#24 「好き」の情景 <祥子視点>
文字数 8,283文字
本番の朝をこんなに気持ちよく迎えたのは初めてだ。エリックの電話の後、月を見ていたらいつの間にか眠りに落ちていた。
「今日は上手くいきそう。エリックのお陰ね」
朝御飯を食べて、荷物をまとめて家を出る。鍵を掛けてたら、一番奥の扉が開いた。一番奥の人には初めて会う。
「おは…あら?」
挨拶しようとしたら、開いた隙間から体が出てたのに、私を見て慌てるように扉の内側に引っ込んだ。
「忘れ物でもしたのかしら」
逃げる様に閉まった戸を見ながら、エドナに会ったら聞いてみようと思った。
暗そうな人だったな。…暗そうなんて判断しちゃ駄目だ。私なんかは真面目すぎるとか堅物とか言われてるだろうし。一番言われてるのは男好きか。
頭を振って追い出した。
いい朝だったのにケチがついた。アパートを出たら声が掛かる。
「祥子、おはよう」
「ミリファ、おはよう」
「どうしたの? 浮かない顔してる」
「ミリファは知ってる?」
「何を?」
「ここに住んでる女性」
「知ってるわよ。ここにはエドナとあと、えっと。ユンナ・ハンブルが居るわよ」
「ユンナ?」
「そうよ。ちょっと変わってるけど優しい女性よ」
「そう。なら、私、嫌われちゃったのかなぁ」
「何かあったの?」
「そのユンナって人が私の顔見て、家に引っ込んじゃったのよ」
ミリファが私の肩を叩いた。
「気にしなくていいわよ。あの人初めての人に無愛想だから。そのうち仲良くなれるわよ」
「そうかな?」
「そうよ。気にしなくていいの」
でも、挨拶位は気軽にしたい。
☆
直接劇場に入り、楽屋に移動して、自分の小部屋に入る。この小部屋は、あの時の部屋だ。
「ここに硝子のフルートがあったんだ」
机の上を無意識に撫ぜていた。
「今はこっち」
フルートを出して組み立てる。軽く音を出しておく。昨日書き写した楽譜を並べて最終チェックだ。
早めにミリファとお昼を食べて劇場に戻り、楽譜をセットしに行く。舞台では調律をしてる人や軽く曲を弾いている人もいる。私も音を出していく。
(あ。響く。凄く気持ちいい響きだ)
VIP席で聴いていた音を思い出す。この響きが届いているんだ。
お昼の時報が鳴り、開演迄2時間となる。服を着替えにいく。
定期演奏会の場合、黒基調のドレスかスーツなのだが、今回はカルシーニから指示がでていた。私は赤か黄色のドレス、他の人はシャツもドレスも全身黒と。
カラードレスはゲストで呼ばれていたから着慣れている。だけど、今回は楽団員なのに。
レンタルショップから真っ黄色なドレスと靴が届いている。
「はぁ。ここまで来て目立たせる気なのかしら」
ぼやきながら黄色で身をまとって小部屋に移動する。周りの視線が刺さる。
緊張が始まる。
☆
時間になる前にトイレに行っておかないと。
小部屋を出て楽屋を突っ切ってると、クスクス笑いと共に耳に入って来る。
「娼婦のおでましよ」
「緊張してるわね」
「ガチガチじゃない」
「あんなんで大丈夫なのかしら」
「大それた行動する割に小心者なのね」
「顔真っ青じゃない」
雑誌を読んでいたから、この手のドイツ語は分かる様になっていた。分かっても、反撃する言葉が出ないから、悔しくても聞こえなかった振りをして楽屋を突っ切る。
(あんた達はなんで緊張してないのよ!)
言いたいのを我慢して、握り拳を作ってた私の耳に誰かの声が入ってくる。
「君達は神経が図太そうだね。他人の悪口言う位だもんな」
クスクス笑いが途切れて口早に言い訳が始まる。
「えっ? あ、ヘンリー。私達別にねぇ」
「悪口なんて言ってないわよ」
「そうよ。祥子が緊張しすぎ、って話してたダケよ」
「へぇ。他人 の心配出来る位なんだ。なら、次の演奏会で君達のソロを推しておかなきゃ」
「えっ?! やだ! ソロなんて無理よ」
「ヘンリーったら、冗談を間に受けないでよ」
「そうよ。それに、祥子には通じてないわよ」
「通じてなくても冗談でもそんな事言うもんじゃないだろ。君達が今日の祥子だったらどうなんだ? きっとここに来れなかったんじゃないか?」
「「「 … 」」」
「祥子は最後迄独りでメインなんだ。それも独りだけ目立つ色着せられて。緊張して当たり前だ。君達も自分の事を構ったほうがいい」
ヘンリーが私をかばってくれたようだ。それが嬉しくなっている。
私は楽屋の戸を閉めて廊下に出た。
廊下に出た私はエリックと顔を合わしている。
(ヘンリーに対して嬉しく思った事を隠さなくちゃ)
何故かそんな後ろめたさがあった。エリックは私を見て少し赤くなった。
「祥子、黄色も似合うね」
「ありがとう」
「あれから眠れた?」
「うん。初めてぐっすり眠れた感じ」
「なら、良かった」
「エリックは今来たの?」
「そう。シドに捕まっちゃってね。今、楽譜をセットしてきたんだ。祥子は?」
「最後の気合入れに」
「 ? 」
トイレなんて言えない。
「じゃ、後でね」
「あぁ」
不思議そうな顔をしながらエリックは楽屋に入っていった。
私はトイレに向かう。トイレの鏡で、緊張しきってる顔とご対面だ。
「これじゃ、言われちゃうよ」
顔を引き伸ばして笑ってみる。
「うわぁ、ガチガチだ。おっと、また粉はたかなきゃ」
楽屋の小部屋に戻って、顔の修正をするハメになった。
☆
楽屋に音が鳴り響く。楽団員が移動始める。私は次の音まで大丈夫だ。
楽屋の雑踏が静まって暫くして音が鳴り響く。各小部屋の戸が開く音が響いてきた。
「行かなきゃ」
大きく深呼吸をして戸に手を掛けた。
カタカタカタ
手が震えてる。
「いつもの事。いつもの事」
手を振ってから戸を開けた。皆の後姿を追い駆けて行く。
…緊張が加速してる…
エリックの背中が見えた。
「何?」
「…」
驚いたエリックが後ろを振り返り私を見る。
「祥子?」
名前を呼ばれて自分がとってる行動に気づく。私はエリックの袖を引っ張っていた。慌ててエリックの袖を離す。
「…ご、ごめんなさい」
エリックが私を見て笑う。
「緊張しすぎだな」
「…う、うん」
「俺も緊張してる」
そう言って差しだすエリックの右手の指が小刻みに震えてる。
「一緒だね」
「一緒だ」
エリックがその右手を私の肩に置いた。
「最高の音を聴かせなきゃ。祥子も」
「うん」
ポンと肩が叩かれた。エリックは顔をぐるりと辺りを伺うように廻し、手を差し出す。
「ほら、行こう」
「え? …うん」
エリックが私と手を繋いで引っ張っていく。舞台袖で繋がっていた手が離れた。
エリックが私を見てから、舞台に向かう。そして、私も同じ様に。
☆
私が舞台に出て行くと、観客席のざわめきが大きくなった気がした。観客で一杯だ。
カノンの姿が眼に入った。唾を飲み込んでる私がいる。
(この中の何人が音楽を識 っている人なんだろう)
そのざわめきの中、征司が席に着き、カルシーニが入ってくる。
カルシーニが観客に礼をして、楽団員の注目を促す。君達も聴いておくように。鋭い視線を行き渡らせる。
トン
カルシーニの合図で私はゆっくりと立ち上がる。ざわめきが途切れた。視線のムシロだ。視線が観客からも楽団員からも注がれてくる。
譜面に視線を止める。私の好きな様に進められる。
私の音を届けるんだ。
フルートに息を吹き込む。この一息目で緊張から開放される。この瞬間が好きだ。
バッハ 無伴奏フルート パルティータ
♪♪♪ ♪♪♪
今日はようこそお越し下さいました。この場を借りて最近噂の真相をお教えします。事の始めは私がここに来てからでしたね。突然の抜擢 で、皆さんと同じ様に、いや、それ以上に私のほうが驚いていたんです。ここ、音楽の都と呼ばれるウィーンで、知り合いのいないこの土地で、一人きり。唯一の手段が音だけだった。その音で私は友達を作る事が出来た。それだけでも嬉しかったんです。聞いて下さい。本当は何なのか。聞いて下さい。本当の私を。これから皆さんにお話ししましょう。
フルートを口から離した時にカルシーニの左手を見た。握られてる。カルシーニ自身が笑う事は無いんだが、満足しているようだ。
だけど、観客から拍手が無い。それは、何を意味するのだろう。失敗したのだろうか。
カノンの座ってる場所に視線を飛ばす。観客席は薄暗くてカノンの様子が分からなかった。
(失敗…だった?)
トントントン
うっかりしてた。カルシーニが早く席に戻れと言っている。逃げる様に移動する事になった。
リサの顔が「大丈夫。成功よ」と目配せしてくれたのに、実感がない。
マーラー 第9交響曲
皆で一緒に奏でるほうが楽しい。音を合わせて繋げていく。そしてソロがやってくる。
私はここで出来た友達に迷惑を掛けていたんですね。一晩私の看病をしてくれてた。それが真実。帰りに一緒になって送って貰った。それが真実。一緒に食事して、音を診て貰った。それが真実。ごく当たり前に友達と過ごしていたのが、噂になっている。本当と嘘は表と裏。この嘘は誰が流したの? 嘘の大元は誰? 私を辱 めるのは誰? 嘘つきの罪は重いのよ。嘘を信じる人も同罪よ。今更謝っても許さないから。この罪は償ってもらうから覚悟しなさい。逃がしはしない。どこまでも追いかけてやる。
死の恐怖をベースに漂わせ、どこまで伝わるかは分からないけど、私は音を奏でている。
カルシーニが棒を止めて静まった時、大きな拍手が上がった。
この拍手が何に向けられてるかは分からないが、ひとつ山を越えた。そんな気がした。
カルシーニが引っ込んでる間に、席を移動する。今度は前でも座って吹ける。征司の隣に席がある。
カルシーニが入ってくる。私達四人に視線を走らせ、私に指示が飛ぶ。
(立ちなさい?)
渋々立った。最後迄試練を与えるつもりなのか。
棒が動く。
モーツアルト フルート四重奏曲ニ長調
最初に誘いを掛けてくるのはヘンリーだ。
「ねぇ、今晩一緒しようよ」
「お断りよ」
「グラスを傾けて、夜を楽しもうじゃないか」
「結構よ」
「俺となら一晩いい夢をみさせてあげるよ」
「一晩なんていらないわ」
次に征司が誘いをかけてくる。
「俺で力になれることがないか?」
「自分で何とかするわ」
「君は助けを求めているじゃないか」
「助けじゃないのよ」
「俺の所に来たいんだろう」
「行きたくないわ」
最後にエリックが誘いをかける。
「俺じゃだめか?」
「ごめんなさい」
エリックの誘いに負けてる私が居る。頑 なに退 けるイメージが上手く出来ない。リハの時は上手く出来てたのに。
「守ってあげるよ」
「ごめんなさい」
「俺が祥子の全てを守るから」
「…」
エリックの誘いに私の名前が入ってくる。そんな感じを受けている。
エリックの音に私の音が惹きこまれてしまう。その瞬間、
「どうして? 君は娼婦だろ? 誰でもいいんだろ? たった一晩だけじゃないか」
三人の音が響き、私は引き戻された。
「娼婦? 私が娼婦?」
「そうじゃないのか? 快楽さえあればいいんだろ?」
「違うわ! そんなのいらない」
「それは嘘だ。君はその時だけ満たされれば満足してるくせに」
「嘘じゃないわ。私を好きになって欲しいのよ」
「娼婦のくせに好きになって欲しいだって?」
「私は娼婦じゃない」
「人肌が恋しくなって、直ぐについてくるくせに」
「誰でもいいなんて馬鹿な事はしないわよ」
「強がることはない」
「強がってなんかないわ。私を見て欲しいのよ。私を愛して欲しいの」
「君を愛する?」
「私を愛せないなら…こないで!」
「…」
静かに三人が退 いていくはずなのに、エリックの音(声)が静かに残る。
「なら、祥子の全てを見せて。俺は祥子を守ってみせる。好きだ」
エリックの音が私の音を惹き寄せるのが分かる。惹き寄せられて、その音が心地よく耳に届いてくる。エリックの音を掴めて嬉しくなっている。ドキドキしている。
「祥子…好きだ」
「エリック…好きよ」
音がひとつに重なった気がする。
カルシーニが棒を止める。私はエリックに視線を向ける。「好き」と言い合った訳じゃない。そんな情景を受け取っただけなのに、私は「好き」をエリックに返していた。
観客から寄せられる拍手の音よりも、エリックの音が私の耳に強く残されていた。
カルシーニが私達4人を立たせ、一緒に礼をした。
「祥子、よくやりました」
カルシーニが私の手をとって軽く上に挙げた。
「あなたを見くびっていたようです。もう、大丈夫ですよ」
カルシーニが私を認めた。それも驚きだ。
カルシーニが大きな花束を受け取る。会場から手拍子が鳴り響いてる。
アンコールの曲目は聞いていない。征司もエリックもヘンリーだって。
カルシーニが花束を私に押し付ける様に渡す。
「さて、私がトドメを刺しておきましょう。君達は座って休んでて下さい」
カルシーニが棒をとって上げた。私達4人以外がビシッと構えた。
棒が鋭く動く。
ニコライ・リムスキー=コルサコフ 熊蜂の飛行
会場内が熊蜂で一杯になった。
これ以上ゴシップを書いたらトドメを刺しに行くぞ。
カルシーニのおじさんに感動してしまった。嫌なおじさんだとばかり思っていたけど、根はいい人だったんだ。気にくわない所が沢山あるけれど。
そしてひとつ気づいた。
(もしかして、私、蜂?!)
☆
楽屋に戻ると拍手で迎えられた。
そして。
「祥子! よくやった!」
「きゃぁ!」
ガド爺が来てたとは思いもしなかった。外の仕事で出てた筈。でも、今、お約束の抱きつきで私を襲っている。
「ガド爺! だ、だからぁ!」
「もう大丈夫じゃ。よくここまで戻ってきたな。先日よりも数倍も最高の音じゃ」
力一杯抱き締められて、痛いとかじゃなく、私は嬉しくなっている。
この人にお世話になりっぱなしだった。それを今、感謝の気持ちを込めて返す事が出来る。
「ガド爺、ありがとうございました。大丈夫です。もう負けてられません」
ガド爺が私から腕を解いて笑う。
「そうじゃ、そうじゃ。ワシの手から飛んでいったか…。ちと寂しくなるのぉ」
「大丈夫ですよ。ガド爺のリクエストは最優先ですから」
「なら良しじゃ。それと」
ガド爺が私の耳に顔を近づけた。
「カノン婆さんが祥子を独り占めするつもりじゃぞ。良かったな」
「はいっ!」
シドが私を呼びに来る。小さな部屋にカノンがいた。大きな花束が私に差し出される。
「祥子、最高でしたよ」
「ありがとうございます。…って?」
カノンが英語で喋っている。
「私だって英語位喋れるのよ」
「なら、今迄どうして?」
「あなたの人間味を見ていたのよ」
「人間味?」
「そう。人に対してどう振舞うのか見せて頂いたのよ。ごめんなさいね」
「…いえ」
ガド爺の回りって一癖もニ癖もある人ばかりだ。
椅子に座るように言われ、花束をテーブルの上に置いて、カノンの前に座った。シドが私の隣に座る。
楽団との契約にもなるから、最初にカノンとシドが話し始める。一通りの書類の行き来があり、私の前に紙が出される。英語で書かれていて、横に日本語が書かれている。
「納得できたらサインを頂戴」
カノンが言った。
私は日本語を読んでから英語の記述も読んでいく。騙されたなんて事にならない為にだ。
「ひとつだけいいですか?」
「いいわよ」
「ガド爺のリクエストを優先にしたいのですが、いいでしょうか?」
「駄目と言ったら?」
「このお話は無かった事で構いません」
カノンが笑う。
「ガドリエル爺さんの為に、この私の話を断るの? 何故?」
「ガド爺は、私の恩人だから。彼がいて今、私がここに居られるからです」
「なら、その条件は呑まなくてはならないわね」
「ありがとうございます」
「いいのよ。ガドリエルは私にとっても友達ですから。では、確認するわよ。祥子の活動はガドリエルの次に私が優先よ」
「はい」
「私のほうからもひとつあるけどいいかしら?」
「はい」
「あなたに何件かスポンサーの話が来ると思います。来たら直ぐ私に話を通して頂戴」
「 ? さしつかえなければ理由を聞いていいですか?」
「企業間のわだかまりよ。仲良しとそうでないのがあるのよ」
「わかりました。必ず楽団を通しますからそれはお約束できます。ですよね? シド」
「はい。必ずご連絡差し上げます」
「宜しくお願いするわね」
「あ。既に契約している企業が日本にあるのですが」
「それは知っているわ。大丈夫よ。そのまま契約期間が終わるまで付き合っていてもいいわよ」
「ありがとうございます。ところで、この契約書に契約期間が記載されていないのですが」
「あなたがフルートを吹かなくなるまで、でどうかしら?」
「いいんですか?」
「いいのよ。今日、皆で聴きにきたのよ」
カノンが「皆」と強く言った。一族が聴きにきていたって事だろう。
「私が居なくなったら、私の子供が、その孫が、あなたの力になりますよ」
契約期間の箇所にカノンが書き足してサインと日付を書いた。
「ありがとうございます」
「音楽は心を和ませて豊かにしてくれるのよ。人間には心があるんですから」
「はい」
「今までの変な噂は私のほうで消しておきますから。安心してらっしゃい」
「ありがとうございます」
「ところで、祥子、あなたはエリックの事を好きなのかしら?」
「え?」
「エリックの事、好きなの?」
カノンに問われてエリックとの事が頭を駆け巡った。
「はい。エリックに惹かれています」
「そう」
カノンが笑った。私は慌てて契約書にサインを書こうとしてペンを取り落とした。
私はエリックに惹かれている、と素直に言える。それに驚いていた。
ゆっくりサインを書いていった。
ふと横を見るとシドが笑っている。
☆
着替えて貴重品を取りに行ってから楽屋の小部屋に戻ると、机の上にカードが置いてあった。
先にお店に行ってるわ。エリックと一緒に来てね。
ミリファからだ。
フルートをケースにしまう。小部屋から出てもエリックの姿は無い。でも、楽屋にエリックのチェロが置いてある。エリックの小部屋を覗いてみる。
「居た」
エリックが机を背に椅子に座っていた。何か考え込んでる。私は気づかせようとして困っている。驚 かすのも良さそうなんだけど。
「普通にしなきゃ」
戸を叩く。エリックが音に気づいて顔を上げたから戸を開けた。
「祥子。戻ってたのか」
「待たせちゃってごめんなさい」
「その顔はカノンと上手くいったんだね」
「うん」
「良かったな」
「ありがとう」
「じゃ、行こうか」
「うん」
ゆっくりとエリックが椅子から立ち上がり、私が開けてた戸を大きく開けて部屋を出た。
チェロの傍に行く。
「これ練習所に持ってかなきゃならないんだ」
「傍だもんね。手伝うね」
「大丈夫だよ」
偶然、エリックの手と触れた。お互い手を引っ込めた。
「祥子」
「何?」
「モーツアルトの時…あ、何でもない」
「何?」
「何でもないから」
そう言って、エリックはチェロを持った。
「祥子の音、最高だった」
「ありがとう。エリックに言われると嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。うっかりエリックの音に惹き込まれちゃうかと思った。危なかったんだから」
「そう? 俺は祥子が凄いと思った」
「私が?」
エリックが笑って頷いた。私達は練習所のチェロパートの部屋に入る。チェロを置いたエリックが戻ってくる。
「男三人を手玉にとったもんな」
「手玉にとった、ってひどい」
「見事だった。皆、主張できて退 いていけた」
「皆? エリックは退いていかなかったよね?」
エリックが驚いた顔で私を見る。
「そう感じた?」
「うん」
「なら、俺の聴き間違いじゃなかった」
「何を?」
「祥子が応 えてくれた様な気がして。俺、嬉しくて」
「私が応えた?」
「「好きよ」そう応えた」
「…」
ドキリとした。確かに「エリック…好きよ」と返している。それにカノンにも「エリックに惹かれている」と言っている。
私が何も言えないのを見てエリックが慌てて口を開く。
「違った…か。俺、…勝手にそう思ったのか。あ、何でもないから。今のは何でもない。聞き流して。音だし、そんな風に受け取るのが変だった。馬鹿だな俺って。祥子、急ごう。皆、待ってるから」
エリックが私に背中を向けた。私は咄嗟にエリックの腕を掴む。
「聴き間違いじゃない」
「えっ?!」
エリックが歩き出すのを止める。
「間違ってない」
私がもう一度そう言ったら、エリックが腕を掴んでる私の手を解いて振り向いた。
「間違ってない?」
「うん」
「祥子、顔が真っ赤」
「あ、やだ、だって。なら、エリックは、エリックは何て私に伝えたのよ」
「…祥子が応えた事と同じさ」
「それじゃ分からない」
「祥子、好きだ」
そう囁くように言われて唇が重なった。
「今日は風邪じゃないんだけど」
「なら、濃厚でいいのかな」
「あ、違う。違うったら!」
………
☆
翌日の新聞には、新しい音を手に入れたシンデレラとして、定期演奏会の成功が書かれていた。
そして、私の噂を撒き散らしていた雑誌にお詫びの掲載があった。
- #24 F I N -
「今日は上手くいきそう。エリックのお陰ね」
朝御飯を食べて、荷物をまとめて家を出る。鍵を掛けてたら、一番奥の扉が開いた。一番奥の人には初めて会う。
「おは…あら?」
挨拶しようとしたら、開いた隙間から体が出てたのに、私を見て慌てるように扉の内側に引っ込んだ。
「忘れ物でもしたのかしら」
逃げる様に閉まった戸を見ながら、エドナに会ったら聞いてみようと思った。
暗そうな人だったな。…暗そうなんて判断しちゃ駄目だ。私なんかは真面目すぎるとか堅物とか言われてるだろうし。一番言われてるのは男好きか。
頭を振って追い出した。
いい朝だったのにケチがついた。アパートを出たら声が掛かる。
「祥子、おはよう」
「ミリファ、おはよう」
「どうしたの? 浮かない顔してる」
「ミリファは知ってる?」
「何を?」
「ここに住んでる女性」
「知ってるわよ。ここにはエドナとあと、えっと。ユンナ・ハンブルが居るわよ」
「ユンナ?」
「そうよ。ちょっと変わってるけど優しい女性よ」
「そう。なら、私、嫌われちゃったのかなぁ」
「何かあったの?」
「そのユンナって人が私の顔見て、家に引っ込んじゃったのよ」
ミリファが私の肩を叩いた。
「気にしなくていいわよ。あの人初めての人に無愛想だから。そのうち仲良くなれるわよ」
「そうかな?」
「そうよ。気にしなくていいの」
でも、挨拶位は気軽にしたい。
☆
直接劇場に入り、楽屋に移動して、自分の小部屋に入る。この小部屋は、あの時の部屋だ。
「ここに硝子のフルートがあったんだ」
机の上を無意識に撫ぜていた。
「今はこっち」
フルートを出して組み立てる。軽く音を出しておく。昨日書き写した楽譜を並べて最終チェックだ。
早めにミリファとお昼を食べて劇場に戻り、楽譜をセットしに行く。舞台では調律をしてる人や軽く曲を弾いている人もいる。私も音を出していく。
(あ。響く。凄く気持ちいい響きだ)
VIP席で聴いていた音を思い出す。この響きが届いているんだ。
お昼の時報が鳴り、開演迄2時間となる。服を着替えにいく。
定期演奏会の場合、黒基調のドレスかスーツなのだが、今回はカルシーニから指示がでていた。私は赤か黄色のドレス、他の人はシャツもドレスも全身黒と。
カラードレスはゲストで呼ばれていたから着慣れている。だけど、今回は楽団員なのに。
レンタルショップから真っ黄色なドレスと靴が届いている。
「はぁ。ここまで来て目立たせる気なのかしら」
ぼやきながら黄色で身をまとって小部屋に移動する。周りの視線が刺さる。
緊張が始まる。
☆
時間になる前にトイレに行っておかないと。
小部屋を出て楽屋を突っ切ってると、クスクス笑いと共に耳に入って来る。
「娼婦のおでましよ」
「緊張してるわね」
「ガチガチじゃない」
「あんなんで大丈夫なのかしら」
「大それた行動する割に小心者なのね」
「顔真っ青じゃない」
雑誌を読んでいたから、この手のドイツ語は分かる様になっていた。分かっても、反撃する言葉が出ないから、悔しくても聞こえなかった振りをして楽屋を突っ切る。
(あんた達はなんで緊張してないのよ!)
言いたいのを我慢して、握り拳を作ってた私の耳に誰かの声が入ってくる。
「君達は神経が図太そうだね。他人の悪口言う位だもんな」
クスクス笑いが途切れて口早に言い訳が始まる。
「えっ? あ、ヘンリー。私達別にねぇ」
「悪口なんて言ってないわよ」
「そうよ。祥子が緊張しすぎ、って話してたダケよ」
「へぇ。
「えっ?! やだ! ソロなんて無理よ」
「ヘンリーったら、冗談を間に受けないでよ」
「そうよ。それに、祥子には通じてないわよ」
「通じてなくても冗談でもそんな事言うもんじゃないだろ。君達が今日の祥子だったらどうなんだ? きっとここに来れなかったんじゃないか?」
「「「 … 」」」
「祥子は最後迄独りでメインなんだ。それも独りだけ目立つ色着せられて。緊張して当たり前だ。君達も自分の事を構ったほうがいい」
ヘンリーが私をかばってくれたようだ。それが嬉しくなっている。
私は楽屋の戸を閉めて廊下に出た。
廊下に出た私はエリックと顔を合わしている。
(ヘンリーに対して嬉しく思った事を隠さなくちゃ)
何故かそんな後ろめたさがあった。エリックは私を見て少し赤くなった。
「祥子、黄色も似合うね」
「ありがとう」
「あれから眠れた?」
「うん。初めてぐっすり眠れた感じ」
「なら、良かった」
「エリックは今来たの?」
「そう。シドに捕まっちゃってね。今、楽譜をセットしてきたんだ。祥子は?」
「最後の気合入れに」
「 ? 」
トイレなんて言えない。
「じゃ、後でね」
「あぁ」
不思議そうな顔をしながらエリックは楽屋に入っていった。
私はトイレに向かう。トイレの鏡で、緊張しきってる顔とご対面だ。
「これじゃ、言われちゃうよ」
顔を引き伸ばして笑ってみる。
「うわぁ、ガチガチだ。おっと、また粉はたかなきゃ」
楽屋の小部屋に戻って、顔の修正をするハメになった。
☆
楽屋に音が鳴り響く。楽団員が移動始める。私は次の音まで大丈夫だ。
楽屋の雑踏が静まって暫くして音が鳴り響く。各小部屋の戸が開く音が響いてきた。
「行かなきゃ」
大きく深呼吸をして戸に手を掛けた。
カタカタカタ
手が震えてる。
「いつもの事。いつもの事」
手を振ってから戸を開けた。皆の後姿を追い駆けて行く。
…緊張が加速してる…
エリックの背中が見えた。
「何?」
「…」
驚いたエリックが後ろを振り返り私を見る。
「祥子?」
名前を呼ばれて自分がとってる行動に気づく。私はエリックの袖を引っ張っていた。慌ててエリックの袖を離す。
「…ご、ごめんなさい」
エリックが私を見て笑う。
「緊張しすぎだな」
「…う、うん」
「俺も緊張してる」
そう言って差しだすエリックの右手の指が小刻みに震えてる。
「一緒だね」
「一緒だ」
エリックがその右手を私の肩に置いた。
「最高の音を聴かせなきゃ。祥子も」
「うん」
ポンと肩が叩かれた。エリックは顔をぐるりと辺りを伺うように廻し、手を差し出す。
「ほら、行こう」
「え? …うん」
エリックが私と手を繋いで引っ張っていく。舞台袖で繋がっていた手が離れた。
エリックが私を見てから、舞台に向かう。そして、私も同じ様に。
☆
私が舞台に出て行くと、観客席のざわめきが大きくなった気がした。観客で一杯だ。
カノンの姿が眼に入った。唾を飲み込んでる私がいる。
(この中の何人が音楽を
そのざわめきの中、征司が席に着き、カルシーニが入ってくる。
カルシーニが観客に礼をして、楽団員の注目を促す。君達も聴いておくように。鋭い視線を行き渡らせる。
トン
カルシーニの合図で私はゆっくりと立ち上がる。ざわめきが途切れた。視線のムシロだ。視線が観客からも楽団員からも注がれてくる。
譜面に視線を止める。私の好きな様に進められる。
私の音を届けるんだ。
フルートに息を吹き込む。この一息目で緊張から開放される。この瞬間が好きだ。
バッハ 無伴奏フルート パルティータ
♪♪♪ ♪♪♪
今日はようこそお越し下さいました。この場を借りて最近噂の真相をお教えします。事の始めは私がここに来てからでしたね。突然の
フルートを口から離した時にカルシーニの左手を見た。握られてる。カルシーニ自身が笑う事は無いんだが、満足しているようだ。
だけど、観客から拍手が無い。それは、何を意味するのだろう。失敗したのだろうか。
カノンの座ってる場所に視線を飛ばす。観客席は薄暗くてカノンの様子が分からなかった。
(失敗…だった?)
トントントン
うっかりしてた。カルシーニが早く席に戻れと言っている。逃げる様に移動する事になった。
リサの顔が「大丈夫。成功よ」と目配せしてくれたのに、実感がない。
マーラー 第9交響曲
皆で一緒に奏でるほうが楽しい。音を合わせて繋げていく。そしてソロがやってくる。
私はここで出来た友達に迷惑を掛けていたんですね。一晩私の看病をしてくれてた。それが真実。帰りに一緒になって送って貰った。それが真実。一緒に食事して、音を診て貰った。それが真実。ごく当たり前に友達と過ごしていたのが、噂になっている。本当と嘘は表と裏。この嘘は誰が流したの? 嘘の大元は誰? 私を
死の恐怖をベースに漂わせ、どこまで伝わるかは分からないけど、私は音を奏でている。
カルシーニが棒を止めて静まった時、大きな拍手が上がった。
この拍手が何に向けられてるかは分からないが、ひとつ山を越えた。そんな気がした。
カルシーニが引っ込んでる間に、席を移動する。今度は前でも座って吹ける。征司の隣に席がある。
カルシーニが入ってくる。私達四人に視線を走らせ、私に指示が飛ぶ。
(立ちなさい?)
渋々立った。最後迄試練を与えるつもりなのか。
棒が動く。
モーツアルト フルート四重奏曲ニ長調
最初に誘いを掛けてくるのはヘンリーだ。
「ねぇ、今晩一緒しようよ」
「お断りよ」
「グラスを傾けて、夜を楽しもうじゃないか」
「結構よ」
「俺となら一晩いい夢をみさせてあげるよ」
「一晩なんていらないわ」
次に征司が誘いをかけてくる。
「俺で力になれることがないか?」
「自分で何とかするわ」
「君は助けを求めているじゃないか」
「助けじゃないのよ」
「俺の所に来たいんだろう」
「行きたくないわ」
最後にエリックが誘いをかける。
「俺じゃだめか?」
「ごめんなさい」
エリックの誘いに負けてる私が居る。
「守ってあげるよ」
「ごめんなさい」
「俺が祥子の全てを守るから」
「…」
エリックの誘いに私の名前が入ってくる。そんな感じを受けている。
エリックの音に私の音が惹きこまれてしまう。その瞬間、
「どうして? 君は娼婦だろ? 誰でもいいんだろ? たった一晩だけじゃないか」
三人の音が響き、私は引き戻された。
「娼婦? 私が娼婦?」
「そうじゃないのか? 快楽さえあればいいんだろ?」
「違うわ! そんなのいらない」
「それは嘘だ。君はその時だけ満たされれば満足してるくせに」
「嘘じゃないわ。私を好きになって欲しいのよ」
「娼婦のくせに好きになって欲しいだって?」
「私は娼婦じゃない」
「人肌が恋しくなって、直ぐについてくるくせに」
「誰でもいいなんて馬鹿な事はしないわよ」
「強がることはない」
「強がってなんかないわ。私を見て欲しいのよ。私を愛して欲しいの」
「君を愛する?」
「私を愛せないなら…こないで!」
「…」
静かに三人が
「なら、祥子の全てを見せて。俺は祥子を守ってみせる。好きだ」
エリックの音が私の音を惹き寄せるのが分かる。惹き寄せられて、その音が心地よく耳に届いてくる。エリックの音を掴めて嬉しくなっている。ドキドキしている。
「祥子…好きだ」
「エリック…好きよ」
音がひとつに重なった気がする。
カルシーニが棒を止める。私はエリックに視線を向ける。「好き」と言い合った訳じゃない。そんな情景を受け取っただけなのに、私は「好き」をエリックに返していた。
観客から寄せられる拍手の音よりも、エリックの音が私の耳に強く残されていた。
カルシーニが私達4人を立たせ、一緒に礼をした。
「祥子、よくやりました」
カルシーニが私の手をとって軽く上に挙げた。
「あなたを見くびっていたようです。もう、大丈夫ですよ」
カルシーニが私を認めた。それも驚きだ。
カルシーニが大きな花束を受け取る。会場から手拍子が鳴り響いてる。
アンコールの曲目は聞いていない。征司もエリックもヘンリーだって。
カルシーニが花束を私に押し付ける様に渡す。
「さて、私がトドメを刺しておきましょう。君達は座って休んでて下さい」
カルシーニが棒をとって上げた。私達4人以外がビシッと構えた。
棒が鋭く動く。
ニコライ・リムスキー=コルサコフ 熊蜂の飛行
会場内が熊蜂で一杯になった。
これ以上ゴシップを書いたらトドメを刺しに行くぞ。
カルシーニのおじさんに感動してしまった。嫌なおじさんだとばかり思っていたけど、根はいい人だったんだ。気にくわない所が沢山あるけれど。
そしてひとつ気づいた。
(もしかして、私、蜂?!)
☆
楽屋に戻ると拍手で迎えられた。
そして。
「祥子! よくやった!」
「きゃぁ!」
ガド爺が来てたとは思いもしなかった。外の仕事で出てた筈。でも、今、お約束の抱きつきで私を襲っている。
「ガド爺! だ、だからぁ!」
「もう大丈夫じゃ。よくここまで戻ってきたな。先日よりも数倍も最高の音じゃ」
力一杯抱き締められて、痛いとかじゃなく、私は嬉しくなっている。
この人にお世話になりっぱなしだった。それを今、感謝の気持ちを込めて返す事が出来る。
「ガド爺、ありがとうございました。大丈夫です。もう負けてられません」
ガド爺が私から腕を解いて笑う。
「そうじゃ、そうじゃ。ワシの手から飛んでいったか…。ちと寂しくなるのぉ」
「大丈夫ですよ。ガド爺のリクエストは最優先ですから」
「なら良しじゃ。それと」
ガド爺が私の耳に顔を近づけた。
「カノン婆さんが祥子を独り占めするつもりじゃぞ。良かったな」
「はいっ!」
シドが私を呼びに来る。小さな部屋にカノンがいた。大きな花束が私に差し出される。
「祥子、最高でしたよ」
「ありがとうございます。…って?」
カノンが英語で喋っている。
「私だって英語位喋れるのよ」
「なら、今迄どうして?」
「あなたの人間味を見ていたのよ」
「人間味?」
「そう。人に対してどう振舞うのか見せて頂いたのよ。ごめんなさいね」
「…いえ」
ガド爺の回りって一癖もニ癖もある人ばかりだ。
椅子に座るように言われ、花束をテーブルの上に置いて、カノンの前に座った。シドが私の隣に座る。
楽団との契約にもなるから、最初にカノンとシドが話し始める。一通りの書類の行き来があり、私の前に紙が出される。英語で書かれていて、横に日本語が書かれている。
「納得できたらサインを頂戴」
カノンが言った。
私は日本語を読んでから英語の記述も読んでいく。騙されたなんて事にならない為にだ。
「ひとつだけいいですか?」
「いいわよ」
「ガド爺のリクエストを優先にしたいのですが、いいでしょうか?」
「駄目と言ったら?」
「このお話は無かった事で構いません」
カノンが笑う。
「ガドリエル爺さんの為に、この私の話を断るの? 何故?」
「ガド爺は、私の恩人だから。彼がいて今、私がここに居られるからです」
「なら、その条件は呑まなくてはならないわね」
「ありがとうございます」
「いいのよ。ガドリエルは私にとっても友達ですから。では、確認するわよ。祥子の活動はガドリエルの次に私が優先よ」
「はい」
「私のほうからもひとつあるけどいいかしら?」
「はい」
「あなたに何件かスポンサーの話が来ると思います。来たら直ぐ私に話を通して頂戴」
「 ? さしつかえなければ理由を聞いていいですか?」
「企業間のわだかまりよ。仲良しとそうでないのがあるのよ」
「わかりました。必ず楽団を通しますからそれはお約束できます。ですよね? シド」
「はい。必ずご連絡差し上げます」
「宜しくお願いするわね」
「あ。既に契約している企業が日本にあるのですが」
「それは知っているわ。大丈夫よ。そのまま契約期間が終わるまで付き合っていてもいいわよ」
「ありがとうございます。ところで、この契約書に契約期間が記載されていないのですが」
「あなたがフルートを吹かなくなるまで、でどうかしら?」
「いいんですか?」
「いいのよ。今日、皆で聴きにきたのよ」
カノンが「皆」と強く言った。一族が聴きにきていたって事だろう。
「私が居なくなったら、私の子供が、その孫が、あなたの力になりますよ」
契約期間の箇所にカノンが書き足してサインと日付を書いた。
「ありがとうございます」
「音楽は心を和ませて豊かにしてくれるのよ。人間には心があるんですから」
「はい」
「今までの変な噂は私のほうで消しておきますから。安心してらっしゃい」
「ありがとうございます」
「ところで、祥子、あなたはエリックの事を好きなのかしら?」
「え?」
「エリックの事、好きなの?」
カノンに問われてエリックとの事が頭を駆け巡った。
「はい。エリックに惹かれています」
「そう」
カノンが笑った。私は慌てて契約書にサインを書こうとしてペンを取り落とした。
私はエリックに惹かれている、と素直に言える。それに驚いていた。
ゆっくりサインを書いていった。
ふと横を見るとシドが笑っている。
☆
着替えて貴重品を取りに行ってから楽屋の小部屋に戻ると、机の上にカードが置いてあった。
先にお店に行ってるわ。エリックと一緒に来てね。
ミリファからだ。
フルートをケースにしまう。小部屋から出てもエリックの姿は無い。でも、楽屋にエリックのチェロが置いてある。エリックの小部屋を覗いてみる。
「居た」
エリックが机を背に椅子に座っていた。何か考え込んでる。私は気づかせようとして困っている。
「普通にしなきゃ」
戸を叩く。エリックが音に気づいて顔を上げたから戸を開けた。
「祥子。戻ってたのか」
「待たせちゃってごめんなさい」
「その顔はカノンと上手くいったんだね」
「うん」
「良かったな」
「ありがとう」
「じゃ、行こうか」
「うん」
ゆっくりとエリックが椅子から立ち上がり、私が開けてた戸を大きく開けて部屋を出た。
チェロの傍に行く。
「これ練習所に持ってかなきゃならないんだ」
「傍だもんね。手伝うね」
「大丈夫だよ」
偶然、エリックの手と触れた。お互い手を引っ込めた。
「祥子」
「何?」
「モーツアルトの時…あ、何でもない」
「何?」
「何でもないから」
そう言って、エリックはチェロを持った。
「祥子の音、最高だった」
「ありがとう。エリックに言われると嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。うっかりエリックの音に惹き込まれちゃうかと思った。危なかったんだから」
「そう? 俺は祥子が凄いと思った」
「私が?」
エリックが笑って頷いた。私達は練習所のチェロパートの部屋に入る。チェロを置いたエリックが戻ってくる。
「男三人を手玉にとったもんな」
「手玉にとった、ってひどい」
「見事だった。皆、主張できて
「皆? エリックは退いていかなかったよね?」
エリックが驚いた顔で私を見る。
「そう感じた?」
「うん」
「なら、俺の聴き間違いじゃなかった」
「何を?」
「祥子が
「私が応えた?」
「「好きよ」そう応えた」
「…」
ドキリとした。確かに「エリック…好きよ」と返している。それにカノンにも「エリックに惹かれている」と言っている。
私が何も言えないのを見てエリックが慌てて口を開く。
「違った…か。俺、…勝手にそう思ったのか。あ、何でもないから。今のは何でもない。聞き流して。音だし、そんな風に受け取るのが変だった。馬鹿だな俺って。祥子、急ごう。皆、待ってるから」
エリックが私に背中を向けた。私は咄嗟にエリックの腕を掴む。
「聴き間違いじゃない」
「えっ?!」
エリックが歩き出すのを止める。
「間違ってない」
私がもう一度そう言ったら、エリックが腕を掴んでる私の手を解いて振り向いた。
「間違ってない?」
「うん」
「祥子、顔が真っ赤」
「あ、やだ、だって。なら、エリックは、エリックは何て私に伝えたのよ」
「…祥子が応えた事と同じさ」
「それじゃ分からない」
「祥子、好きだ」
そう囁くように言われて唇が重なった。
「今日は風邪じゃないんだけど」
「なら、濃厚でいいのかな」
「あ、違う。違うったら!」
………
☆
翌日の新聞には、新しい音を手に入れたシンデレラとして、定期演奏会の成功が書かれていた。
そして、私の噂を撒き散らしていた雑誌にお詫びの掲載があった。
- #24 F I N -
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