、フルートを吹く?! クラッシックの大御所 に聞かせるようなものじゃないか。
「そんな事…出来ないわ」
「吹いてごらん」
「ここで出来ないわ」
「吹いてごらん」
「…でも…な、何を?」
「祥子が好きな曲」
「無理よ。ここじゃ駄目よ」
星に願いを…は、ここで吹いてはいけない気がした。
「祥子。このウィーンの森に聴いて貰うと分かる。自分の音が分かる」
「自分の音が分かるの?」
「そうだよ。今の言葉はガド爺が昔、言ったんだ。俺がバイオリンからチェロに変えたのは、ここでチェロを弾いたからだった。今日はバイオリンだけど、俺が先に弾こう」
エリックがバイオリンケースを開けてバイオリンを取り出した。軽く音を出してから、眼を閉じて静かに深呼吸をした。弓が動く。
メンデルスゾーン バイオリン協奏曲 第1楽章
弓がしなる度にエリックの音が広がっていく。森全体に広がっていく。音が果てしなく広がっていく。
(情景が…無い?)
エリックの音は譜面通りだ。なのにその音は深く響いてくる。森の木がエリックを中心に音に共鳴して震えていく。そんな広がりがあった。
森から視線をエリックに向ける。エリックは森の果てに視線を向けていた。その先にある何かを見つめている。そのエリックから眼が離せなかった。エリックが何かと対話している。音で会話している。そんな感じを受けていた。自分の音を愛しているんだ。どこでも自分の音を出せる人なんだ。
羨ましくもあり、悔しくもあった。
私はエリックに促されて躊躇 した。自分の音に自信が無かったから吹けなかったんだ。自分の音を愛する事をしてこなかったんだ。吹きながら自分の音を聞いているのに聴いてこなかったんだ。聴いていたつもりになっていたんだ。
「祥子?」
エリックの声と、周りからの拍手で我に返った。エリックがバイオリンを下ろして私を見ている。
「エリック。最高よ。エリックの音がこの森のずっと、ずっと向こうのどこかまで広がってくのが分かった。そして、エリックがどれだけ自分の音を愛して、大切にしてるのかも。私…自分が悔しい。情けない程悔しい。私、自分の音に責任は持てても愛するなんて思って来なかった。今迄、私…何してきたんだろう」
私は持ってるフルートケースの取っ手を痛い位に握り締めていた。
エリックの手が、取っ手を握り締めてる私の手に触れる。
「祥子、君は自分で気づいてないだけだよ。祥子の音は君にちゃんと愛されているよ」
「そんなはず無い。だって、今、気づいたんだもの」
「祥子、君はフルートを吹いていて「この音を響かせたい。この音を皆に聴いて貰いたい」って思ってるだろ?」
「…うん」
「自分の音が好きだからだよ。自信を持っていいんだよ。祥子の音は俺と同じ音だよ」
「同じ?」
「そうだよ。…もう吹けるかな?」
「…うん。でも…一緒に」
「いいよ」
フルートケースを開く。周りに何人も人が居たのに気づく。私がフルートケースを開けたから、移動しようとしていた人達が立ち止まっている。
その視線にさらされながら、フルートを組み立てる。周りを見ないようにしてエリックの隣に立った。
ヨハン・シュトラウス 美しく青きドナウ 作品314
エリックの音に合わせていく。今は譜面に忠実に。森の木に。この森全体に広がる様に丁寧に音を出す。
(音が聴こえる)
フルートの音だ。森の木々が静かに聴き入ってる錯覚に陥っている。
もしかすると…自分の音に聴き惚 れているのかもしれない。
エリックの音も聴き取れている。この音も好きだ。チェロ同様に、私の音を壊さずに包んでくれる。
「エリック、ありがとう。今度は一人で吹いてみる」
エリックが笑ってバイオリンをケースに置いた。今度は一人で。フルートの音だけを、このウィーンの森に響かせて…聴かせたい。
さっきのエリックの様に、眼を閉じた。ゆっくり深呼吸をして眼を開け、静かに息を吸ってフルートに吹き込んでいく。
シューベルト 「アヴェ・マリア」
フルートの音だけが森に広がっていく。音の波が広がっていくのが見える気がする。広がっていくその先には…森の果てには…何があるのだろう。
吹きながら私は驚いている。
厳 かに森の隅々迄広がっていったと思ったら、上へ昇っていった。音の響きが上へ上へと昇っていった。大聖堂で演奏した時に似た感じを受けたが、遮 る物がない空間に私の音が何処までも昇っていく。
こんな感触は初めてだ。ゾクゾクしてくる最高な気分。
私の音はまだ行く先があるんだ。
ゆっくり最後の一音を消していく。そして最後の一曲。
ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 新世界より 第2楽章「家路」
情景は載せない。今は私の音だけを響かせる。この曲を奏でた音がガド爺を捕まえたって聞いた。この曲から私は始まったんだ。
私はここで吹いていく。エリックという最高の音を奏でるパートナーと共に。
音が止 んで拍手が耳に入る。拍手よりもエリックのほうが気になった。
エリックは嬉しそうに眼を細めて一言くれる。
「最高だ」
「ありがとう。ガド爺の言葉の意味、分かったわ」
「さて、退散しようか。かなり写真撮られてるからね」
「あら」
集まっていた人達が拍手をくれて、その間にフラッシュも光っていた。
エリックと二人で頭を下げてから退散する。
☆
車の中に入って、エンジンが掛かる。追い駆けてきた人達を振り切る様に車が走った。
その車が途中で止まる。
「エリック、どうしたの?」
「祥子…俺」
いきなり私の腕が引っ張られてキスされた。強引なキスで驚いてる私の顔を見て、エリックが口を開く。
「祥子…俺、祥子を…」
「…」
エリックの表情から察しがついた。何も言わない私にもう一度キスしてから、車がモーテルに入る。
エリックが私に触れて一瞬止まる。
種の保存…私達は罪を犯そうとしている。お互いにそう思ったのかもしれない。だけど、人の種としては罪じゃない。私はエリックを愛してるし、エリックも私を愛してくれている。
「Ich liebe Sie (愛してる)」
「Ich liebe Sie auch (私も愛してる)」
ゆっくりと唇が重なった。
- DUO FIN -
祥子が奏でる「アヴェ・マリア」を聴いて俺は驚く。
祥子の音は神に祝福されている。そんな音を創りだしてきた。
その音に応 えたい。主旋律ではなく伴奏で応えたい。そう俺は思っていた。
これにて終焉となります。お付き合いいただきありがとうございました。
木葉
「何かあったのかしら?」
「さぁ。なんだろうね」
シドの部屋を叩いて中に入る。机で紙を読んでたシドが顔を上げる。
「待ってましたよ。どうぞ掛けて」
「「 はい 」」
シドの前の椅子に座ると、シドが私とエリックに紙を渡す。眼を通す。
「アメリカで公演ですね。でも、これ」
私がシドにそう言ったら、シドが笑ってペンを差し出した。
「いい話でしょう。サインする価値ありますよ」
ペンを受け取ったはいいけど、サインをしていいのかエリックを見る。エリックも驚いて読み返してから私を見た。
「シド、これは俺達の…」
「大丈夫ですよ。お二人のスポンサーにも了解を得ています。だから大手を振って演奏出来ますよ」
「なら、祥子、サインしよう」
「うん」
アメリカ大手の企業が私とエリックを招いての公演依頼。アメリカでクラッシックって
「祥子にはいい機会ですよ。世界に祥子の音を響かせましょう」
(世界はまだ広いんだ)
サインする手が震えた。日本からウィーンに来て世界に出たと思っていたのは間違い。ウィーンはその一歩だった。エリックだってこの一歩を越えて来てる。私だって越えていい筈だ。
ペンをエリックに渡すと、エリックは笑って頷いた。
「お二人で移動するのは初めてですね」
「「 はい 」」
「少し羽を伸ばしてもいいですよ」
「シドったら」
「気兼ねなく二人で楽しんできますよ」
赤くなった私を見てエリックは笑った。
シドから日程表と楽譜を貰って、部屋を出た。
「アメリカなんて初めてだわ」
「俺がエスコートするから安心していいよ」
「うん」
「アメリカで成功したら、オーストラリア、そして、祥子の国、日本や中国、アジアだ。アフリカだって周らなきゃ」
「エリック。今からプレッシャーかけないで。今は目先のアメリカに集中しなきゃ」
「大丈夫さ。何たって、俺とデュオが入ってる。誰にも邪魔されずに堂々と演奏出来る」
曲目を指さしてエリックが私を見る。
「そうね。うん。それはとても楽しみだわ。だけど」
「今から緊張かい?」
「…えぇ」
「なら、今度の休みにとっておきの場所に連れていくから」
「とっておきの場所?」
「そうさ。楽しみにしてて。じゃ、また後で」
「うん。 ? 」
その後もエリックの言う「とっておきの場所」がどこだか聞き出そうとしたが、上手くはぐらかされてしまう。
そして、休みがやってくる。
☆
朝早くに呼び鈴が鳴って、エリックが迎えに来た。
「祥子、もう出かけられるかい? あ、そうそう。フルートを持って来るんだよ」
「フルート?」
「そうさ。それがなきゃ駄目なんだよ」
「分かったわ」
フルートケースを持ってアパートを出ると、エリックが車の前に立っている。
「あら、車?」
「そうさ。俺だって運転位出来るさ。今は乗る暇がないから、久々の運転になるけど」
「そういうのをサンデードライバーって言うのよ。お休みの日しか運転しない、少し危なかしい運転手って意味なのよ」
エリックが助手席のドアを開けて私を車に乗せると、もう逃げられないようにドアを閉めた。
「俺、学生の時は毎日運転してたから大丈夫さ。でも、まぁ、安全運転するよ」
「そう頼むわ」
エリックが運転席に乗り込んで、隣で緊張してる私の顔を見て、笑いながら言った。
車はウィーン郊外に向かっている。
「エリック。そろそろ教えて。どこに行くの?」
「着けば分かるさ。とてもいい所さ」
「私を驚かせるつもりね」
「驚くよりも感動するさ」
「感動するの?」
「あぁ、そうさ。祥子なら感動出来る」
「期待に沿えるよう頑張るわ」
そう答えたらエリックに笑われてしまった。
そこから、目的地に着くまでは、アメリカ公演の話でもちきりだった。私には初めてでも、エリックは何度か行っているから、街や、会場の事を話してくれた。
「俺、最初は冷やかし程度の客しか来ないって思ってたんだよ」
「私もそう思ってるのよ。アメリカってジャズやソウルが原点って思ってて」
「俺もそう思ってた。だけど、演奏する会場に入って実感したんだ。クラッシックにこの会場を使わせてくれる国。アメリカでもクラッシックは歓迎されているんだって」
「そんなに凄い会場なの?」
「そうさ。俺達も初日にそこで演奏するよ。祥子だって分かるさ」
「分かるといいけど」
「それよりも、俺、凄く楽しみなんだ」
「どうして?」
「仕事だけど、祥子と一緒だ。ちょっとしたバカンスみたいでね」
「あ、そうね」
婚前旅行。そんな単語が頭を過ぎって大慌てになった。
「祥子、どうした? 頭振って」
「ん? 何でも無い。無いから。あっ、どこに行くか分かった」
無意識に頭を振ってたのを誤魔化すのに外を見たら、一面に森が広がってるのに気づく。どこに向かってるのかが分かった。
「ウィーンの森。初めてだろ?」
「初めてよ」
「祥子を連れて来たかったんだ。案内するよ」
車を降りて森の探索だ。時折、静かな中に鳥の声が響き渡る。
エリックは人溜まりを避ける様に私を連れて行く。お陰でフラッシュの光は届かない。ゆっくりと手を繋いで歩いていけた。
「ここは広いからね。今日はここまでだな」
「随分歩いたわね。お腹空いちゃった」
「じゃ、車に戻ろう。お昼用意してきたんだ」
「あら」
「簡単な物さ。買ってきたんだ」
来た道ではなく、寄り道してる様に車迄戻った。
「日当たりのいい所で食べよう」
エリックがパンとチーズやサラダを取り出して並べていく。こういう食事にも慣れた。その場で自分の好きな物を挟んで食べればいい。
「祥子」
「何?」
「俺、祥子と暮らす家の事考えてるんだ」
「あら。気が早いわよ。今はまだ」
「そうだけど。今は恋人の時間を楽しみたいけど、その先で必要だろ?」
「そりゃ、いつかは必要だけど…」
エリックが楽しそうに、パンの包み紙を開いてペンで描き始める。
「小さくても庭があって、日当たりがいい家だな」
「暖かい家がいいわ」
「玄関を入ると暖かいリビングとキッチンが有るんだ」
「いつでも練習出来る部屋も必要よ」
「地下に作ろう。でも、陽が差し込むのがいいね」
「そうね」
「二階に寝室だね」
「自分専用のスペースが欲しいわ。一部屋の半分でいいの。机とちょっとした事が出来る場所」
「そうだね。じゃ、部屋を半分にして祥子と俺で使おう。仕切れる様にして」
「普段は開け放しておくの。あと、逃げ込める部屋も必要よ」
「どうして?」
「ケンカした時に
「ケンカするつもりなのかい?」
「もしかしたらって場合よ。趣味の部屋って事でいいのよ」
「オーケー。なら、その部屋を地下にしよう。練習部屋は1階にして」
どんどん家の間取りが描かれていく。
「二階に小さい部屋をふたつ位必要だね」
「ゲストルーム?」
「ここは子供部屋さ」
「あら」
お二人希望ですか。エリックが私を見て笑うから、私は赤くなっている。
「ゲストルームとしても活躍する部屋なんだ」
「うん」
そればかりは「神のみぞ知る」。エリックも自然任せとして流してくれた。
「あと、階段下にコーダの部屋が欲しいな」
「コーダが一緒だと一人でも寂しくないわ。でも、演奏会で留守にする時が可哀想だわ」
「その時は実家に預けていこう。そうすればコーダも寂しくない」
「そうね」
コーダも一緒の家。実現するのも遠い話じゃないだろう。
パンの包み紙に描かれた私達の家の間取り。エリックが嬉しそうに見直してから畳んだ。
長めのお昼を終えて、また森の中を探索していく。観光客の集団が居る。
「あら、日本語だわ」
「
「私も仲間入りできるのね」
「こら。祥子には俺というガイドが居るだろ」
「そうでした」
エリックに手を引っ張られて、観光客から離された。
夕暮れが近づいてきて、車で向かった先は展望台だった。
「ここでこれが必要なんだ。はい」
「ここで?」
「そうだよ」
フルートケースが渡された。私にフルートケースを渡したエリックはバイオリンケースを持って車に鍵をかけた。
「バイオリン?」
「そうさ。今日はバイオリン。チェロじゃなくて悪いけど」
「どこかで演奏会?」
「似た様なものかな」
「 ? 」
「こっちこっち」
エリックが私を引っ張っていく。
目の前に森が広がる。
「凄い。これがウィーンの森」
「その一部だけどね」
「空気が
「この時間帯は冷えるけど」
「ううん。気持ちいい」
「祥子、ここで、フルートを吹いてごらん」
「ここで?」
「そうさ。ここで」
このウィーンの森を見ながら…。モーツアルトやベートーベン…。そんな
「そんな事…出来ないわ」
「吹いてごらん」
「ここで出来ないわ」
「吹いてごらん」
「…でも…な、何を?」
「祥子が好きな曲」
「無理よ。ここじゃ駄目よ」
星に願いを…は、ここで吹いてはいけない気がした。
「祥子。このウィーンの森に聴いて貰うと分かる。自分の音が分かる」
「自分の音が分かるの?」
「そうだよ。今の言葉はガド爺が昔、言ったんだ。俺がバイオリンからチェロに変えたのは、ここでチェロを弾いたからだった。今日はバイオリンだけど、俺が先に弾こう」
エリックがバイオリンケースを開けてバイオリンを取り出した。軽く音を出してから、眼を閉じて静かに深呼吸をした。弓が動く。
メンデルスゾーン バイオリン協奏曲 第1楽章
弓がしなる度にエリックの音が広がっていく。森全体に広がっていく。音が果てしなく広がっていく。
(情景が…無い?)
エリックの音は譜面通りだ。なのにその音は深く響いてくる。森の木がエリックを中心に音に共鳴して震えていく。そんな広がりがあった。
森から視線をエリックに向ける。エリックは森の果てに視線を向けていた。その先にある何かを見つめている。そのエリックから眼が離せなかった。エリックが何かと対話している。音で会話している。そんな感じを受けていた。自分の音を愛しているんだ。どこでも自分の音を出せる人なんだ。
羨ましくもあり、悔しくもあった。
私はエリックに促されて
「祥子?」
エリックの声と、周りからの拍手で我に返った。エリックがバイオリンを下ろして私を見ている。
「エリック。最高よ。エリックの音がこの森のずっと、ずっと向こうのどこかまで広がってくのが分かった。そして、エリックがどれだけ自分の音を愛して、大切にしてるのかも。私…自分が悔しい。情けない程悔しい。私、自分の音に責任は持てても愛するなんて思って来なかった。今迄、私…何してきたんだろう」
私は持ってるフルートケースの取っ手を痛い位に握り締めていた。
エリックの手が、取っ手を握り締めてる私の手に触れる。
「祥子、君は自分で気づいてないだけだよ。祥子の音は君にちゃんと愛されているよ」
「そんなはず無い。だって、今、気づいたんだもの」
「祥子、君はフルートを吹いていて「この音を響かせたい。この音を皆に聴いて貰いたい」って思ってるだろ?」
「…うん」
「自分の音が好きだからだよ。自信を持っていいんだよ。祥子の音は俺と同じ音だよ」
「同じ?」
「そうだよ。…もう吹けるかな?」
「…うん。でも…一緒に」
「いいよ」
フルートケースを開く。周りに何人も人が居たのに気づく。私がフルートケースを開けたから、移動しようとしていた人達が立ち止まっている。
その視線にさらされながら、フルートを組み立てる。周りを見ないようにしてエリックの隣に立った。
ヨハン・シュトラウス 美しく青きドナウ 作品314
エリックの音に合わせていく。今は譜面に忠実に。森の木に。この森全体に広がる様に丁寧に音を出す。
(音が聴こえる)
フルートの音だ。森の木々が静かに聴き入ってる錯覚に陥っている。
もしかすると…自分の音に聴き
エリックの音も聴き取れている。この音も好きだ。チェロ同様に、私の音を壊さずに包んでくれる。
「エリック、ありがとう。今度は一人で吹いてみる」
エリックが笑ってバイオリンをケースに置いた。今度は一人で。フルートの音だけを、このウィーンの森に響かせて…聴かせたい。
さっきのエリックの様に、眼を閉じた。ゆっくり深呼吸をして眼を開け、静かに息を吸ってフルートに吹き込んでいく。
シューベルト 「アヴェ・マリア」
フルートの音だけが森に広がっていく。音の波が広がっていくのが見える気がする。広がっていくその先には…森の果てには…何があるのだろう。
吹きながら私は驚いている。
こんな感触は初めてだ。ゾクゾクしてくる最高な気分。
私の音はまだ行く先があるんだ。
ゆっくり最後の一音を消していく。そして最後の一曲。
ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 新世界より 第2楽章「家路」
情景は載せない。今は私の音だけを響かせる。この曲を奏でた音がガド爺を捕まえたって聞いた。この曲から私は始まったんだ。
私はここで吹いていく。エリックという最高の音を奏でるパートナーと共に。
音が
エリックは嬉しそうに眼を細めて一言くれる。
「最高だ」
「ありがとう。ガド爺の言葉の意味、分かったわ」
「さて、退散しようか。かなり写真撮られてるからね」
「あら」
集まっていた人達が拍手をくれて、その間にフラッシュも光っていた。
エリックと二人で頭を下げてから退散する。
☆
車の中に入って、エンジンが掛かる。追い駆けてきた人達を振り切る様に車が走った。
その車が途中で止まる。
「エリック、どうしたの?」
「祥子…俺」
いきなり私の腕が引っ張られてキスされた。強引なキスで驚いてる私の顔を見て、エリックが口を開く。
「祥子…俺、祥子を…」
「…」
エリックの表情から察しがついた。何も言わない私にもう一度キスしてから、車がモーテルに入る。
エリックが私に触れて一瞬止まる。
種の保存…私達は罪を犯そうとしている。お互いにそう思ったのかもしれない。だけど、人の種としては罪じゃない。私はエリックを愛してるし、エリックも私を愛してくれている。
「Ich liebe Sie (愛してる)」
「Ich liebe Sie auch (私も愛してる)」
ゆっくりと唇が重なった。
- DUO FIN -
祥子が奏でる「アヴェ・マリア」を聴いて俺は驚く。
祥子の音は神に祝福されている。そんな音を創りだしてきた。
その音に
これにて終焉となります。お付き合いいただきありがとうございました。
木葉
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