#46 心配 <祥子視点>

文字数 8,414文字

思いっきり泣いたから、体にポッカリ穴が開いたみたいだ。

(エリックと寝てなくて良かった)

だからこれだけで済んだ気がする。顔を洗ったら気分もさっぱりした。
朝食の準備を手伝いに一階に下りる。

「祥子、おはよう」
「…シド、おはようございます。早い…ですね」

シドが新聞を開いていた。いつもの様にシドが私に向かって言ったから、昨夜の事を恥ずかしく思う暇が無かった。シドがチラリと私を見る。

「祥子、眠れましたか?」
「はい。昨夜ご迷惑を」

私が言い終わる前にシドが口に指を立てて視線をリリアの居るキッチンに向けたから、私は口を閉じる。シドが声を潜めて言う。

「いいんですよ」
「ありがとうございます」
「コーヒー入れて貰えますか? リリアに詮索されるのは困るでしょ」
「はい」

リリアに挨拶して、コーヒーを入れる。ドリップしてる間、窓の外を見ていた。

練習所でエリックに会っても普通に接しよう。最初に声を掛けちゃえばなんとかなる。別れたってへっちゃらよって。この一歩の勇気がいるけど。

コーヒーをカップに注いで、シドに持って行く。渡しながら思っていた。
シドは私を守ってくれる。同僚に対するものだろうけど、私を守ってくれている。

「祥子も座ったら」

リリアの声が掛かって慌てて椅子に座った。いつの間にか食卓が出来上がっていた。

「お手伝い出来ずにすみません」
「たまにはゆっくりの朝もいいんじゃない。誰かさんはいつもそうだしね」

リリアがシドに視線を向けたら、シドが咳込んで大慌て。笑えないと思ってた私が笑ってる。

シドと一緒に練習所に向かいながら、いつものように話してる。



廊下を歩いてたらエリックの背中があった。

(最初の一歩。このまま縁が切れるほうが嫌だ)

顔が強張ってるかもしれない。でも、この一歩が大事。

「エリック、おはよう」

エリックの背中が固まった様に見えた。振り向けないみたいだから、私が横に並ぶ。

「エリック、おはよう」
「…祥子…おはよう」

恐る恐る私に視線を向けたエリックの表情は、昨夜を思い出させる顔だった。私の顔だって強張って、下手すると泣き出す顔だろう。必死で泣くのを抑えて、なんとか笑う。

「エリック、同じ楽団の友達よ。友達になっただけなのよ。いつも通りでいいわ」
「…あぁ」
「エリック」

エリックの前で止まって、顔を向き合わせる。エリックが視線をそらす。

「私の存在が無いほうがいいの? 私は友達としてエリックに係わっちゃいけないの?」

エリックの視線が私に戻る。

「いい。祥子はここに居ていい。友達として俺の傍に居ていい」
「ありがとう。エリックは私から逃げないでいいから」
「あぁ」
「一発殴ろうと思ってたけど、貸しにしといてあげるわ」
「一発?」
「そうよ。こんなのを渾身(こんしん)の力を込めて打ち込みたいんだけど、ここじゃマズイのよ。昨日やっときゃ良かった」

エリックの顔の前に(こぶし)を止めた。エリックが少し笑った。

「それは痛そうだ」
「そうよ。じゃね」

フルートパートの部屋に入って、胸を撫でおろした。大きく深呼吸だ。

午後にシドから私のスケジュール変更が言い渡された。

「ご要望通り、沢山入れときましたよ」
「ありがとうございます」
「次の定期演奏会は欠席ですよ。大きいのが入ってますから」
「大きいの?」
「国外ですよ。ドイツに行って貰います」
「ドイツですか」
「はい。オペラに呼ばれてます」
「アーチャーさんですか?」
「いえ。ガド爺が祥子を連れて行きたいと言ってきました」
「あ、シド、あの件は?」

アーチャーさんの依頼の件だ。

「あれは、もう少し待って下さい。調整がつかなくて」
「そうですか」

それが決まれば、1ヶ月はここに居なくて済む。



定刻で終えて自分のアパートに戻った。久々に開けた私の家は寒々としていた。
秋物の服を持って帰れるように(まと)める。思ったよりランスを捕まえるのに時間が掛かっている。だから自分の家なのに堂々と帰れない。
寝室に入ってフルートケースを引っ張り出した。エリックからのケースは使えない。そう思ったからだ。
箱から出したらパキンと音がして、取っ手が壊れ、ケースが床に落ちた。

「エリックを忘れちゃ駄目って言ってるんだ」

ベッドに視線を飛ばす。あそこで何も無く一緒に朝を迎えた事があった。

「いい思い出よ。思い出…あ、はい」

戸が叩かれてエドナの声が掛かったから開ける。

「灯りが見えたから。どうしたの?」
「服取りに来たの」
「そう。ならついでだから、飲んでかない?」
「直ぐ帰らなきゃ」
「いいじゃない」
「ヘンリーが来るんでしょ」
「公演会行ってるから顔出すのは遅くなるのよ」
「お邪魔になるから」
「気にしないで。祥子が増えるのは歓迎よ」
「でも」
「それに祥子は滅入ってるんでしょ?」
「…どうして?」
「これよ」

以前、私がお世話になったゴシップ誌を、エドナが叩いた。

「それが?」
「見てないのね。でも、祥子は泣き疲れてるし、エリックはぎこちないし」
「私、泣き疲れてる?」
「えぇ。だから、おいでよ」
「…うん」

家に鍵を掛け、リリアに夕飯はいらないと連絡をして、エドナの家にお邪魔する。

「パスタ作るから待ってて。その雑誌読んでるといいわ」
「うん」

パラパラと捲っていく。直ぐにその頁が眼に入る。

 密会から既成事実

エリックとシェリルが一緒に建物から出てきてる写真だ。横に小さく私がウィーンに帰って来た時に撮られた姿が載っていた。

 元恋人はその事実を知ってか母国に帰っていた。

「これ本当なのね」

パスタを盛ったお皿を置いてエドナが言った。

「えぇ。私がエリックから聞いたのは昨夜なの」
「エリックはそんな事するタイプじゃないと思ったんだけどなぁ」
「でも、事実なのよ。シェリルのお腹には赤ちゃんが居るのよ」

エドナがどんどんワインを出してくる。酔っ払って私は事の詳細をエドナに聞いて貰ってる。

「祥子は強いのね」
「強がってるだけなの。楽団に居なきゃならないから。エリックに会いたくないのに、でも、会いたいのよ。あぁ、もう分からないわ。ゴチャゴチャよ」
「だから、仕事だらけにしたのね」
「え? あ、エドナも眼を通してるんだっけ」
「そうよ。シドがどんどん加えていったから驚いたのよ。「本人の希望だから」って。でも凄い密度よ。大丈夫なの?」
「大丈夫よ。フルート吹いていれば忘れていられるから」
「体調には気をつけるのよ。倒れたなんて事になったら困るのよ」
「気をつけるわ」

エドナが記事を指で弾きながら言う。

「この雑誌もたまには本当の事書くのね」
「そうね」
「でも、1ヶ月で「妊娠?」なんて調べないわよ」
「その前にそうなっちゃってたら調べるじゃない。シェリルは学生だし」
「そっか。でも、酔っ払い位かわせそうなのに」
「シェリルもエリックの事好きだったのよ。好きだったらチャンスは(のが)さないわよ」
「あ~、そうかなぁ。でも、私は意識あったほうがいいなぁ」
「私もそう思うわ」
「一方的ってのは面白くないわね」
「うん。でも、悔しいわ。マリーが、って、マリーってシドの妹さんなんだけど、シェリルには彼が居るって言ってたのよ。まさかエリックに心替えするなんて思わなかった」
「じゃ、速攻いいほうに鞍替えしたって訳ね。エリックは世界的に有名だからね。でも、祥子、悪い言い方だけど、先は長いのよ」

そう言葉を止めて私を見るから、私にもその先の言葉が予想できた。

(そうなったらエリックは私の元に戻って来る)

とても残酷(ざんこく)な希望だ。私がエリックを忘れなくてすむ希望だ。

(そんな事思っちゃ駄目だ)

自分を叱った。

ヘンリーが来て、入れ替えに私はタクシーで帰ることにした。
今はエドナ達の幸せそうな顔を素直に見れない気がしたからだ。

「祥子、なにかあったら遠慮しないで言ってよ」
「エドナ、ありがとう」
「男手が必要だったらヘンリーを使っていいから」
「あら。いいの?」
「当たり前よ。ヘンリーも祥子の友達でしょ」
「お借りする時はエドナに断りを入れるわ」
「そうしてね。いつでも力になるわ」
「ありがとう」



翌日から私はフルートを持ってあちこち飛び回っていた。
悲愴感のある曲はこれ以上無い位に感情を()めて吹けたから絶賛された。その逆の時、不思議とエリックとの嬉しかった幸せな時間を思い出せて、それで吹けた。
エリックがこれを残してくれたんだ。エリックからは音を創る事を教えて貰って、幸せな時間も貰ってた。

モーツアルト記念コンクールでは優勝する事も出来た。フルートでは満足出来るのに、プライベートは沈んだままだ。

練習所に戻ってミリファに会った。征司もミリファも私とエリックの事を気にかけてくれる。偶然私達が居る処にエリックが来れば、私から声を掛けて誘ってる。普通に喋ってる。ぎこちなさが時々出てくるけど、そんなのは時間が経てば無くなるだろう。

ミリファと練習部屋に移動しながら言われる。

「祥子はさっぱりしてるのね」
「そう頑張ってるだけよ。同じ楽団員でトップ同士だから」
「そっか。私だったらって思うと怖いわよ。祥子みたいに出来るか自信ないわ」
「征司なら信用出来るわよ。征司は大丈夫よ」
「そうは言えないわ。人間って弱いから」
「…そう」

部屋に入ってミリファと音を合わせる。明日からミリファと大学公演になる。各地の大学を回って、そこの学生オーケストラに合わせる。

「祥子の音に(すご)みが出てきてるわね」
「凄み?」
「うん。怖い位よ。気をつけないと他の音を殺しちゃうわよ」
「気をつけるわ」
「私の音は大丈夫よ。でも、学生の音はね」
「そうね。金属のほうを使う事にするわ」



最後に地元の大学で公演だ。

「ここ征司とエリックの出た大学なのよ」
「そう」

ここで演奏する曲にピアノ協奏曲が入っていた。
なら、シェリルが出てくる。

大学構内に入り、演奏するホールに足を踏み入れたら、本番前の練習してる音と一緒に、私の噂がされてる気がした。チラリチラリと私に視線が止まり、お喋りしてる。
シェリルに恋人を取られた女が来た、ってトコロだろう。

「相変わらず気持ち悪いのね」

ミリファの声が耳に入り、ミリファの視線を追いかけると、シェリルが口元を押さえてピアノから離れた姿が眼に入った。

「私が来たから緊張したのよ。男を巡って決闘になるとでも思ったんでしょ」
「祥子ったら。でも、つわりなのかもよ。もう」
「…つわり」

順調にシェリルの中で赤ちゃんが育っているんだ。
私の呟きと同時にミリファも呟いている。

「つわり…ねぇ」

簡単に調律をして、学生の音に合わせる。

ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調「田園」

これは普通に音を合わせる。次だ。次。私はシェリルにささやかな復讐をしかけよう。硝子のフルートを取り上げる。

モーツアルト ピアノ協奏曲第26番 ニ長調 「戴冠式」

学生の音は引っ張りやすい。シェリルがオーケストラに合わせる事が出来る様になったとしても、まだ日は浅い。そんな音位、私が…。

指揮棒が上がり、音が出てくる。まずは、ピアノ以外の音をフルートで惹き寄せていく。簡単だ。コンマス担当のバイオリンでさえ私の音についてきた。他の音を壊さないように私の音を合わせていく。情景を出していく。どんどん出していく。
ピアノの音を主役にさせるもんか。
シェリルが抵抗してる。伴奏になんか引き込まれるもんか、と必死になってる。
私はこれだって楽しんで吹いている。楽しめたほうが勝ちだと思う。どんどん情景を出していく。

エリックを私から奪い取ったんだから、彼を幸せにしてあげるのよ。

シェリルの音が私の音に飲み込まれた。「戴冠式」だ。私からシェリルに。エリックを。

(エリック…さよなら)

まだ幸せだった時間が思い出せるけど、友達でだって楽しく過ごせるはず。

フルートを離した時、涙が落ちた。観客から拍手が贈られてきた。ミリファが私の肩を叩く。

「やったわね。音じゃ祥子の勝利よ」

私がシェリルに視線を向けたら、シェリルは慌てて視線を外した。

ミリファと大学の門で別れて、私はある場所に向かう。明日は日曜でお休みになっている。



レストラン「音(Ein Klang)」に私は居る。一人でレストランに入るのは初めてだ。ここはエリックが連れてきてくれたお店。中からオーナーでコックのフィルが飛び出してきた。

「祥子、よく来てくれた。もう、来てくれないと…おっと。まぁ、ゆっくりしてってくれ」

早い時間だったからお客もまばらだ。フィルが隅のテーブルを用意してくれた。

「これはオゴリだ」

ドンとワインの壜がおかれた。

「ありがとうございます」
「食事もしてくだろ?」
「はい。今日の一番を」
「よっし。腕により掛けるからな」

フィルが厨房に戻ろうとするのを呼び止める。

「フィル」
「何だ?」
「ちょっと吹いていいかしら」
「今か? 客が少ないが」
「それでいいの。ジャズじゃないから」
「そうか。勿体無いけどいいぜ」
「ありがとう。あ、紹介はいいから」

フルートケースからフルートを出して組み立てる。大学公演の時は金属のフルートだけを使ってきた。今日の最後でわざと硝子のフルートを使った。
硝子だと音の質が違うから、学生で場数を踏んでない音は簡単に惹き込めてしまう。今日のピアノ協奏曲は最初ピアノの音が浮いて聞こえ、最後はピアノの存在感が無くなってたはずだ。ささやかな復讐だ。

今は硝子のフルートを使う。

一段高くなってるステージに上がる。お客さん達は自分達のテーブルでお喋りをして料理を楽しんでいる。誰も私を気にも止めない。フィルが店に流れてた音楽を止めてくれた。

ゆっくりと吹き始める。

ショパン 「別れの曲」「子犬のワルツ」「ノクターン」

静かに吹いていった。フルートだから滑らかな感じを受ける。

最後に「星に願いを」を吹いていく。エリックとデュオするって約束の曲。友達でもいつか出来るといい。約束は約束のまま残してもいい。

吹き終わったら食事をしてたお客さん達が拍手をくれた。お辞儀をして自分のテーブルに戻る。フィルが料理を持ってきてくれた。

「勿体ねぇ。祥子の音をこんな少ない客だけに聞かせるなんてよ」
「いいんですよ。この位のお客さんのほうが、原点に戻れて」
「やっぱり、似てるな」
「似てるって何に?」
「あいつ…エリックにだ」
「もう、彼の事はいいんですよ。少しずつだけど、私もなんとかなってきてるから」
「あいつも、あの記事が出て直ぐにココに来た」
「彼も?」
「祥子と同じ「別れの曲」を弾いていった。最後に「星に願いを」を弾いてな」
「…そう」
「俺にゃぁ、まだ、信じられねぇんだ。あいつがそんな軽率な事するなんてな」
「えぇ。嘘だと思えましたから」
「子供出来ちまうなんてな」
「…えぇ」
「祥子、ゆっくりしてってくれ。この皿代だけでいいからよ」
「フィル、ありがとう」
「いいって事よ」

そのまま、そこのテーブルに居座って、ジャズの演奏に飛び込みで入って、楽しく過ごしていた。気持ちよく酔っ払って店を出た。

「タクシー来ればいいけど、歩いて帰れるからいっか~」

エリックがバイトしてたトコだ。エリックの家の傍にある。つまりは、シドの家にも近い。地下鉄の走ってるルートを歩いて行けば帰れる。
フラフラと歩いてたら、後ろから走ってくる足音が近づいて来て腕を捕まれた。

「ミス苅谷、こんな時間に一人歩きは危ないだろ」
「っ!」

驚いた私は叫ぶ事が出来ずに、掴んだ男に顔を向ける。
知ってる顔でホッとした。

「ハミルトン警部、驚いたなぁ」
「「驚いた」じゃない。もう2時過ぎてる。なのに君は…飲んでるんだね」
「はい。こんなに遅いから人居ないですよ」
「こんな時間だから危ないんだ。全く君は、自分の置かれてる状況分かっているのか」
「まだ捕まってないですよねぇ」
「アジトは押さえてるんだ。でも、動きが見えなくてね」
「そう…ですかぁ。ふぁぁぁ」

つい欠伸が。連日の公演で疲れが溜まってるのかな。
ポカリとハミルトン警部に頭を叩かれた。

「ミス苅谷、心配掛けてるぞ」
「大丈夫ですよ。私もう」
「彼じゃない」
「知ってるじゃないですか。なら心配する人なんて居ないんですよ」
「居るんだよ。シドから連絡貰ったんだ」
「シド? …一緒に住んでるから」
「理由はどうであれ、私だって心配してたんだ。まだ、祥子には心配してくれる人が居るんだよ。何かあったら、あのアパートに居る友達だって心配する」

エドナ達の顔が浮かび上がった。

「…すみませんでした」
「気をつけるんだ。今日は私が送るから」
「ありがとうございます」

ハミルトン警部の車に乗せられてシドの家に向かう。
軽率だった行動を反省していたら、ハミルトン警部が捜査の事を少し教えてくれた。

「君が気づいてない所で人が捕まっているんだ。それでアジトが分かった。ランスが出てこないから、それを待っているんだ。あ、そうそう。ミューラー夫人からも困る位良く捜査状況について電話貰ってる。君は皆に心配されてるのを自覚するんだよ」
「はい。ありがたいです」
「皆、ミス苅谷、君の事大切に思っているんだ」
「はい」

車がシドの家に着いて、門を開けると、アンデルの声が響いた。

「リリア! 祥子が帰ってきた」

バタバタとリリアが家から飛び出してきた。

「祥子! 今、何時だと思ってるの!」

お母さんに怒られてるみたいだ。なんか嬉しい。リリアに抱きつかれた。

「この子ったら。どれだけ心配したか。連絡も寄こさないで」
「リリア、ごめんなさい」
「あら、祥子、泣かなくていいのよ。無事に帰ってきて良かったわ」
「嬉しくて…ごめんなさい」

リリアが握り締めてたタオルで私の顔を(こす)った。

「心配かけてごめんなさい」
「そうよ。皆、心配してたんだから。ほら」

玄関にシドが、マリーが、アンデルが立っていた。

「良かった。何か事件に巻き込まれたかと思っちゃった」

マリーがホッとした声をあげた。シドが頷いてから、私を家に入れるように言い、ハミルトン警部と話し出す。
私は家の中に入って、お茶を貰った。

リリアの小言はアンデルが止める迄続いた。
皆が安心して戻って行き、シドがハミルトン警部を送り出して戻ってくる。

「祥子、これからは気をつけてくださいよ」
「はい」
「ゆっくり休んで下さい」
「はい。おやすみなさい」



翌日、遅い朝食をとって、大部屋でフルートを吹いた。
明日は一人のスケーターに一日拘束される。
フィギュアスケートの音を頼まれている。大会用の曲だ。曲は貰ってるから、それを確認していく。これは硝子のフルートで吹こう。そう思った。

「相変わらずいい音を出しますね」
「シド」
「散歩に行きませんか?」
「はい。準備してきます」

フルートを片付けて外出する準備を済ませて玄関に急ぐ。

シェーンブルン宮殿に連れて行ってくれた。広大な庭園をシドと歩いて行く。

「朝食が遅かったから、昼食はまだいいですね」
「はい。まだ大丈夫です」

宮殿内部を見て回り、シェーンブルン宮殿動物園に入る。

「ここは現存する世界最古の動物園ですよ」
「あ、日本のゾウと同じだ」

当たり前の事言ってる。でも、日本で見るのと同じなのがどこか不思議だった。
動物を見て回る。こんな休日は久々だ。陽が落ちる迄見て回ってた。

「シド、もう夕食になっちゃいますね」
「食べに行きましょう」

シドがカフェに入っていく。

「ディナーメニューもあるんですよ」
「あら、本当だ。カフェってランチとティータイムのイメージしかなくて」
「お酒だってありますよ」
「今日は、遠慮しておきます」
「昨日の今日だから?」
「シド、痛いところを突かないで下さい。もう、充分反省してますから」
「そうですよ。皆、祥子を心配したんですから」
「すみませんでした」
「と、お説教するつもりじゃないんです。昨日の事はもうここまでにしましょう」
「ありがとうございます」

テーブルにお皿が並べられて食べ始める。
シドが話しだす。

「11月の件ですが」
「行けるんですか?」

シドの話に割り込んでしまった。シドが口ごもる。

「…はい。アーチャー氏に承諾を伝えました」
「やった。嬉しいです。ありがとうございました」
「長々と祥子を待たせてしまってすみません」
「いいんですよ。スケジュールの調整がつかなかったんでしょ?」
「…まぁ、そんなところです」
「他に何かあったんですか?」
「いえ。あぁ、まぁ、そうですね」
「はい?」

シドが皿に視線を落とす。

「祥子の影響を受けたのかもしれません」
「え?」

シドの視線が私に向かう。

「逃げるのを止めてみようと思ったんですよ」
「ん?」
「まぁ、それは置いといて。祥子は1ヶ月アーチャー氏の下で鍛えて貰って下さい」
「地獄の特訓が待ってそうな言い方ですね」
「そうですよ。アーチャー氏と…ルナの声、同じ様でいて全く異なりますよ。気をつけて音を創る必要があります」
「バスとソプラノの違いですか?」
「それもあるが、二人一緒の場合、祥子の音で繋ぎ合わせなきゃならない」
「声を載せるだけじゃいけないんですか?」
「実際に聞いてみれば分かりますよ」

新たな課題が待っているんだ。


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