#54 混乱 <祥子視点>

文字数 3,759文字

体の痛みで目が覚める。右脚からドクンドクンと脈打つ様に痛みが襲う。
視線をゆっくり動かして横でシドがうたた寝しているのが目に入った。
その姿を見て切なくなっていた。私はシドの事が好き…だった?
一緒に過ごしていて、私を通してルナを見ていたシド。私自身を見て欲しくなっていた?

腕を動かしたら一緒に布団の音がして、シドが気づく。

「祥子、痛むのですか?」
「はい。それと、その…」
「どうしました?」
「あの…トイレに」
「あ。そうですか」

シドが看護師を呼んでくれて、部屋を出て行った。今は動けないから手を貸して貰わなきゃならない。ここは病院だけど、恥ずかしい。
痛み止めが打たれて、看護師が出て行くとシドが戻って来る。私の横に座る。

「シド、すみません。仕事があるのに」
「いいんですよ。祥子は私の家に住んでる家族ですから」
「家族…ですか」

私がそう言ったら、シドが困った顔をして口を開く。

「そう言わなきゃいけないんですよ」
「どうして?」
「私は…ルナを想いながらも、祥子、君を見始めていたんですよ」
「…シド」
「だけど、君はエリックを想っていて」

また、エリックという名前が出てきた。

「その人、私の何だったんですか?」
「恋人ですよ。祥子の大切な人です」
「恋人? 私、その人の覚えがないんです」
「祥子とエリックは、羨ましくなる程の二人ですよ。音を通じてお互いを引き上げていました」
「その人は何の楽器を?」
「エリックはチェロですよ」
「チェロ」

楽器は思い出せるけど、その人の顔は浮かばない。恋人だったら一緒に居たのに。

「祥子はエリックと幸せになれるんですよ」
「でも、私は、エリックって人じゃなくて…シド、あなたを…あなたの事が好き」

シドが私の目の上に掌を載せる。

「祥子の記憶がこんがらがっているんですよ。だから、今の言葉は聞かなかった事にしますね」
「シド、この気持ちは…これは本当です」
「私は…」
「分かってます。分かっているんです。だけど…」
「もう、お休みなさい。まずは体を治す事が先ですよ」
「…はい。…お休みなさい。シドも休んで」

シドの掌の下で目を閉じた。掌の温かさが離された。

(私は今…失恋したんだ。失恋?)

チクリと胸が痛くなった。

(記憶がこんがらがってる)

「シド…ごめんなさい」
「祥子…ありがとう」

部屋の中が静まり返る。



朝が来る。外は雨で薄暗い。首の固定が外され顔を動かす事が出来た。ベッドを動かして上半身を起き上がらせても大丈夫だけど、身動きをすると痛みが襲う。(かゆ)い箇所があっても引っ掻くのも出来ない。孫の手を思い出す。

(ロンドンに孫の手はあるのかな?)

アーチャーさんが部屋に入ってくる。

「祥子、大丈夫かい?」
「はい。アーチャーさんも大丈夫ですか?」
「私はこんなに元気ですよ」

そう言って、首から下げてる腕を揺らしてる。

「良かった。あ、そうだ。ルナはどうだったんですか? 昨日元気そうでしたけど」
「あの子は、スリキズと打撲ダケで済みました。座席にしがみ付いてたそうですよ」
「そうでしたか。良かった」
「シドに話しましたが、残りの公演はキャンセルです。祥子が元気になったら実現させましょう」
「はい」

アーチャーさんが「シド」と呼んでる。ルナとシドの仲を認めたんだ。

「それともうひとつ。祥子の荷物はここに届ける様に手配してます。ですが、ひとつ、フルートケースだけが行方不明なんです。見つけ次第、ここに届けさせますから」

(フルートケース?)

ラルフがアーチャーさんを呼びに来て連れて行った。

「シド」
「何ですか?」
「フルートケースって?」
「え?」

シドが驚いて私を見る。

「どうして私がそんなの持ってたんですか?」
「祥子、君はフルートを吹いているんですよ」
「やだなぁ。シドったらまた私をからかうんですか。私、フルートなんか吹けないですよ」
「え? なら、何を吹いてるんですか?」
「吹いてるんじゃないですよ。弾いてるんですよ。バイオリン弾いてるじゃないですか」
「バイオリン…ですか?」
「そうですよ。シドったら、そう何度も騙されませんよ」

私を見てるシドの顔が真剣に驚いてるから、私は笑いを止める。

「シドだって…あれっ? シドはフルートでしたっけ? あ…え? 私、フルート吹いた事無いですよ。高校の時バイオリンでしたもの」

思い出してもフルートなんて持った記憶すらない。記憶…?
頭の中に色んな事が浮かび上がってきたから混乱する。今、考えたいのは楽器の事なのに、日本の事やら、アパートの事、食べ物の事や、…チョコレート。

「チョコ…チョコレートが食べたい」

突然、勝手に口から出て行った。

「分かりました。下で買ってきますね」

シドが部屋を出ていって、直ぐに戻ってくる。

「この位でいいですか?」
「はい。これは…充分すぎます」

小さい袋にチョコが一杯詰まっていた。思わず笑ってしまった。私ってそんなに甘い物好きに見られてるのだろうか。

「シドもどうぞ。私の看病で疲れてるでしょ」
「ひとつ頂きましょう」

甘い味が口の中を広がっていき、何かが頭の中で引っかかった。だけど、それが何なのかが分からない。それでも少し落ち着いた気がした。

バンと勢いよく病室の戸が開けられて大声が掛かる。

「祥子っ!」
「え?! あ、お母…痛っ! 痛いって! 痛い!」
「祥子! 無事で良かった! 皆、皆、心配してたんだから! 事故の知らせ聞いて心配で心配で…」
「お、お母さん! 痛い、痛いから。痛いんだよぉ」

病室に入って来た人を見る為に、顔をゆっくりと動かしていく。お父さんに弟まで来てる。そして、連れて来てくれたのがユンナだった。通訳で呼ばれたのだろう。

ユンナがシドに話しかけ、お父さん達に声を掛けてやっとお母さんが私から離れた。
心配掛けてたんだな。痛みを実感してて思った。
弟が私に耳打ちをする。

「姉ちゃん、あの通訳してくれるユンナって娘、可愛いな」
「あんたは姉を心配せずにそっちかい!」
「姉ちゃんは頑丈(がんじょう)だからな。でも、慌てたんだぜ。行方不明なんて報道されて皆で青くなってたんだから」
「そっか。それはごめんね」
「それにしては、外見重症なんだな」
「外見だけじゃないんだよ。骨もいってるんだから」
「脚だけで良かった。悲しい対面にならなくて良かった」
「縁起でもない事言わないでよ」

皆がシドに連れられて病室を出て行った。私の容態を医者から聞いて今後の療養や活動について説明を受けるのだろう。病室に取り残された私は、忘れてる事を思い出そうとしていた。

エリックという男性とフルート。

「覚えがないなぁ。フルートだって。バイオリンはこう」

指が自然と弓を持つ形になってる。弦を押さえる左手はこう。構えが出来る。
今回だってバイオリンでルナの声と合わせて…たんだ。

「確か…そう。フルートじゃなくてバイオリンなのに、皆、間違えてるんだ」



シドとユンナがウィーンに戻り、私の周りには家族が残ってくれている。アーチャーさんと仲良くなれたのが嬉しいのか、お母さんはアーチャーさんのファンになっていた。

「アーチャーさんの公演行かなくちゃ。祥子が頑張ってる世界って凄いのね」
「お母さんたら」

お母さんは真顔になって私に聞く。

「祥子は音楽をやって良かったの? 今、幸せだと言えるの?」

仕事を辞める時に一番心配してたのはお母さんだった。音楽は先の見えない仕事だから、今でも心配してるのが痛い程、分かった。

「うん。この世界に飛び込んで良かったと思ってる。大変なのは、どの仕事をやってても同じだから」
「そう。じゃぁ、頑張りなさい」



体の痛みも治まってというか慣れてきて、脚の骨折だけだから、看病する必要がないのが分かった家族の面々は観光に出かけてる。アーチャーさんのご好意で、秘書のラルフが案内してる。家族が居ない間に、ルナやアーチャーさんが入れ替わりで病室に顔を出してくれる。

「アーチャーさん。私の家族がご迷惑をお掛けしてすみません。すっかり図々(ずうずう)しくなってしまって」
「いいんですよ。祥子は私達との仕事中に事故に合ったんですからね。この位させて下さい。観光案内なら路地裏まで出来ますよ」
「あら、凄い」
「祥子も完治したら一緒に回りましょう」
是非(ぜひ)、お願いします」



車椅子は脚が突っ張ってるから結構危険だ。自分で動く為に松葉杖の練習を始める。
家族は1週間しっかり観光をして日本に帰っていった。

金曜日にルナがやってきた。嬉しそうな顔で口を開く。

「具合はどう?」
「松葉杖で脇と腕が痛いわ」
「慣れるまで大変ね。ね、祥子。聞いて頂戴(ちょうだい)
「何か良い事あったの?」
「えぇ。とっても良い事よ。祥子に一番最初に聞いて欲しくて来たの」
「何? 教えて」
「あのね。さっきシドにプロポーズされたの」
「なら…」

私がルナの左手に視線を向けたら、ルナは嬉しそうにその左手を私の前に差し出す。
人差し指にダイヤのついた指輪がある。指輪…指輪。頭が混乱する。どこかで指輪を見た。見て幸せな気持ちになった事がある。幸せになりたい気持ちがあった。
混乱を隠す為にお祝いを言う。

「ルナ、おめでとう。良かったわね」
「祥子、ありがとう。直ぐにシドもここに来るわ」

シドにもおめでとうを言った。照れたシドを見て少し胸が痛んだ。



- #54 F I N -


姉ちゃん、孫の手見つけてきたぞ。
バックスクラッチャーって名前で売ってた。
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