#24 「好き」の情景 <祥子視点>

文字数 8,283文字

本番の朝をこんなに気持ちよく迎えたのは初めてだ。エリックの電話の後、月を見ていたらいつの間にか眠りに落ちていた。

「今日は上手くいきそう。エリックのお陰ね」

朝御飯を食べて、荷物をまとめて家を出る。鍵を掛けてたら、一番奥の扉が開いた。一番奥の人には初めて会う。

「おは…あら?」

挨拶しようとしたら、開いた隙間から体が出てたのに、私を見て慌てるように扉の内側に引っ込んだ。

「忘れ物でもしたのかしら」

逃げる様に閉まった戸を見ながら、エドナに会ったら聞いてみようと思った。
暗そうな人だったな。…暗そうなんて判断しちゃ駄目だ。私なんかは真面目すぎるとか堅物とか言われてるだろうし。一番言われてるのは男好きか。
頭を振って追い出した。

いい朝だったのにケチがついた。アパートを出たら声が掛かる。

「祥子、おはよう」
「ミリファ、おはよう」
「どうしたの? 浮かない顔してる」
「ミリファは知ってる?」
「何を?」
「ここに住んでる女性」
「知ってるわよ。ここにはエドナとあと、えっと。ユンナ・ハンブルが居るわよ」
「ユンナ?」
「そうよ。ちょっと変わってるけど優しい女性よ」
「そう。なら、私、嫌われちゃったのかなぁ」
「何かあったの?」
「そのユンナって人が私の顔見て、家に引っ込んじゃったのよ」

ミリファが私の肩を叩いた。

「気にしなくていいわよ。あの人初めての人に無愛想だから。そのうち仲良くなれるわよ」
「そうかな?」
「そうよ。気にしなくていいの」

でも、挨拶位は気軽にしたい。



直接劇場に入り、楽屋に移動して、自分の小部屋に入る。この小部屋は、あの時の部屋だ。

「ここに硝子のフルートがあったんだ」

机の上を無意識に撫ぜていた。

「今はこっち」

フルートを出して組み立てる。軽く音を出しておく。昨日書き写した楽譜を並べて最終チェックだ。
早めにミリファとお昼を食べて劇場に戻り、楽譜をセットしに行く。舞台では調律をしてる人や軽く曲を弾いている人もいる。私も音を出していく。

(あ。響く。凄く気持ちいい響きだ)

VIP席で聴いていた音を思い出す。この響きが届いているんだ。
お昼の時報が鳴り、開演迄2時間となる。服を着替えにいく。
定期演奏会の場合、黒基調のドレスかスーツなのだが、今回はカルシーニから指示がでていた。私は赤か黄色のドレス、他の人はシャツもドレスも全身黒と。
カラードレスはゲストで呼ばれていたから着慣れている。だけど、今回は楽団員なのに。
レンタルショップから真っ黄色なドレスと靴が届いている。

「はぁ。ここまで来て目立たせる気なのかしら」

ぼやきながら黄色で身をまとって小部屋に移動する。周りの視線が刺さる。
緊張が始まる。



時間になる前にトイレに行っておかないと。
小部屋を出て楽屋を突っ切ってると、クスクス笑いと共に耳に入って来る。

「娼婦のおでましよ」
「緊張してるわね」
「ガチガチじゃない」
「あんなんで大丈夫なのかしら」
「大それた行動する割に小心者なのね」
「顔真っ青じゃない」

雑誌を読んでいたから、この手のドイツ語は分かる様になっていた。分かっても、反撃する言葉が出ないから、悔しくても聞こえなかった振りをして楽屋を突っ切る。

(あんた達はなんで緊張してないのよ!)

言いたいのを我慢して、握り拳を作ってた私の耳に誰かの声が入ってくる。

「君達は神経が図太そうだね。他人の悪口言う位だもんな」

クスクス笑いが途切れて口早に言い訳が始まる。

「えっ? あ、ヘンリー。私達別にねぇ」
「悪口なんて言ってないわよ」
「そうよ。祥子が緊張しすぎ、って話してたダケよ」

「へぇ。他人(ひと)の心配出来る位なんだ。なら、次の演奏会で君達のソロを推しておかなきゃ」

「えっ?! やだ! ソロなんて無理よ」
「ヘンリーったら、冗談を間に受けないでよ」
「そうよ。それに、祥子には通じてないわよ」

「通じてなくても冗談でもそんな事言うもんじゃないだろ。君達が今日の祥子だったらどうなんだ? きっとここに来れなかったんじゃないか?」

「「「 … 」」」

「祥子は最後迄独りでメインなんだ。それも独りだけ目立つ色着せられて。緊張して当たり前だ。君達も自分の事を構ったほうがいい」

ヘンリーが私をかばってくれたようだ。それが嬉しくなっている。
私は楽屋の戸を閉めて廊下に出た。
廊下に出た私はエリックと顔を合わしている。

(ヘンリーに対して嬉しく思った事を隠さなくちゃ)

何故かそんな後ろめたさがあった。エリックは私を見て少し赤くなった。

「祥子、黄色も似合うね」
「ありがとう」
「あれから眠れた?」
「うん。初めてぐっすり眠れた感じ」
「なら、良かった」
「エリックは今来たの?」
「そう。シドに捕まっちゃってね。今、楽譜をセットしてきたんだ。祥子は?」
「最後の気合入れに」
「 ? 」

トイレなんて言えない。

「じゃ、後でね」
「あぁ」

不思議そうな顔をしながらエリックは楽屋に入っていった。
私はトイレに向かう。トイレの鏡で、緊張しきってる顔とご対面だ。

「これじゃ、言われちゃうよ」

顔を引き伸ばして笑ってみる。

「うわぁ、ガチガチだ。おっと、また粉はたかなきゃ」

楽屋の小部屋に戻って、顔の修正をするハメになった。



楽屋に音が鳴り響く。楽団員が移動始める。私は次の音まで大丈夫だ。

楽屋の雑踏が静まって暫くして音が鳴り響く。各小部屋の戸が開く音が響いてきた。

「行かなきゃ」

大きく深呼吸をして戸に手を掛けた。

 カタカタカタ

手が震えてる。

「いつもの事。いつもの事」

手を振ってから戸を開けた。皆の後姿を追い駆けて行く。

…緊張が加速してる…

エリックの背中が見えた。

「何?」
「…」

驚いたエリックが後ろを振り返り私を見る。

「祥子?」

名前を呼ばれて自分がとってる行動に気づく。私はエリックの袖を引っ張っていた。慌ててエリックの袖を離す。

「…ご、ごめんなさい」

エリックが私を見て笑う。

「緊張しすぎだな」
「…う、うん」
「俺も緊張してる」

そう言って差しだすエリックの右手の指が小刻みに震えてる。

「一緒だね」
「一緒だ」

エリックがその右手を私の肩に置いた。

「最高の音を聴かせなきゃ。祥子も」
「うん」

ポンと肩が叩かれた。エリックは顔をぐるりと辺りを伺うように廻し、手を差し出す。

「ほら、行こう」
「え? …うん」

エリックが私と手を繋いで引っ張っていく。舞台袖で繋がっていた手が離れた。
エリックが私を見てから、舞台に向かう。そして、私も同じ様に。



私が舞台に出て行くと、観客席のざわめきが大きくなった気がした。観客で一杯だ。
カノンの姿が眼に入った。唾を飲み込んでる私がいる。

(この中の何人が音楽を()っている人なんだろう)

そのざわめきの中、征司が席に着き、カルシーニが入ってくる。
カルシーニが観客に礼をして、楽団員の注目を促す。君達も聴いておくように。鋭い視線を行き渡らせる。

 トン

カルシーニの合図で私はゆっくりと立ち上がる。ざわめきが途切れた。視線のムシロだ。視線が観客からも楽団員からも注がれてくる。
譜面に視線を止める。私の好きな様に進められる。
私の音を届けるんだ。
フルートに息を吹き込む。この一息目で緊張から開放される。この瞬間が好きだ。

バッハ 無伴奏フルート パルティータ

 ♪♪♪ ♪♪♪

 今日はようこそお越し下さいました。この場を借りて最近噂の真相をお教えします。事の始めは私がここに来てからでしたね。突然の抜擢(ばってき)で、皆さんと同じ様に、いや、それ以上に私のほうが驚いていたんです。ここ、音楽の都と呼ばれるウィーンで、知り合いのいないこの土地で、一人きり。唯一の手段が音だけだった。その音で私は友達を作る事が出来た。それだけでも嬉しかったんです。聞いて下さい。本当は何なのか。聞いて下さい。本当の私を。これから皆さんにお話ししましょう。

フルートを口から離した時にカルシーニの左手を見た。握られてる。カルシーニ自身が笑う事は無いんだが、満足しているようだ。
だけど、観客から拍手が無い。それは、何を意味するのだろう。失敗したのだろうか。
カノンの座ってる場所に視線を飛ばす。観客席は薄暗くてカノンの様子が分からなかった。

(失敗…だった?)

 トントントン

うっかりしてた。カルシーニが早く席に戻れと言っている。逃げる様に移動する事になった。
リサの顔が「大丈夫。成功よ」と目配せしてくれたのに、実感がない。

マーラー 第9交響曲

皆で一緒に奏でるほうが楽しい。音を合わせて繋げていく。そしてソロがやってくる。

 私はここで出来た友達に迷惑を掛けていたんですね。一晩私の看病をしてくれてた。それが真実。帰りに一緒になって送って貰った。それが真実。一緒に食事して、音を診て貰った。それが真実。ごく当たり前に友達と過ごしていたのが、噂になっている。本当と嘘は表と裏。この嘘は誰が流したの? 嘘の大元は誰? 私を(はずかし)めるのは誰? 嘘つきの罪は重いのよ。嘘を信じる人も同罪よ。今更謝っても許さないから。この罪は償ってもらうから覚悟しなさい。逃がしはしない。どこまでも追いかけてやる。

死の恐怖をベースに漂わせ、どこまで伝わるかは分からないけど、私は音を奏でている。
カルシーニが棒を止めて静まった時、大きな拍手が上がった。
この拍手が何に向けられてるかは分からないが、ひとつ山を越えた。そんな気がした。

カルシーニが引っ込んでる間に、席を移動する。今度は前でも座って吹ける。征司の隣に席がある。
カルシーニが入ってくる。私達四人に視線を走らせ、私に指示が飛ぶ。

(立ちなさい?)

渋々立った。最後迄試練を与えるつもりなのか。
棒が動く。

モーツアルト フルート四重奏曲ニ長調

最初に誘いを掛けてくるのはヘンリーだ。

「ねぇ、今晩一緒しようよ」
「お断りよ」
「グラスを傾けて、夜を楽しもうじゃないか」
「結構よ」
「俺となら一晩いい夢をみさせてあげるよ」
「一晩なんていらないわ」

次に征司が誘いをかけてくる。

「俺で力になれることがないか?」
「自分で何とかするわ」
「君は助けを求めているじゃないか」
「助けじゃないのよ」
「俺の所に来たいんだろう」
「行きたくないわ」

最後にエリックが誘いをかける。

「俺じゃだめか?」
「ごめんなさい」

エリックの誘いに負けてる私が居る。(かたく)なに退(しりぞ)けるイメージが上手く出来ない。リハの時は上手く出来てたのに。

「守ってあげるよ」
「ごめんなさい」
「俺が祥子の全てを守るから」
「…」

エリックの誘いに私の名前が入ってくる。そんな感じを受けている。
エリックの音に私の音が惹きこまれてしまう。その瞬間、

「どうして? 君は娼婦だろ? 誰でもいいんだろ? たった一晩だけじゃないか」

三人の音が響き、私は引き戻された。

「娼婦? 私が娼婦?」
「そうじゃないのか? 快楽さえあればいいんだろ?」
「違うわ! そんなのいらない」
「それは嘘だ。君はその時だけ満たされれば満足してるくせに」
「嘘じゃないわ。私を好きになって欲しいのよ」
「娼婦のくせに好きになって欲しいだって?」
「私は娼婦じゃない」
「人肌が恋しくなって、直ぐについてくるくせに」
「誰でもいいなんて馬鹿な事はしないわよ」
「強がることはない」
「強がってなんかないわ。私を見て欲しいのよ。私を愛して欲しいの」
「君を愛する?」
「私を愛せないなら…こないで!」
「…」

静かに三人が退()いていくはずなのに、エリックの音(声)が静かに残る。

「なら、祥子の全てを見せて。俺は祥子を守ってみせる。好きだ」

エリックの音が私の音を惹き寄せるのが分かる。惹き寄せられて、その音が心地よく耳に届いてくる。エリックの音を掴めて嬉しくなっている。ドキドキしている。

「祥子…好きだ」
「エリック…好きよ」

音がひとつに重なった気がする。

カルシーニが棒を止める。私はエリックに視線を向ける。「好き」と言い合った訳じゃない。そんな情景を受け取っただけなのに、私は「好き」をエリックに返していた。

観客から寄せられる拍手の音よりも、エリックの音が私の耳に強く残されていた。
カルシーニが私達4人を立たせ、一緒に礼をした。

「祥子、よくやりました」

カルシーニが私の手をとって軽く上に挙げた。

「あなたを見くびっていたようです。もう、大丈夫ですよ」

カルシーニが私を認めた。それも驚きだ。

カルシーニが大きな花束を受け取る。会場から手拍子が鳴り響いてる。
アンコールの曲目は聞いていない。征司もエリックもヘンリーだって。
カルシーニが花束を私に押し付ける様に渡す。

「さて、私がトドメを刺しておきましょう。君達は座って休んでて下さい」

カルシーニが棒をとって上げた。私達4人以外がビシッと構えた。
棒が鋭く動く。

ニコライ・リムスキー=コルサコフ 熊蜂の飛行

会場内が熊蜂で一杯になった。

これ以上ゴシップを書いたらトドメを刺しに行くぞ。

カルシーニのおじさんに感動してしまった。嫌なおじさんだとばかり思っていたけど、根はいい人だったんだ。気にくわない所が沢山あるけれど。
そしてひとつ気づいた。

(もしかして、私、蜂?!)



楽屋に戻ると拍手で迎えられた。
そして。

「祥子! よくやった!」
「きゃぁ!」

ガド爺が来てたとは思いもしなかった。外の仕事で出てた筈。でも、今、お約束の抱きつきで私を襲っている。

「ガド爺! だ、だからぁ!」
「もう大丈夫じゃ。よくここまで戻ってきたな。先日よりも数倍も最高の音じゃ」

力一杯抱き締められて、痛いとかじゃなく、私は嬉しくなっている。
この人にお世話になりっぱなしだった。それを今、感謝の気持ちを込めて返す事が出来る。

「ガド爺、ありがとうございました。大丈夫です。もう負けてられません」

ガド爺が私から腕を解いて笑う。

「そうじゃ、そうじゃ。ワシの手から飛んでいったか…。ちと寂しくなるのぉ」
「大丈夫ですよ。ガド爺のリクエストは最優先ですから」
「なら良しじゃ。それと」

ガド爺が私の耳に顔を近づけた。

「カノン婆さんが祥子を独り占めするつもりじゃぞ。良かったな」
「はいっ!」

シドが私を呼びに来る。小さな部屋にカノンがいた。大きな花束が私に差し出される。

「祥子、最高でしたよ」
「ありがとうございます。…って?」

カノンが英語で喋っている。

「私だって英語位喋れるのよ」
「なら、今迄どうして?」
「あなたの人間味を見ていたのよ」
「人間味?」
「そう。人に対してどう振舞うのか見せて頂いたのよ。ごめんなさいね」
「…いえ」

ガド爺の回りって一癖もニ癖もある人ばかりだ。
椅子に座るように言われ、花束をテーブルの上に置いて、カノンの前に座った。シドが私の隣に座る。
楽団との契約にもなるから、最初にカノンとシドが話し始める。一通りの書類の行き来があり、私の前に紙が出される。英語で書かれていて、横に日本語が書かれている。

「納得できたらサインを頂戴」

カノンが言った。
私は日本語を読んでから英語の記述も読んでいく。騙されたなんて事にならない為にだ。

「ひとつだけいいですか?」
「いいわよ」
「ガド爺のリクエストを優先にしたいのですが、いいでしょうか?」
「駄目と言ったら?」
「このお話は無かった事で構いません」

カノンが笑う。

「ガドリエル爺さんの為に、この私の話を断るの? 何故?」
「ガド爺は、私の恩人だから。彼がいて今、私がここに居られるからです」
「なら、その条件は呑まなくてはならないわね」
「ありがとうございます」
「いいのよ。ガドリエルは私にとっても友達ですから。では、確認するわよ。祥子の活動はガドリエルの次に私が優先よ」
「はい」
「私のほうからもひとつあるけどいいかしら?」
「はい」
「あなたに何件かスポンサーの話が来ると思います。来たら直ぐ私に話を通して頂戴」
「 ? さしつかえなければ理由を聞いていいですか?」
「企業間のわだかまりよ。仲良しとそうでないのがあるのよ」
「わかりました。必ず楽団を通しますからそれはお約束できます。ですよね? シド」
「はい。必ずご連絡差し上げます」
「宜しくお願いするわね」
「あ。既に契約している企業が日本にあるのですが」
「それは知っているわ。大丈夫よ。そのまま契約期間が終わるまで付き合っていてもいいわよ」
「ありがとうございます。ところで、この契約書に契約期間が記載されていないのですが」
「あなたがフルートを吹かなくなるまで、でどうかしら?」
「いいんですか?」
「いいのよ。今日、皆で聴きにきたのよ」

カノンが「皆」と強く言った。一族が聴きにきていたって事だろう。

「私が居なくなったら、私の子供が、その孫が、あなたの力になりますよ」

契約期間の箇所にカノンが書き足してサインと日付を書いた。

「ありがとうございます」
「音楽は心を和ませて豊かにしてくれるのよ。人間には心があるんですから」
「はい」
「今までの変な噂は私のほうで消しておきますから。安心してらっしゃい」
「ありがとうございます」
「ところで、祥子、あなたはエリックの事を好きなのかしら?」
「え?」
「エリックの事、好きなの?」

カノンに問われてエリックとの事が頭を駆け巡った。

「はい。エリックに惹かれています」
「そう」

カノンが笑った。私は慌てて契約書にサインを書こうとしてペンを取り落とした。
私はエリックに惹かれている、と素直に言える。それに驚いていた。

ゆっくりサインを書いていった。
ふと横を見るとシドが笑っている。



着替えて貴重品を取りに行ってから楽屋の小部屋に戻ると、机の上にカードが置いてあった。

 先にお店に行ってるわ。エリックと一緒に来てね。

ミリファからだ。
フルートをケースにしまう。小部屋から出てもエリックの姿は無い。でも、楽屋にエリックのチェロが置いてある。エリックの小部屋を覗いてみる。

「居た」

エリックが机を背に椅子に座っていた。何か考え込んでる。私は気づかせようとして困っている。(おどろ)かすのも良さそうなんだけど。

「普通にしなきゃ」

戸を叩く。エリックが音に気づいて顔を上げたから戸を開けた。

「祥子。戻ってたのか」
「待たせちゃってごめんなさい」
「その顔はカノンと上手くいったんだね」
「うん」
「良かったな」
「ありがとう」
「じゃ、行こうか」
「うん」

ゆっくりとエリックが椅子から立ち上がり、私が開けてた戸を大きく開けて部屋を出た。
チェロの傍に行く。

「これ練習所に持ってかなきゃならないんだ」
「傍だもんね。手伝うね」
「大丈夫だよ」

偶然、エリックの手と触れた。お互い手を引っ込めた。

「祥子」
「何?」
「モーツアルトの時…あ、何でもない」
「何?」
「何でもないから」

そう言って、エリックはチェロを持った。

「祥子の音、最高だった」
「ありがとう。エリックに言われると嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。うっかりエリックの音に惹き込まれちゃうかと思った。危なかったんだから」
「そう? 俺は祥子が凄いと思った」
「私が?」

エリックが笑って頷いた。私達は練習所のチェロパートの部屋に入る。チェロを置いたエリックが戻ってくる。

「男三人を手玉にとったもんな」
「手玉にとった、ってひどい」
「見事だった。皆、主張できて退()いていけた」
「皆? エリックは退いていかなかったよね?」

エリックが驚いた顔で私を見る。

「そう感じた?」
「うん」
「なら、俺の聴き間違いじゃなかった」
「何を?」
「祥子が(こた)えてくれた様な気がして。俺、嬉しくて」
「私が応えた?」
「「好きよ」そう応えた」
「…」

ドキリとした。確かに「エリック…好きよ」と返している。それにカノンにも「エリックに惹かれている」と言っている。

私が何も言えないのを見てエリックが慌てて口を開く。

「違った…か。俺、…勝手にそう思ったのか。あ、何でもないから。今のは何でもない。聞き流して。音だし、そんな風に受け取るのが変だった。馬鹿だな俺って。祥子、急ごう。皆、待ってるから」

エリックが私に背中を向けた。私は咄嗟にエリックの腕を掴む。

「聴き間違いじゃない」
「えっ?!」

エリックが歩き出すのを止める。

「間違ってない」

私がもう一度そう言ったら、エリックが腕を掴んでる私の手を解いて振り向いた。

「間違ってない?」
「うん」
「祥子、顔が真っ赤」
「あ、やだ、だって。なら、エリックは、エリックは何て私に伝えたのよ」

「…祥子が応えた事と同じさ」
「それじゃ分からない」

「祥子、好きだ」

そう囁くように言われて唇が重なった。

「今日は風邪じゃないんだけど」
「なら、濃厚でいいのかな」
「あ、違う。違うったら!」

………



翌日の新聞には、新しい音を手に入れたシンデレラとして、定期演奏会の成功が書かれていた。
そして、私の噂を撒き散らしていた雑誌にお詫びの掲載があった。


- #24 F I N -
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