#25 祝杯 <エリック視点>

文字数 8,832文字

モーツアルトの最後で俺は祥子に伝えていた。

「祥子…好きだ」

何でそんな音が出て行ったのかは俺にすら分からなかった。祥子がリハで見せた情景よりも女を出してきたからかもしれない。この情景の載せ方は見事だった。祥子の音は俺が今迄聴いてきた中でもずば抜けて上手かった。俺達三種類の音に上手く合わせ突き放す。それがじれったかった。曲に対する情景なんだが、祥子は俺が(つか)む。掴みたかった。

「エリック…好きよ」

(えっ?!)

こう祥子から(こた)えがくるとは思わなかった。聞き間違いかと疑っても、祥子の音は俺の音と重なってくる。「好き」と重なってる。

たかが音なんだ。俺の音に「好き」を載せても、祥子がどう()らえるかによって意味は変わる。単なる甘い囁き位にとらえているかもしれない。
祥子の応えだって「好き」じゃないかもしれない。俺が間違う事だってある。

楽屋の小部屋で考え込んでいた。

「エリック、食事して帰ろう。皆も来るって言ってる」
「あ、行く」

征司が俺の小部屋に顔を出して言うと、横からミリファも顔を出す。

「エリックは祥子を連れてきてね。まだ道覚えて無いから」
「分かった。祥子は?」
「シドに連れられて行っちゃった」
「そう」

スポンサーとの契約だ。カノン、いや、ミューラー財閥との契約になる。俺のスポンサーとは敵対の関係になる。俺と祥子は国内で一緒に奏でる事は無さそうだ。定期演奏会やチャリティーは別だが。

「他の大きなスポンサー主催だとチャンスがあるか」

椅子を回して机に背を預ける。
祥子の音が耳に残っていた。

「祥子は…」

今、一番(つら)い時だから、恋愛なんかに構ってられないか。そっとしてあげたほうがいいよな。

 トントン

戸が叩かれたので、視線を飛ばすと祥子が戸を開けて顔を覗かせた。ドキリと鼓動が鳴った。
チェロを練習所に置きにいくのを付き合って貰う。一緒に歩きながら、俺は聞きたくなっている。うっかりすると口から出て行こうとしてる。それを誤魔化すのに俺は必死になる。なのに、会話はその方向に向かっていた。チェロを置いて小部屋を出た時に伝えてみる。

「見事だった。皆、主張できて退()いていけた」
「皆? エリックは退いていかなかったよね?」

(えっ?! 俺の音を掴んでた?)

祥子は音に情景を載せられるから、俺の情景も読み取れたのか。
それなら…。
俺は確かめる為に話を進める事にする。

「そう感じた?」
「うん」
「なら、俺の聴き間違いじゃなかった」
「何を?」
「祥子が応えてくれた様な気がして。俺、嬉しくて」
「私が応えた?」
「「好きよ」そう応えた」
「…」

こんなにストレートに言うつもりは無かったが口から出ていた。
祥子が息を呑んだ様に俺を見て、視線を床に落とした。沈黙になった。

(違ったのか)

「違った…か。俺、…勝手にそう思ったのか。あ、何でもないから。今のは何でもない。聞き流して。音だし、そんな風に受け取るのが変だった。馬鹿だな俺って。祥子、急ごう。皆、待ってるから」

ホントに馬鹿だ。はっきり言葉じゃないんだ。意味なんか無いんだ。
俺は急いで馬鹿言ったのを消すように、祥子を促した。祥子に向ける顔を作れなかったから、祥子に背中を向けた。ここから逃げ出したかったから、足を動かしたら、俺の腕が掴まれる。
祥子の声が耳に入って来る。

「聴き間違いじゃない」
「えっ?!」

俺はその場で立ち止る。

「間違ってない」

もう一度、祥子の声が耳に入る。俺は祥子の手を解き、振り返って祥子を見る。祥子は真っ赤になって俺を見た。今の言葉を聞き返す。

「間違ってない?」
「うん」

俺は目の前の祥子の顔に嬉しくなっている。

「祥子、顔が真っ赤」
「あ、やだ、だって。なら、エリックは、エリックは何て私に伝えたのよ」

こう祥子に問われて、改めて言うのに恥ずかしくなった。

「…祥子が応えた事と同じさ」
「それじゃ分からない」

そうだ。確かにそうだ。

「祥子、好きだ」

小さい声になった。俺はそのまま祥子の唇を塞いでいる。

二度目だ。祥子と唇が重なっている。

「今日は風邪じゃないんだけど」

可笑しくなった。祥子はあの時のキスも覚えていた。

「なら、濃厚でいいのかな」
「あ、違う。違うったら!」

もう一度重なる直前に祥子の顔が横を向いた。それは反則だ。俺が祥子の顎に手を添えると、その腕を祥子の手が掴んで邪魔をする。でも、逃げられないように唇を合わせた。
俺の腕から、祥子の手の力が抜けて離れていった。

「私の噂が無くなる迄、時間を頂戴」

三度目のキスの後で言われた言葉。
本音を言えば祥子と二人きりで居たいけど、暫くは自粛(じしゅく)が必要。



皆の中心になっている祥子を見ながら思い返していた。

レストランは貸切だ。シドが仕切っているようだ。
珍しく事務の人達も参加してるのに驚いた。それだけ今日の演奏会には思い入れがあったって事なんだ。その成功は祥子がもたらしたんだ。

祥子があちこちに連れ去られているのを横目で見ていたら、ガド爺が俺達のテーブルに近づいて来て嬉しそうに席に座った。

「ガド爺も来てたんですね」
「そりゃな。祥子の音が聴きたくて、飛んで帰ってきたんじゃ」

征司が飲み物を勧め、ガド爺が飲み干した。

「祥子は強いじゃろ。今迄の生活を捨ててきたから強いんじゃ」
「今迄の生活?」

俺が聞くと、ガド爺が俺達を見据えた。

「エリックと征司、それにミリファ。君達は音楽の中で育ち音楽で暮らしてきてる。だが、祥子は会社に勤めて、そのまま結婚して暮らすのが当たり前の生活だったんじゃ。それを全て切り捨てて音楽に入ってきた。失敗が命取りだと思ってるんじゃろう。日の目を見た後で元の生活に戻れないのを知っているんじゃ。だから強い」

三人で無言のまま(うなず)いている。

「直前の緊張は見てて可哀想になる位なんじゃ。君達みたいに場慣れしていないからなんじゃが。祥子自身が緊張で壊れないかと、ワシはいつも心配しとった」

直前の祥子の顔を思い出した。緊張に追い詰められて俺にすがってきていた。俺と手を繋ぎながら祥子の手は痛い位に俺の手を震えながら握っていた。

「じゃが、今日を見て少し安心した。君達が祥子の支えになってくれとる。感謝しとるぞ」

そう言ってガド爺が皆を見回し、最後に俺を見てこっそり目配せをした。
ドキリとしながら、何事も無いように俺は笑った。手を繋いでいたのを見られていたのかもしれない。

「ゆっくり食べていられないんだから」

テーブルに戻ってきた祥子が俺の隣に椅子を引っ張ってきて座った。

「でも、気兼ねなく食べれるのは嬉しいわ」
「そうよね」

ミリファが答えたら祥子は大きく頷いた。

「ミリファに迷惑かけちゃってごめんね」
「いいのよ。征司と行けない場所に一緒に行けるんだもの。祥子が来てくれて私のほうが嬉しいのよ」
「ミリファ、俺と行けない場所ってどこの事だ?」

征司が慌てたように聞き返すと、ミリファが悪戯っぽく笑う。

「そりゃ、可愛い物屋さんよ。ねっ」
「そうそう」

祥子が頷いて征司を見たら、征司がピンと来たらしく言う。

「あぁ。そういう場所は祥子に任せた」
「そうでしょ。征司はそういうトコ来てくれないんだもん」
「ワシなら付き合うぞ」
「ガド爺ったら。なら、目一杯おねだりしちゃおうかな~」
「ミリファに付き合うから私も私も」
「いいぞ。二人分まとめて面倒みてやるぞ」
「「 やった 」」

無邪気に笑う祥子の顔を見て、祥子は普通の女性なんだなと気づかされる。普通の女性なのに、身に覚えの無い噂のターゲットにされているんだ。
カノンがその出版社に圧力を掛けるはずだ。祥子の噂もあと少しの辛抱だ。
俺の隣で食べていた祥子がふと顔を上げた。

「そうだ。ヘンリー」

丁度、俺達のテーブルの横を通り過ぎようとしたヘンリーに祥子は声を掛けた。
ヘンリーが気づいて立ち止まる。

「祥子。何?」

俺は嫉妬しているのかもしれない。
祥子が笑顔を向けてヘンリーと話すのを、一言も漏らさずに聞こうとしている。

「ヘンリー、ありがとね」
「ん? 何? 俺、何かした?」
「楽屋で私が笑われてるの、あれを静めてくれたでしょ」
「おや? 祥子はドイツ語分かる様になったの?」
「悪口はね。反論は出来ないけど」
「そうか。それ聞いても、よく頑張ったね」
「…うわっ!」

祥子が驚き、俺だって驚いた。
ヘンリーがさりげなく祥子の頬にキスしたんだ。当たり前の挨拶だけど、頬にするのは俺だってミリファにした時があるけど…。俺はそれを見て一瞬固まった。

「ヘ、ヘンリー! そんな事軽々しくしないで!」
「ご褒美の挨拶くらい好きにさせてくれよ」

テーブルの皆は大笑いしてヘンリーを茶化し始める。
ヘンリーにフォークを向けてる祥子に可笑しくなったが、祥子の赤い顔を見て胸の奥がざわついた。

ヘンリーと俺が比べられたらどうしようかと。

祥子とキスをかわしたのが、はるか昔に感じられた。
その時、祥子の手が俺に触れた。俺の腕を引っ張ってテーブルの下に落とし、手首を掴んだ。俺を見て真っ赤な顔のまま「ごめんなさい」そう呟いた。「気にしないさ」俺が祥子に返したら照れた表情を出して手を離した。



俺達のテーブルにちゃっかり座ったヘンリーが、皆の話に加わる。
話に相槌を打ちつつ食べていた祥子が慌てる様に席をたつ。

「シドと話してこなきゃ。あ、居た居た。すぐ戻ってくるから」

逃げ道を探す様にシドを探し出して俺の隣から離れていった。
入れ違いにカルシーニが近づいてきた。

「祥子に嫌われてますね」

苦笑いを出しながら、祥子の座っていた席に腰を掛けた。

「征司、エリック、ヘンリー。今日は見事でした。本番で最高の音を出せる君達だから、私も大きな賭けが出来ました。君達の音があれば上手くいくと狙っていました。祥子の音がなくてもね」

そう言って、カルシーニは移動していった祥子に視線を飛ばした。

「カルシーニ。お前さん、祥子の事そんなに低く評価しとったのか」

ガド爺がそんな馬鹿な事を…とでも言う様に言った。
カルシーニがガド爺を見て肩をすくめた。

「女性であそこまで叩かれてたら実力を出すどころじゃないと踏んでいたんですよ」
「思い違いじゃったじゃろ?」
「昨日までは、所詮こんなもんかという出来だったんですよ。それがリハの音で驚いたんですよ。本番で更に音が良くなった。祥子には騙されました」
「祥子はお前さんが期待してないのを察知したんじゃろ」

ガド爺が勝ち誇った様に笑った。カルシーニが少し赤くなって口を開く。

「私はまんまと騙されましたよ。さすがガド爺の秘蔵っ子ですね」
「そうじゃろそうじゃろ」
「征司達の音を引っ張っていけるなんて思いませんでした。アンコールの曲にヘクラ火山と迷っていたのですが、リハの音を聞いてアレにした訳ですよ」
「熊蜂じゃな。いい選曲じゃ」
「さて。祥子が逃げようとも一言伝えなきゃいけませんな」

カルシーニが席を立って、祥子の居るテーブルに向かった。祥子の肩を叩いて話しかけてる。

強張った表情で祥子が戻ってきた。

「カルシーニに捕まっちゃった」
「何て言われたの?」

ミリファが尋ねると、祥子が首をかしげた。

「今度合わせる時は初めから本気でかかってきなさい。私もそのつもりで君に向かうから。って」
「祥子、指揮者を騙しちゃいかんぞ。指揮者とは信頼関係で結ばれなきゃいかんのじゃ」

ガド爺が一喝する感じで祥子を見た。祥子はガド爺を見てバツの悪そうな顔で言う。

「今回は手探りだったから…」
「なんて言って、「カルシーニのおじさんに一泡吹かせたのよ!」って大喜びで私に言ったわよね」
「え、あ、やだ! ミリファったら、それは内緒よ!」

ミリファに向かって人差し指を口に当てて大慌てになってる祥子を見てテーブルの皆は大笑いになった。

「こりゃ、楽団の言い伝えになりそうだな。「カルシーニの受難」ってね」
「あぁぁぁぁ…そんなつもりじゃ無かったのに」

ヘンリーが茶化すと祥子が頭を抱え、更に大笑いになった。

楽しく時間が過ぎていき、お開きになる。



地下鉄の駅まで皆で移動してても物陰から祥子が撮られてるのが分かる。
練習所から二人で移動しているときだって撮られていた。
祥子がそれに気づきながらも知らない振りをしていた。俺にそっと言う。

「カノンが何とかしてくれるって。だからもう気にしないの。だけど外でキスはだめよ。腕を組むのもね」
「極力、そう心がけよう」
「ありがとう」

俺達の後ろから声が掛かる。

「祥子~」
「はい? あ、エドナ」

祥子の横にエドナが並ぶ。

「この後って出かけちゃうの?」
「いえ。何も用事は無いけど」

チラッと俺を見たけど、約束はしてないから祥子はそう答えた。

「じゃ、やらない?」

エドナがコップを開ける仕草をした。

「エドナったらさっきも結構飲んでなかった?」
「あら、そんなに飲んで無いわよ」
「嘘ばっかり。テーブルに何本開いてたっけ?」
「あれはシドも飲んでたからよ。私は4、5本飲んでた位よ。じゃ、決まりね。うちで二次会ね。そうと決まれば買い足ししなきゃ」
「待ってエドナ! 二人だけってのは止めようよ。こないだみたいに終わりがなくなる」
「そう? 祥子がいける口って分かって嬉しいのに」
「お願い。今日は大勢にしましょ。私の家ならまだ荷物が少ないから人数多くても大丈夫だから」
「しょうがないわね。今日はそうしましょうか。なら、エリックは来れるわよね」

エドナが俺を見て断っちゃだめよ、みたいに言った。

「大丈夫」

祥子と一緒に居られるのなら断る理由なんかない。

「前のお二人さんも来れるかしら?」

エドナが前を歩いてたミリファと征司に声を掛けた。

「いいわよ。楽しそうね」
「あぁ」
「エドナ、楽しそうな計画だね。俺もいいかな?」
「ヘンリーも大丈夫なの? じゃ、いいわよ。あ、シド、ユンナもどう?」

エドナが声を掛けていく(かたわ)らで、祥子が青冷めていく。

「あらら。人数が増えていくわね。大丈夫かしら」
「無理する事は無いんだよ。ダメならダメで良いんだ」
「大丈夫よ。こんなの初めてだもの。楽しいわ。それに…エドナったらああ見えて飲むんだもの」
「知ってるよ」
「あ、そっか。エリック達は馴染みなのね。私、こないだ一緒に飲んだら、終わりがなかなか来なくて、大変だったのよ。楽しいんだけど、休日前じゃないとね」
「俺等が終わりを促す役目なんだな?」
「そうよ。あ、エリック、ちょっとちょっと」
「何?」

シド達が俺達の横を通り過ぎて行くのを眼にして、祥子が俺を指で招き、小声で言う。

「シドの横に居る女性、ユンナって人、どんな人なの?」

シドの横には小柄な女性だ。事務のユンナ・ハンブルだ。

「彼女? ん~そうだな。ちょっと変わってるな。でも、慣れると優しい」
「皆、そう答えるのね。変わってるけど優しいって」

前を歩いてた征司が振り返った。

「彼女、日本語話せるよ」
「えっ?」
「征司、ホント?」

祥子とミリファが驚いた。

「あぁ。ユンナは日本語が分かるし何とか喋れる。俺、話した事あるから」
「そう。それは嬉しいけど、私はまだ挨拶すらして貰えないのよ。さっきだって挨拶したら「あ、そう」って返されちゃったのよ」
「これから仲良くなれるわよ。彼女この後来るってよ」

ミリファが言ったら、祥子が驚く。

「同じアパートだから来なきゃいけないって思ったのかしら」
「祥子が気になるんじゃないの?」
「うわぁ」



祥子の家に皆で押しかけ、酒と食べ物を買出しに行き、エドナの家から椅子やお皿を追加するのを手伝った。

祥子の家はまだ広々としていた。何を置いていいのか迷ってる感じを受けた。日本を忘れないようにしてるのか、所々に日本語の書いてある本が置いてあったり、マンガが置いてあった。征司の家も初めはそうだったのを思い出した。

酒が開けられていった。

「祥子、これ何だい?」

ヘンリーがテレビ台に置いてあった紙で出来た物を取り上げて聞いた。

「鶴よ。折り紙で作ったの」
「祥子が作ったのかい?」
「そうよ」

そう言って、寝室から紙の入った箱を持って来て折ってくれた。
祥子の手から一枚の紙が形になっていくのを見て、不思議に思えた。

「征司も作れるのか?」

俺が聞くと征司が笑って答える。

「思い出せたらな」
「日本人じゃなくなったな」
「ここんとこ帰ってないからな」

そう言って、懐かしそうに本を開いた。
その征司の向こう側でユンナが祥子に話しかけてるのが眼に入る。

ユンナが本を手に何かを聞いている。祥子が寝室に引っ込んで直ぐに本を何冊かユンナに手渡すと、ユンナは嬉しそうに窓際に椅子を引っ張って行って、本を読み始める。

祥子が俺の横に来た。

「驚いちゃった」
「どうした?」
「ユンナが話しかけてくれたの」
「何て?」
「マンガ見せてって」
「マンガ?」
「そこに置いてたの見つけたみたい」
「それで?」
「全巻読みたいって言ったから渡したの」
「へぇ。マンガが取り持つ縁だね」
「何か複雑な気分だわ」

ユンナは一人マンガに没頭している。



楽しい時間も終わりになる。

「俺、椅子運ぶの手伝うよ」

ヘンリーが手伝いを買って出たから俺も手伝う。ヘンリーが祥子にちょっかい出すかもしれないと思ったのもある。征司とミリファが帰り、シドも帰り、ユンナがマンガを持って帰り、ヘンリーがエドナの家に椅子を運びに行った。

俺は祥子の部屋を片付ける。
祥子は酔っ払った感じで鼻歌を歌いながら洗い物をしていた。
日本語の歌だった。日本語の歌なのに、ノリのいいテンポの曲だった。

「ご機嫌だね」
「うん。楽しかったから」
「何の曲?」
「日本で流行ってるポップスってのかな。あ、エリック、ありがとう。このお皿をエドナの家に持っていくだけよ」
「俺が持って行くよ」
「お願いね」

山と積まれた皿を落とさない様にエドナの家に持って行く。
エドナの家では酔っ払ったエドナが椅子に座って、ヘンリーを使っていた。

「ヘンリー、これあっちの隅に持ってって。あ、エリック、ありがとう。ヘンリーに渡して頂戴。同じ皿のトコに置いてよ」
「はいはい」

ヘンリーが俺から皿の山を受け取って苦笑いした。

「エリックも同じか?」
「似た様なもんだ。急いで戻らないと怒られそうだ」

そんな事はないんだけど、手伝わされそうだったから逃げる。

「そか。酔っ払いの女王様だな」
「はい、そこ! 無駄話してない!」
「「 はいはい 」」

祥子の家に戻ってみると、祥子が居ない。

「祥子?」
「あ、ちょっと待って」

寝室のほうから祥子の声がした。

「どうした?」
「あ、来ちゃダメ。椅子に座って待ってて。飲み物置いてあるから」
「そう」

ヘンリーが戻って来てしまう。折角の二人きりなのに。

(はや)る気持ちを抑えて椅子に座る。テーブルにワインが置いてあった。ワインのラベルに日本語が書いてある。日本産のワインだ。

「日本でもワイン作ってるんだ。赤か」

壜を手に取ってみた。
電気の光を通してみる。緑の壜の中で濃厚な赤が透ける。

寝室の戸が開いて祥子の顔が覗いて、直ぐに出てくる。
俺は壜を置いて祥子の姿に釘付けにされている。

「エリック…可笑しいかな? これが浴衣なの」
「浴衣? 祥子が言ってた着物を簡単にしたモノ?」
「そうよ」

初めて見た。着物の様に色の派手さはないけど、時代劇とかで着てるのと同じ感じだ。
俺だって、現代の日本人がどんな服装をしてるかは知っている。でも、日本古来からの着物を映画やテレビで見ているから、実際に見てみたかったんだ。

「祥子、似合うね。触っていい?」
「うん」

祥子に近づいて浴衣に触れてみる。俺が着てるシャツと同じ素材のようだ。

「綿で出来てるのよ」
「これは?」

祥子のお腹に巻かれているモノを指差す。

「これは帯。結んでるのよ」

祥子の背中にそれが蝶の様に結ばれている。

「蝶が止まってるみたいだね」
「結ぶのは大変なのよ。結び方がいろいろあるから、覚えなきゃならないの」
「これはどんな時に着るの?」
「今の時期に着るのよ。日本では夏に花火大会やお祭りがあちこちの地域であるの。私はその時に着て行ってたのよ」
「着物は?」
「着物はいつでも着れるのよ。大切な席に出席する時に着たり、普段でも着てる人もいるのよ。素材もいろいろあって凄く高級なものもあるのよ」
「へぇ」

祥子の姿を眼に入れて俺は困っている。祥子が俺が静かになったから振り向いた。視線が合って少し赤くなった。

「エ、エリックと約束したでしょ。日本の物で何かって」
「あ…そうだったね。祥子が日本人だって分かる」
「あら、こんな時だけ?」
「ま、まさか。祥子の眼の色…髪の毛だって」

手が祥子の髪に触れている。自然と当たり前のようにキスになってる。

俺の耳に隣の扉が閉まった音が入ったから、祥子と離れた。

「…もう」

祥子がどちらに対して「もう」と向けたのか分からないが、祥子の家の扉が開けられて、ヘンリーの口笛が耳に入る。

「あら、祥子、何着てるの? それ何て言うの? 可愛いじゃない」
「これ浴衣って言うのよ」

エドナが祥子に突進していき、触りまくっている。
ヘンリーが俺の横に来てニヤリと笑った。

「君の為に着替えたのか?」
「さあね」

祥子に視線を流したヘンリーが呟く。

「オリエンタル レディだな。日本から祥子を奪い取った」
「そうなるな」
「祥子の音、いいな。俺達を魅了させる」
「魅了…そうだな」

「はいはい。エドナ、明日着せてあげるから」
「えっ?! ホント?!」
「ホントほんと。でも、帯はキツイのよ。覚悟してね」
「平気よ」

帯に指を引っ掛けたまま祥子に引っ張られてきたエドナが嬉しそうに手を離し、テーブルの上のワインに気づく。

「あら、ワインね」
「そう。片付けを手伝ってくれたからお礼よ」
「日本の?」
「そう。見つけて買ってきたの。エドナと飲めるかなって思って」
「嬉しいわ。日本産のワインは初めてだわ。早く開けましょう」

祥子がグラスに注いでいく。4つのグラスが重なった。


- #25 F I N -


「ミスター バッソ。ヘクラ火山で赤いドレスって、マグマ? マグマなんですか?」
「噴火ですから、マグマですね」 
(カルシーニのおじさんってば、意外とお茶目なのか?)


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