#43-1 失態 <エリック視点>

文字数 6,769文字

「シェリル、調律してる時のように耳で聴くんだ」
「はい」

時折、突っ走っていく癖もここ最近は落ち着いてきている。
この音だったら、俺達の音にも合わせられる。

毎日の様に俺はシェリルの練習に付き合わされている。
シェリルは学生だから、講義があって、レッスンがあってからとなると、丁度、俺と祥子が音を合わせ終わってからになる。シェリルが練習所に来て練習していく。
祥子を送っていけなくなるのは心残りだが、俺はシェリルの音をなんとかしたかったんだ。俺と祥子の音を壊されたくないのが大きな理由だ。

「エリック。どうもありがとうございます。オーケストラでも弾ける自信がついてきました」
「そうだね。シェリルの音が皆の音と(まと)まり始めてる」
「エリックのお陰です。いい先輩を持てて嬉しいです」
「あ、いや。そんな大袈裟(おおげさ)な」
「大袈裟じゃないですよ。ホント嬉しい。次に楽団と合わせるのが楽しみだもの」
「次は皆、驚くさ」

練習を終えてから、バーに入った。

「私、もう飲めるんですよ。でも、今日はジュースにします」

シェリルが言って、グラスを向ける。

「エリックに迷惑かけてごめんなさい。エリックは苅谷さんとお付き合いしてるんでしょ? 雑誌に載ってた」
「そうだよ。俺は祥子と付き合ってる」
「夜のいい時間に私が邪魔しちゃってますね。ごめんなさい」
「音楽のほうを優先にしてるのは、俺も祥子も同じだから大丈夫。祥子も分かってくれている」

そう言いながら祥子にすまない気持ちが湧き上がってくる。

(これは後輩の面倒を見ているんだ。シェリルは後輩だ。演奏会を成功させるためだ)

いい訳のように自分に言い聞かせてる。

「いいですね。そんなお付き合い」
「シェリルだって彼が居るんだろ?」

そう聞いたら、シェリルの視線が俺から離れていって直ぐに戻る。

「居ましたよ。振られちゃいましたけどね」
「悪い事聞いちゃったな」
「いいえ。そんなのいつまでも引きずらないのが私なんです」

そう言って笑った。

「食べないのかい?」

ジュースを少しずつ飲んでるシェリルにナッツを勧めた。

「お腹は空いてないから、エリックどうぞ」
「そう。シェリルは体調悪いのか?」

そう聞いたらシェリルがビクッとして俺を刺す様に見た。

「…どうして?」
「いつも気分悪そうにしてるから」
「緊張してるんですよ。コンクールでもそうだったんです。緊張しちゃうと気持ち悪くなっちゃうんです」
「早く慣れるといいね」
「こればかりは慣れでしょうね」

今は大丈夫みたいだけど、時折、ハンカチが口に当たる。

「そうだ。エリックは苅谷さんと付き合ってるって言ったけど、本当なんですか?」
「本当だよ。どうして?」
「朝から練習した日あったじゃないですか」
「一昨日だね」
「あの日、苅谷さんはシドと二人で仲良く来てましたよ」
「あぁ。祥子は今、シドの家に住んでるから」
「えっ?!」
「俺も納得してるから」
「どうして?」

ふと、祥子が以前、シドのフルートの事をあれこれ詮索しようとしてたのを思い出す。女性って知りたがる生き物なのかもしれない。

「理由はあるんだ。公にはできないけどね」
「でも、エリックは心配じゃないんですか? 苅谷さんがシドと二人っきりで」
「二人っきりじゃないんだ。シドの妹さんや、管理人夫婦も一緒に居るから」
「だけど、エリック」
「大丈夫なんだよ。祥子は色々話してくれるしね」
「話なんていくらでも誤魔化せますよ」
「…」

ギクリとした。そんな事、思ってもみなかった…と思う。

「それに、同じ部屋に皆居る訳じゃないですよ。夜中なんか、ねぇ」
「…」

シェリルがゴシップ記事を読んでその先を想像してるかのようにクスッと笑う。

「エリックは呑気すぎますよ。寂しかったら何するか分からないって言うじゃないですか」
「…」
「それにシドだってまだ若いですよね。苅谷さんの恋人に見えるもの」
「…そう」

シェリルが俺を見て大慌てでつけたす。

「そんな訳ないですね。あの苅谷さんがそんな事しないですね。ごめんなさい」
「…いいんだ」



家に帰ってコーダの首を撫でながら、シェリルの言葉を繰り返していた。

「祥子がシドと」

ありえない事じゃない。ひとつ屋根の下、何が起こってもおかしく…ない。ない…けど。

「俺だって、シェリルと何してんだ、って思われてるかもしれないじゃないか」

 クー

「あ。コーダ、ごめん。毛まで引っ張っちゃったな。ごめんな」



祥子が朝から他の公演会に出てても、夕方になると定期演奏会の練習に戻ってくる。俺と合わせてもいつもの祥子の音だ。俺の音と重なると甘く(ささや)いてくる。

 エリック、好きよ

それが終わる時に、シェリルから連絡が入る。

「祥子、いつも送っていけなくてごめん」
「大丈夫よ。シドが居なかったらタクシー使うわ」

別れ際に軽くキスをしていくものの、俺は祥子を疑ってるのかもしれない。
祥子はシドの家で起こった事を話してくれる。その話に漏れはないのだろうか。

「祥子の音は俺の音と重なってるじゃないか。祥子を信じなくてどうするんだ」

祥子が出て行った戸を見て呟いている。

(俺が祥子をシドと二人きりにしてるじゃないか)

そう気づいて頭を振った。



「エリック、明日の日曜日、オフよね。デートしましょ」

お決まりの様になったシェリルからの電話の後で、祥子が俺を誘う。久々で嬉しくなってる俺だが、明日はもう予定があった。

「悪い。明日もシェリルの練習相手をしなきゃならないんだ」
「一日中じゃないんでしょ?」
「大学のほうに行くから、帰りが何時になるか分からない。教授達に挨拶したいし」

これは本当だ。昨日、「エリックに練習見て貰ってるって言ったら、教授達がつれて来いって。日曜日に行きましょうよ」とシェリルに言われて、懐かしさも手伝って約束していた。教授達に会うとどこまで引っ張りまわされるか分からない。

「夜中でもいいの。明日、少しだけでも会いたいのよ」

祥子が残念そうに、それでも笑顔を出した。その顔を見て、シェリルとの練習だけだったら、祥子とデートのほうがいいと思っていた。

「何かあるのか? 会わなきゃだめか?」
「…いいわ。また今度でも」
「ごめん。今度埋め合わせするから」
「楽しみにしてる」

祥子のキスを受け止める。部屋を出て行こうとする祥子を見て、俺の口が自然と開く。

「祥子は(シドと何もないよな?)」

咄嗟に声を止めた。

「え?」

聞き返そうと振り向いた祥子を眼に入れて、俺は大慌てになっている。

「…何でもない。おやすみ」
「おやすみなさい」

(信じないでどうすんだ!)

閉まった戸を見て思っていた。



「うっとうしい雨ですね」
「そうだな」
「じゃ、初めからいきますね。エリックも合わせて下さい」
「シェリルが合わせるんだ」
「あ、そうでした」

練習所でシェリルと練習を終えて、遅くなったがお昼に向かう。大学に行く途中のショッピングモールに入った。

「美味しいお店知ってます。行きましょう」

シェリルに腕を組まれて引っ張られた。

「おいおい」

俺の声を聞いて、シェリルはすかさず辺りを見回す。

「大丈夫です。苅谷さんは居ませんよ。私達の半径10m以内に黒髪の女性はいませんよ」
「そう」

何となくホッとしてる。こんな瞬間でも祥子には見られたくなかった。
昼食を取ってから、シェリルが買い物をしたいからと店に連れていかれた。
その途中で、マリーが友達とベンチに座ってジェラートを食べているのを見かけた。

シェリルの買い物が終わり、大学に向かう為に来た道を戻る。

今度はマリーじゃなくシドが座ってた。シドがさっきマリーと喋ってた女性と一緒にいた。

(シドも彼女が居たんだ。知らなかった)

二人が恋人に見えたからそう思った。二人で楽しそうに喋っていたから、女性の顔を見る事が出来た。

(祥子もここの人間だったらあんな感じなのかな)

祥子にどことなく似ている女性を見て、昨夜、祥子が言った言葉を思い出す。

 「夜中でもいいの。明日、少しだけでも会いたいの」

(夜、電話掛けよう)

そう、心に決めた。



教授達とホイリゲ(ワイン居酒屋)に行き盛り上がる。懐かしい話から今の事迄、話は尽きない。俺とシェリルが開放されたのは夜も更けた時間になった。

「酔っ払っちゃいましたね」

シェリルも飲んでたようだ。楽しそうに笑う。つられて笑う。俺は気をつけていたんだが飲みすぎていたようだ。

「おっと」
「エリック、大丈夫ですか?」
「あぁ。悪い」
「ちょっと酔いを醒ましたほうがいいですね。入りましょう」
「そうだね」

眼についた店に入った。

「俺、飲むのはもういいな」
「私はカクテル頼みます。まだ飲み足りなくて」
「シェリルは強いんだな」
「そう言われますよ」

そう笑ってたシェリルの前に出されたカクテルは透明で綺麗だった。一口飲んだシェリルが口を押さえた。

「想像してた味と違う」
「苦いのかい?」
「エリックも試しに飲んでみたら?」
「なら、一口。…甘いじゃないか。飲みやすいよ」
「これエリックに飲んで貰お。私、これ頼んでみよ」

ピンク色のカクテルが置かれた。シェリルが一口飲んで、それが俺の前に来る。
シェリルがカクテルを頼み、それを俺が飲むはめになっている。

「シェリル。…程々に…」
「エリック、大丈夫? もう帰りましょう」

店を出た時には、足元がおぼつかない。頭がボーッとしてるのに、しなきゃいけない事がひとつだけ、それだけ鮮明に浮かんでる。…祥子に電話…しなくちゃ。
…電話

「祥子に…電話…」
「苅谷さんに迎えに来てもらいますから」



祥子の香りがする。俺の直ぐ傍でフワリと香る。
そうか。俺、祥子に電話して…シドの家?
重い瞼を少し開けて勝手に流れて行く視線で、シドの家じゃない景色を受け取った。
なら、祥子がホテルをとって連れて来てくれたのか。

「祥子、…ごめん。…眠い」
「いいのよ。ゆっくり休んで」

遠くで声が聞こえてきた。また、フワリと祥子の香りがした。俺はゆっくり眼を閉じる。
祥子が何かをしている。俺に触れている。唇の感触を受ける。

「Ich liebe Sie (愛してるわ)」

二人きりの時は英語で会話しているのに、今はドイツ語だ。祥子がドイツ語で「愛してる」と言うのは初めてだ。夢現(ゆめうつつ)の中の俺にそれは…。

「…祥子……それ………ズル…イ…」

祥子の香りの中で眠りに落ちていこうとして、なかなか落ちていけない。祥子が邪魔をする。

「祥子…ダメ…だよ……気持ち…い……い…」

ストンと頭の中の暗闇に落ちていった。



「うっ! 痛っ!」

ズキズキとする頭を起こして眼を開ける。横に居るはずの祥子が居ない。祥子の香りは残されたままだ。

「あ、俺、祥子と…」

慌てて自分の体を触ってみて気づく。それなのに覚えてない。いや、わずかに残されている。でも、これは…。ゴミ箱を見ても使った形跡がない。

(やばいぞ。祥子はそれでも…良かったのか?)

カチャリと戸が開く音がしたから顔を向けると、モアッと湯気が立った中に祥子が…。

「えっ?!」
「エリック、気分は大丈夫ですか」
「…シェリル」

驚いてる俺の前に、シェリルが近づいてくる。
ベッドの俺の横に腰掛ける。フワリと祥子と同じ香りがシェリルからしている。

(祥子と同じ香りだから…気づけなかった)

「シェリル、俺…」

シェリルは俺を見ないで床を見つめる。

「エリックが帰れそうもなかったから、ここに連れてきたんです。私が帰ろうとしたら、苅谷さんと間違えて…」

シェリルは胸元を隠す様に手で襟を寄せた。

「シェリル。悪かった」
「…エリックは酔ってたんだもの。…私、初めてじゃないから、気にしないで下さい」

そう言って、顔を俺に向けないで眼を擦った。

「…でも」
「そろそろ始まるから安心して下さい」
「もし」
「その時はエリックに言いますから」
「…そう。…ごめん」
「私、エリックの事好きになってたから、拒めなかったんです。酔っ払い位、簡単に拒めたのに出来なかった」

そう言って、シェリルが俺にキスをしてきた。俺はそのキスを拒めなかった。
フワリと祥子の香りだ。

「シェリル…その香水…」
「これ苅谷さんと同じ香水なんですよ。いい香りだから苅谷さんに聞いたの。ここじゃ売ってなくて日本から取り寄せたんです」
「…そう」



シェリルと別れ、俺は午後から練習所に行った。
IDを通してたら、エドナに見つかった。

「エリック、遅刻よ」
「あぁ」
「何よ。その気の抜けた返事は。あ、そうだ。エリックも驚いたんでしょ。祥子があんなに変わるなんて思わなかったわ」
「え?」
「「え?」って? 昨日、祥子にお祝いしたんでしょ? あ、電話だわ」
「 ? 」

エドナが電話を取ったから、俺は訳がわからないまま、自分のパートの練習部屋に向かう。

「祥子にお祝い? 俺が驚く?」

小部屋に荷物を置いた時、携帯に着信があったのに気づく。昨夜祥子から着信してる。
メッセージを聞く。

 「エリック。祥子です。あのね、今日、私ひとつ歳をとったの」

それを聞いて俺は息を呑みこんだ。少し間が開いて、また祥子の声が聞えてくる。

 「黙っててごめんなさい。おやすみなさい」

「誕生日だって知ってたら…くそっ」

 バンッ

机に拳を打ちつけた音を、壁が大きく反響させた。



祥子に合わせる顔は無いが、俺は早目に祥子との練習部屋に入る。

(祥子に謝って)

祥子と別れるなんてしたくない。

(おめでとうを言って…シェリルの事は言わなくて…いい)

 カチャッ 

戸が開いて誰かが入って来る。祥子かと思ってたから俺は慌てている。そんな俺を見て、入って来た女性が笑う。

「エリックのほうが早かったのね」
「え?」
「やだ。私よ。祥子」
「祥子?」
「エリックも驚いちゃうのね。髪の毛の色が残っちゃったから」

そう言って、持って来たフルートケースを机に置いた。俺が祥子に贈ったケースだ。
俺が何も言わないから祥子が俺の傍に来る。祥子なんだけど、髪の毛の色が違う。瞳の色も。

「驚くよね」
「眼…」
「これ、カラーコンタクトなの。昨日、マリーが変身させてくれたの。この姿でシドとマリーが植物園に連れて行ってくれたのよ。その後買い物してきたの」

昨日の楽しそうにシドと話してた女性と目の前の祥子が一致した瞬間、シェリルが話してた事が頭の中で響いた。

「寂しかったら何するか分からないって言うじゃないですか」「それにシドだってまだ若いですよね。苅谷さんの恋人に見えるもの」

俺の中で何かが湧き上がる。

「そう」

つっけんどんに返していた。それを聞いて祥子が俺を覗き込んだ。なんとか俺は視線を合わせる。

「エリックは嫌だった?」
「似合わない」
「皆、似合うって言ってくれたんだけど」
「これじゃ祥子じゃない」
「私じゃないみたいで楽しかったの」
「なら、その姿で夜は何してたんだい?」

祥子が驚いた顔で俺を見た。

「夜はパーティを開いてくれて、お開きの後は、エリックからの電話を待ってた」
「…」

祥子じゃない姿なのに、そこに居るのは紛れも無く祥子だった。祥子に返す言葉が無い。自分の事を棚に上げて、祥子に嫉妬して八つ当たりしてる自分が情けなくなった。
祥子は俺が怒ってると思ったようだ。

「ごめんなさい。コンタクトは直ぐに外せるから」

部屋を走り出て行って直ぐに戻ってきた。

「ごめんなさい。髪の色は今夜頑張っておとすから」

そう言って俺を見る瞳はいつもの祥子の瞳。

「祥子、ごめん。祥子は悪くない。悪いのは…俺だ」
「エ、エリック?」

祥子を抱き締めている。祥子の香りがする。この香りに俺は…。

「エリック。練習始めなきゃ」
「祥子、ごめん。今日はこのままでいたい。祥子を抱き締めていたい」
「でも…」

祥子を抱き締めるのは、これが最後かもしれない。

「ごめん。…祥子…ごめん」
「エリック、どうしたの?」

ドキリとしたけど、誤魔化す。

「誕生日おめでとう。遅れてごめん」

祥子の腕が俺に絡みつく。

「ありがとう。エリックのおめでとうが一番嬉しい」
「…祥子」

俺は力一杯抱き締めていると思う。それでも祥子は静かに俺に抱かれていた。
祥子と俺の息継ぎだけが聞えてきていた。

いつもの携帯の着信音で終わりになった。
祥子から離れ、シェリルと話す。

「祥子、ごめんな」
「うん。シドと帰るわ。今日はエリックのここに居れたから嬉しかったわ」

祥子がトンと俺の胸を指で突いて笑った。俺はその顔を見てズキンと胸が痛んだ。

「祥子」
「何?」
「明日から、俺、パートの方を見てやらなきゃならないんだ。だから」
「分かった。今日迄なのね」
「そう」
「一緒に帰れる時があったら早目に連絡して」
「分かった」
「おやすみなさい」
「おやすみ」

祥子が軽くキスをする。部屋を出ようと背中を向けた祥子の腕を俺は掴んで引き寄せる。

「エリック、な」

祥子の唇を塞ぐ。

「祥子、ごめん。…おやすみ」
「ありがとう」

嬉しそうに笑う祥子の顔を、俺は泣かせてしまうのだろうか。
祥子の背中を見送りながら思っていた。


- TO BE CONTINUED -
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